妹の指
9
紗英の指を最後に舐めたのは、ぼくが高校三年生で、紗英が高校二年生のときだった。
中学に上がる頃には、心の鍵の開け閉めは、ずいぶんと上達していたように思う。学校に行って、ただ自分の机についている分には特に問題はなかった。
自宅を出る前に鍵を掛けて、住みかに戻るまでは、鍵は掛けたままだった。
その頃には、ぼくの姿はより奇怪になっていた。横幅は変わらないままで、縦にだけやけに伸びてしまった。縦に伸びたぶん、上半身の前傾はよりひどくなっていた。
紗英は身長に関してはさほど変化はなかったけれど、顔に関してはいっそう完成に近付いていた。
ぼくはあからさまないじめを受けることはなかった。でも、それ以上に、ぼくのことは誰の目にも映っていなかったように思う。空気にさえもなっていなかった。
中学校に三年間、通えたのは、やはり紗英の存在が大きかった。中学校では紗英との物理的な距離は小学校のときよりも近かった。
学年が違うので、同じ教室になることは、もちろんなかったけれど、教室自体は、小学生の頃よりも、ずっと近くだった。三年間の中で、校舎が離れることはなかった。
紗英が近くにいると思えば、ぼくの心に波は立たないで、いつも穏やでいられた。
高校には行きたくはなかった。中学までは義務教育だし、行かざるを得なかったけれど、高校は違う。
でも、母親がこう言った。
「高校までは行きなさい」
それに、「通わせてあげるから」とも言った。
でも、それは、ぼくの将来を考えての発言ではないことぐらいは分かっていた。
母親は世間体をひどく気にする人だったから。自分の子供が中卒だと周りに知られるのが嫌だったのだろう。
小学校も中学校も同じだけれど、ぼくのほうが紗英よりも一つ年が上なので、先に学校に入学することになる。
高校でもとうぜんそうだった。
ぼくは怖かった。今までは同じ敷地内に紗英がいてくれたけれど、高校ではそうはいかない。
「貴利。わたしも、同じ高校を受験するからね。安心して」
紗英はすっかりと大人びた顔でそう言ってくれた。
紗英の成績ならば、ぼくが受験した高校よりも、何ランクも上の高校に受かっただろう。
でも、ぼくは、素直にうれしかった。
また、紗英が近くにいてくれる。家でも学校でも。
ただ、あいかわらず、友達は一人もいなかった。
中学の頃からそうだったけれど、紗英の周りには女子だけではなくて、ぼくとはとうてい気が合いそうもない男子がいつも数人はいた。
家に連れてくることなんてなかったけれど、紗英は外で過ごす時間が多くなっていた。
それでも、紗英はその男子たちに、手を握ることさえ許さなかったようだ。本当かどうかは分からないけれど、真っ直ぐにぼくを見てから、まばたきを一度もしないで紗英はそう言った。それに、なんとなくだけれど、雰囲気や空気感、においでそうだと感じ取れた。
紗英に触れたことがあるのは、父親とぼくだけだ。それは、うれしくもあったけれど、父親とぼくだけ、だということに嫌悪感は覚えた。紗英は父親の代わりとして、ぼくに親指を舐めさせていたただけではないのだろうか。
自分が高校生になって感じたことだけれど、周りのクラスメイトは、小学校のまま高校生になったような人間ばかりだった。
ぼくも大人だったわけではない。
ただ、あのとき、父親に怪我を負わせた高校生たちと何ら変わらないように思えた。
高校は少しでも早く卒業したかった。いくら心に鍵を掛けられたとしても、わずかな隙間からでも、嫌な空気は流れ込んで来るものだから。
それは、自宅で紗英と話すことだけで、浄化することができた。
高校を卒業しても、次はより大きな社会に縛られて生きて行かなくてはいけない。監獄のような学校を卒業しても、ただ、籠の大きさが変わるだけなのだ。結局は、その中で、自分の生きかたを見つけていくしかない。
