妹の指
8
面接のときはひどく緊張した。
親と学校の先生以外で、年齢が離れている大人と接することが久し振りだったからだ。
所長に当たる人が、ぼくの面接を担当してくれた。その人は、小柄で色黒の五十代半ばぐらいの男性だった。仕事は室内のはずなのに、不自然なほど肌が褐色だったことが少しだけ気になった。
そのときは、高校を卒業してから、三ヶ月ほど過ぎたときだった。面接先を決めるのにそれだけかかってしまった。
その日は、風がひどく強い日で、ぼくは自転車で行ったのだけれど、前進することがとても大変だった。
ぼくたちには自転車は一台しか与えられていなかった。ぼくは一人一台を母親に要求したのだけれど、母親は一台しか買ってもらえなかった。
向かい風は紗英が選んでくれたジャケットをたなびかせていた。
髪の毛も風に流されて、おでこが露わになっていた。ぼくは普段は前髪を下ろしている。おでこに吹き出物ができやすかったからだ。前髪を下ろしているから、逆にできやすいのだろうけれど。
そのときも、大きな吹き出物がおでこの中心にできていた。小さな子どもの小指の一関節ほどの。人とすれ違うたびに、ぼくは、笑われているのではないだろうか、と思って、ペダルを漕ぐ足には、めいっぱい力を込めていた。
ショッピングモールには約束の時間の四十分前には着いてしまった。
ぼくは約束の時間までトイレの個室の中にいた。はじめは座っていたのだけれど、緊張していたのか、落ち着かずに、個室の扉に頭を預けてから目を閉じていた。
時間が近づいてきて、個室を出て、鏡の前に立ってから、自分の姿を確認してみた。
そこには父親の皮を被った、ぼくではない人間の姿が映っていた。向かい風のせいで、髪の毛は、様々な方向に乱れていた。ぼくは手を濡らしてから、少しだけ髪の毛を整えた。
ぼくは一瞬だけ吐き気を覚えたけれど、紗英の大切な父親の洋服なのだ。吐いてしまい、汚(よご)してしまうわけにはいかなかった。
ぼくは唾を飲み込んで、吐き気を無理やり押さえ込んだ。
それから指定されていた事務所に向かった。
ドアをノックすると、中から、上から何かで潰されて、顔も体も横に伸びてしまったような女性が出てきた。
その人に名前を告げると、事務所の中に入れてくれた。
事務所は驚くほど小さくて狭かった。それに、なんだか独特な臭いがした。
二つある机の一つに所長は座って、黒いマグカップで何かを飲んでいた。
女性がパイプ椅子を用意してくれて、所長の前に置いた。
「どうぞ・・・・・・」
その女性は、どうやら日本のひとではなかったようだった。
ぼくは、「失礼します」と言って、その椅子に腰掛けた。
所長はコップの中の飲み物を一気に口の中に流し込んだ。それから言った。
「じゃあ、履歴書を見せてもらえる?」
「はい・・・・・・」
ジャケットの内ポケットから履歴書を取りだしてから、ぼくはそう言った。
そして、賞状を手渡すように、履歴書を所長に渡した。
「ふーん。なんで、うちを受けたの?」
ほんの何秒かだけ履歴書に目を通してから、所長はそう言った。
「理由は特にないです・・・・・・。」
「そう。じゃあ、来週の月曜かから来てもらえる?」
「え・・・・・・?」
「ん? 来週からは無理だった?」
「いえ、あの・・・・・・それは、採用ってことですか?」
「そう。働きたいんだよね?」
「はい」
面接で覚えている会話はそれだけだった。
後は所長がぼくにとってはどうでもいいような会話をしていた覚えがある。
最後に服のサイズと靴のサイズを聞かれて、事務所を後にした。
去り際に、お辞儀をしたのと同時に、恐らくは聞こえないぐらいの声で、「失礼します」と言った。
「おう、来週からよろしく頼むな」と、ぼくのほうは見ずに煙草に火をつけながら、所長はそう言った。
最初に出てきた女性は、とても柔和な笑顔で、ぼくを見送ってくれた。
ショッピングモールを出ると、風は止んでいたけれど、今にも地上に落ちてきそうな重たい雲が立ちこめていた。一雨きそうだった。
ぼくは急いで帰ろうと思い、自転車の鍵を開けようとした。
そのときに、左手の親指が切れていることに気が付いた。どこで切ったのだろうか。
少しだけれど、血も出ていたので、ぼくは自分の舌で舐めた。
その感触は、紗英が舐めてくれたものとは、何もかもが違った。
つい数か月前のことなのに、最後にお互いの親指を舐め合ってから、もうずいぶんと時が流れている気がした。
あのときに、紗英が言った言葉が、今も頭の中にはこびりついて剥がれない。
「お父さん・・・・・・」
ぼくにとってはただの記号でも、紗英にとっては、特別な響きを持つ言葉。
ぼくは息を一つ吐いてから、自転車のスタンドを蹴り上げた。
親と学校の先生以外で、年齢が離れている大人と接することが久し振りだったからだ。
所長に当たる人が、ぼくの面接を担当してくれた。その人は、小柄で色黒の五十代半ばぐらいの男性だった。仕事は室内のはずなのに、不自然なほど肌が褐色だったことが少しだけ気になった。
そのときは、高校を卒業してから、三ヶ月ほど過ぎたときだった。面接先を決めるのにそれだけかかってしまった。
その日は、風がひどく強い日で、ぼくは自転車で行ったのだけれど、前進することがとても大変だった。
ぼくたちには自転車は一台しか与えられていなかった。ぼくは一人一台を母親に要求したのだけれど、母親は一台しか買ってもらえなかった。
向かい風は紗英が選んでくれたジャケットをたなびかせていた。
髪の毛も風に流されて、おでこが露わになっていた。ぼくは普段は前髪を下ろしている。おでこに吹き出物ができやすかったからだ。前髪を下ろしているから、逆にできやすいのだろうけれど。
そのときも、大きな吹き出物がおでこの中心にできていた。小さな子どもの小指の一関節ほどの。人とすれ違うたびに、ぼくは、笑われているのではないだろうか、と思って、ペダルを漕ぐ足には、めいっぱい力を込めていた。
ショッピングモールには約束の時間の四十分前には着いてしまった。
ぼくは約束の時間までトイレの個室の中にいた。はじめは座っていたのだけれど、緊張していたのか、落ち着かずに、個室の扉に頭を預けてから目を閉じていた。
時間が近づいてきて、個室を出て、鏡の前に立ってから、自分の姿を確認してみた。
そこには父親の皮を被った、ぼくではない人間の姿が映っていた。向かい風のせいで、髪の毛は、様々な方向に乱れていた。ぼくは手を濡らしてから、少しだけ髪の毛を整えた。
ぼくは一瞬だけ吐き気を覚えたけれど、紗英の大切な父親の洋服なのだ。吐いてしまい、汚(よご)してしまうわけにはいかなかった。
ぼくは唾を飲み込んで、吐き気を無理やり押さえ込んだ。
それから指定されていた事務所に向かった。
ドアをノックすると、中から、上から何かで潰されて、顔も体も横に伸びてしまったような女性が出てきた。
その人に名前を告げると、事務所の中に入れてくれた。
事務所は驚くほど小さくて狭かった。それに、なんだか独特な臭いがした。
二つある机の一つに所長は座って、黒いマグカップで何かを飲んでいた。
女性がパイプ椅子を用意してくれて、所長の前に置いた。
「どうぞ・・・・・・」
その女性は、どうやら日本のひとではなかったようだった。
ぼくは、「失礼します」と言って、その椅子に腰掛けた。
所長はコップの中の飲み物を一気に口の中に流し込んだ。それから言った。
「じゃあ、履歴書を見せてもらえる?」
「はい・・・・・・」
ジャケットの内ポケットから履歴書を取りだしてから、ぼくはそう言った。
そして、賞状を手渡すように、履歴書を所長に渡した。
「ふーん。なんで、うちを受けたの?」
ほんの何秒かだけ履歴書に目を通してから、所長はそう言った。
「理由は特にないです・・・・・・。」
「そう。じゃあ、来週の月曜かから来てもらえる?」
「え・・・・・・?」
「ん? 来週からは無理だった?」
「いえ、あの・・・・・・それは、採用ってことですか?」
「そう。働きたいんだよね?」
「はい」
面接で覚えている会話はそれだけだった。
後は所長がぼくにとってはどうでもいいような会話をしていた覚えがある。
最後に服のサイズと靴のサイズを聞かれて、事務所を後にした。
去り際に、お辞儀をしたのと同時に、恐らくは聞こえないぐらいの声で、「失礼します」と言った。
「おう、来週からよろしく頼むな」と、ぼくのほうは見ずに煙草に火をつけながら、所長はそう言った。
最初に出てきた女性は、とても柔和な笑顔で、ぼくを見送ってくれた。
ショッピングモールを出ると、風は止んでいたけれど、今にも地上に落ちてきそうな重たい雲が立ちこめていた。一雨きそうだった。
ぼくは急いで帰ろうと思い、自転車の鍵を開けようとした。
そのときに、左手の親指が切れていることに気が付いた。どこで切ったのだろうか。
少しだけれど、血も出ていたので、ぼくは自分の舌で舐めた。
その感触は、紗英が舐めてくれたものとは、何もかもが違った。
つい数か月前のことなのに、最後にお互いの親指を舐め合ってから、もうずいぶんと時が流れている気がした。
あのときに、紗英が言った言葉が、今も頭の中にはこびりついて剥がれない。
「お父さん・・・・・・」
ぼくにとってはただの記号でも、紗英にとっては、特別な響きを持つ言葉。
ぼくは息を一つ吐いてから、自転車のスタンドを蹴り上げた。