それでも、学校のような小さな籠のような監獄よりかは大きな世界になる。
そんな風に思えるぐらいには、ぼくはなっていた。それが成長したことなのかどうかは分からなかったけれど、ぼくの心にも変化は訪れていた。
紗英と自宅で話をしていると、ふいに思い出す光景があった。
お互いの親指を舐め合っていた、あの頃だ。
その光景を思い出すと、とたんに紗英の顔を直視できなくなる。恥ずかしいと言うよりも、紗英の大切な部分を知っている自分の責任というか、罪にさえも感じていた。
高校卒業を間近に控えたときに、紗英が言った。
「貴利・・・・・・。こっちに来て・・・・・・」
ぼくの心臓は急速に動き始めた。
ぼくはまたあの行為がはじまるのだろうか、と思ったけれど、それは違った。
ぼくが紗英の元に寄ると、紗英はぼくの頭を二度ほど撫でてくれた。
そして言った。
「よくがんばったね。高校までよく通ったね」
「紗英のおかげだよ・・・・・・」
「それでも、通ったのは貴利だよ」
「ありがとう」
「うん」
年を重ねても変わらない笑顔で、紗英はそう言った。
その日は、ひどく寒い日だった覚えがある。
学校は冬休みに入っていた。
母親の部屋にはエアコンが付いていたけれど、ぼくたちの住みか。台所とダイニングのスペースには、とうぜん、エアコンなんて設置されてはいなかった。
床の冷たさは体全体に容易に冷たさを伝えるほどで、ぼくは靴下を二重に履いてやり過ごしていた。それでも、小指がしもやけのようになっていたけれど。
紗英は寝間着の上に、着ていて暖かく感じるのか分からないほど薄手のカーディガンを羽織って勉強していた。ただ、色は赤で、紗英によく似合っていた。
ぼくはそのとき読書をしていた。
本を買うお金なんて貰えなかった。
一度だけ、母親に申請書を提出したことがある。その場で却下されたけれど。「図書館で借りなさい」という言葉と一緒に。
結局、ぼくは学校の図書室で借りた本を読んでいた。
高校に上がる頃には、絵とは呼べない図形を描くことはほとんどなくなっていた。 紗英はぼくが学校に対して感じていた嫌悪感を知っていたので、そんなぼくに対して、あることをしてくれた。
一年ごとに、ぼくにプレゼントをくれたのだ。それは特に誕生日にもらえるものでもなかった。
でも、それらは、確実に、学校には居場所がないぼくを守ってくれていた。
中学一年生のときには、紗英が小学校のあいだ、大切に使っていたヘアピンをプレゼントされた。もちろん、ぼくにはヘヤピンを使う趣味なんてなかったけれど、それでも、とてもうれしかった。
中学二年生のときは、ハンカチをプレゼントしてもらった。男性用ではなかったので、学校で人目に付くことは避けたけれど、いつもポケットの中にしまっておいた。とても肌触りの良いハンカチだった。
中学三年のときには、どこで手に入れたのかは分からないけれど、とてもきれいな石をプレゼントされた。それは、不思議な石だった。色は深い青色で、鉱石のような石だった。じっと見つめていると、石の中に吸い込まれそうなほどの魅力を秘めていた。
それらのプレゼントがあったから、ぼくは三年間を乗り越えられたはずだ。
三年生のときには、全てのプレゼントをポケットに入れていた。左右と、後ろの右側のポケットに。
ぼくは教室で嫌なことがあるたびに、ポケットの外に手を添えて、目を閉じていた。そうすれば、心が洗われたような気になれた。三つのポケットに同時に触れることはできないので、ぼくは順番で触れていた。一番目に貰ったプレゼントから順に。
高校に入学してからも紗英のプレゼントは続いた。
中学校と高校を卒業できるまでになれたのは、本当に紗英のおかげだった。
「ねえ、貴利・・・・・・」
教科書とノートを閉じてから、紗英がふいにそう言った。
その言葉はぼくの鼓動を急激に加速させた。自動車ならば、スピード違反になるほどに。紗英のその言葉は、あの行為のきっかけだったから。
ぼくはなるべく平静を装ってから言った。
「ん? どうしたの?」
「貴利は……、高校を卒業したらどうするの?」
真っ直ぐにぼくを見据えてから、紗英はそう言った。
拍子抜けしたけれど、動揺した素振りは見せないように意識してから、いつも通りの目で紗英を見据えた。
ずいぶんと久しぶりに、紗英の顔を真正面から見た気がした。本当に綺麗に美しく育った。兄妹でそんな風に思うことはおかしいのだろうか。でも、兄妹だからこそ、そう思ったのかもしれない。
「・・・・・・。どうしたらいいかわからないよ。でも、もう学校には行きたくない。学校に行っても、ただ息苦しいだけだし。それに、大学になんて行けないよ。どうせ……」
「うん、そっか。そう……、それは、私も言われた」
紗英はそう言って、一瞬だけ陰のある顔をしたけれど、すぐに表情を変えてから、ぼくに笑いかけてくれた。その笑顔は、当時住んでいた家で、ぼくの部屋にこっそり遊びに来てくれていたときに見せていた笑顔そのままだった。
ぼくはなんだかうれしかった。
「鍵の開け閉めがだいぶ上手くなったから、なんとかやってはいけるかもしれない……」
ぼくは唐突に、当たり前のようにそう言ったけれど、それは、紗英にすらそのときにはじめて言ったことだった。
「鍵の開け閉め?」
小さな頭を左右に何度か揺らしてから、紗英は不思議そうにそう訊ねてきた。
「うん、そうだよ」
「嫌なことの前には、自分で心に鍵をかけるんだ。まずは、自分の分身を作る。心の中に。そいつはずいぶんと小さな奴なんだ。ぼくの心の中に作るぐらいだからね。それで、心の部屋の中にそいつを入れて、ぼくが外から鍵をかけるんだ。そうしたら、もうその中には、嫌なことはいっさい入り込めなくなる」
「つらくないの?」
「なにが?」
「自分の分身を閉じ込めたりして・・・・・・」
「つらくないよ。そのあいだは、分身がほんとうのぼくだから。教室にいるのは、仮初めのぼく。ただ、ぼくの形をしたなにか。人形ですらない。それに、学校にいるあいだだけだしね」
そう言った後、ぼくは紗英から視線を逸らした。
「なに?」
「うん、それに、家に帰れば紗英がいるから・・・・・・」
それは異性への告白のように、ぼくは感じた。もちろん、異性に告白なんてしたことはないのだけれど。
「ありがとう」
そう言われて、紗英は恥ずかしかったのか、無造作にノートを開いて、パラパラとさせた。
それからこう言った。
「高校を卒業したら、またなにかプレゼントするからね」
「ほんとに?」
「うん、ほんと。どれだけ貴利の役に立つかはわからないけど・・・・・・」
じゅうぶん過ぎるほど役に立っているよ。それは言葉にしないで、ぼくはできるかぎり優しい笑顔を作ってから、紗英の言葉に応えた。
「ねえ、貴利・・・・・・」
さきほどと同じ言葉だったけれど、今回は明らかに違いがあった。声に湿り気というか、何か、ぼくの心の中の欲動を呼び覚ますような、扇状的な響きを含んでいた。
「うん」
「学校で言われたんだ。同じクラスの女子に。あんた、ほんと男好きだね、って。それで、そうだとは思わない、って返したの。そしたら、あんた、男とっかえひっかえじゃん、って言われた。私はただ、誘ってくれた男の子と遊んだだけなのに。だって、断るのも悪いでしょ。私、付き合っている人もいないし、別に誰と遊んでも問題ないのに・・・・・・」
そこまで言うと、紗英は軽く息を吐いてから目を伏せた。
それでも、まつげは気持ちと反するように、力強く上を向いていた。
「紗英は悪くないよ。ぼくが言っても、説得力なんてないかもしれないけど・・・・・・」
「ううん、そんなことないよ。貴利がそう言ってくれるなら大丈夫。ありがとう」
いまにも泣き出しそうな目のままで、紗英はそう言った。
「うん、それならよかった」
「私にとって、男の人は、お父さんと貴利だけなのに・・・・・・」
囁くように、呟くように、紗英はそう言った。それでも、ぼくにはハッキリと聞き取れた。ただ、「お父さん」という言葉は、ぼくの心の奥底の紗英以外は絶対に入ってこられない領域にまで、ぬるっと、油が染み込むように浸食してきた。
ぼくは何も返さないで、ただ、紗英の顔の横の空間を見ていた。
次に紗英に視線を合わせたとき、紗英は右手の親指を立ててから、それをじっと見つめていた。
「ねえ、貴利・・・・・・」
今回は間違いない。それは、直感的に分かった。
「うん」
そう言うと、ぼくは紗英に近寄った。
ぼくが近寄らなければ、紗英からこちらに来そうではなかったから。
紗英の目はぼくを映しているはずなのに、遠くの景色をぼんやりと見ているような揺れ方をしていた。
「はい・・・・・・」
「うん」
ぼくはそう言うと、紗英の右手をそっと掴んでから、自分の口元に手繰り寄せた。
「いい?」
ぼくの問いに、紗英は少しだけ顎を引いてから応えた。
ずいぶんと久し振りのことだったので、戸惑いもあったけれど、それ以上に紗英を癒してあげたかった。
ぼくにしかそれはできない、と思った。そう、思い込みたかっただけかもしれないけれど。
ぼくは紗英の右手を両手でそっと包み込んだ。
それから、親指でさえも、細くて長い、紗英のそれを一舐めした。
紗英の味がした。
紗英は喘ぎ声には足りないけれど、ぼくの欲動を呼び覚ますにはじゅうぶんなほどの声を出した。
ぼくはそれから、無心で何度か、紗英の親指の腹を丁寧に舐めた。
紗英はそのたびに、肩を微かに震わせて、ぼくに応えてくれた。
ぼくの鼓動が紗英にも聞こえているかも、と思って、最後の一舐めをしようとしたとき。
固く締めていたはずの蛇口から、水一滴が滴り落ちたかのように、紗英がふと言った。
「お父さん・・・・・・」
ぼくはその言葉を聞いて、一瞬、いま自分がどこにいるのかが分からなくなった。突然まったく知らない土地に置き去りにされたような感覚だった。
ぼくは、なんとか意識を繋いで紗英を見た。
すると、紗英は泣いていた。
表情は何一つ変えないで、涙だけを流していた。
ぼくは馬力をなくした自動車のように、ただ、紗英のそばから離れないで、紗英の涙が止まるまで、その場に居座っていた。
中学に上がる頃には、心の鍵の開け閉めは、ずいぶんと上達していたように思う。学校に行って、ただ自分の机についている分には特に問題はなかった。
自宅を出る前に鍵を掛けて、住みかに戻るまでは、鍵は掛けたままだった。
その頃には、ぼくの姿はより奇怪になっていた。横幅は変わらないままで、縦にだけやけに伸びてしまった。縦に伸びたぶん、上半身の前傾はよりひどくなっていた。
紗英は身長に関してはさほど変化はなかったけれど、顔に関してはいっそう完成に近付いていた。
ぼくはあからさまないじめを受けることはなかった。でも、それ以上に、ぼくのことは誰の目にも映っていなかったように思う。空気にさえもなっていなかった。
中学校に三年間、通えたのは、やはり紗英の存在が大きかった。中学校では紗英との物理的な距離は小学校のときよりも近かった。
学年が違うので、同じ教室になることは、もちろんなかったけれど、教室自体は、小学生の頃よりも、ずっと近くだった。三年間の中で、校舎が離れることはなかった。
紗英が近くにいると思えば、ぼくの心に波は立たないで、いつも穏やでいられた。
高校には行きたくはなかった。中学までは義務教育だし、行かざるを得なかったけれど、高校は違う。
でも、母親がこう言った。
「高校までは行きなさい」
それに、「通わせてあげるから」とも言った。
でも、それは、ぼくの将来を考えての発言ではないことぐらいは分かっていた。
母親は世間体をひどく気にする人だったから。自分の子供が中卒だと周りに知られるのが嫌だったのだろう。
小学校も中学校も同じだけれど、ぼくのほうが紗英よりも一つ年が上なので、先に学校に入学することになる。
高校でもとうぜんそうだった。
ぼくは怖かった。今までは同じ敷地内に紗英がいてくれたけれど、高校ではそうはいかない。
「貴利。わたしも、同じ高校を受験するからね。安心して」
紗英はすっかりと大人びた顔でそう言ってくれた。
紗英の成績ならば、ぼくが受験した高校よりも、何ランクも上の高校に受かっただろう。
でも、ぼくは、素直にうれしかった。
また、紗英が近くにいてくれる。家でも学校でも。
ただ、あいかわらず、友達は一人もいなかった。
中学の頃からそうだったけれど、紗英の周りには女子だけではなくて、ぼくとはとうてい気が合いそうもない男子がいつも数人はいた。
家に連れてくることなんてなかったけれど、紗英は外で過ごす時間が多くなっていた。
それでも、紗英はその男子たちに、手を握ることさえ許さなかったようだ。本当かどうかは分からないけれど、真っ直ぐにぼくを見てから、まばたきを一度もしないで紗英はそう言った。それに、なんとなくだけれど、雰囲気や空気感、においでそうだと感じ取れた。
紗英に触れたことがあるのは、父親とぼくだけだ。それは、うれしくもあったけれど、父親とぼくだけ、だということに嫌悪感は覚えた。紗英は父親の代わりとして、ぼくに親指を舐めさせていたただけではないのだろうか。
自分が高校生になって感じたことだけれど、周りのクラスメイトは、小学校のまま高校生になったような人間ばかりだった。
ぼくも大人だったわけではない。
ただ、あのとき、父親に怪我を負わせた高校生たちと何ら変わらないように思えた。
高校は少しでも早く卒業したかった。いくら心に鍵を掛けられたとしても、わずかな隙間からでも、嫌な空気は流れ込んで来るものだから。
それは、自宅で紗英と話すことだけで、浄化することができた。
高校を卒業しても、次はより大きな社会に縛られて生きて行かなくてはいけない。監獄のような学校を卒業しても、ただ、籠の大きさが変わるだけなのだ。結局は、その中で、自分の生きかたを見つけていくしかない。
それでも、学校のような小さな籠のような監獄よりかは大きな世界になる。
そんな風に思えるぐらいには、ぼくはなっていた。それが成長したことなのかどうかは分からなかったけれど、ぼくの心にも変化は訪れていた。
紗英と自宅で話をしていると、ふいに思い出す光景があった。
お互いの親指を舐め合っていた、あの頃だ。
その光景を思い出すと、とたんに紗英の顔を直視できなくなる。恥ずかしいと言うよりも、紗英の大切な部分を知っている自分の責任というか、罪にさえも感じていた。
高校卒業を間近に控えたときに、紗英が言った。
「貴利・・・・・・。こっちに来て・・・・・・」
ぼくの心臓は急速に動き始めた。
ぼくはまたあの行為がはじまるのだろうか、と思ったけれど、それは違った。
ぼくが紗英の元に寄ると、紗英はぼくの頭を二度ほど撫でてくれた。
そして言った。
「よくがんばったね。高校までよく通ったね」
「紗英のおかげだよ・・・・・・」
「それでも、通ったのは貴利だよ」
「ありがとう」
「うん」
年を重ねても変わらない笑顔で、紗英はそう言った。
その日は、ひどく寒い日だった覚えがある。
学校は冬休みに入っていた。
母親の部屋にはエアコンが付いていたけれど、ぼくたちの住みか。台所とダイニングのスペースには、とうぜん、エアコンなんて設置されてはいなかった。
床の冷たさは体全体に容易に冷たさを伝えるほどで、ぼくは靴下を二重に履いてやり過ごしていた。それでも、小指がしもやけのようになっていたけれど。
紗英は寝間着の上に、着ていて暖かく感じるのか分からないほど薄手のカーディガンを羽織って勉強していた。ただ、色は赤で、紗英によく似合っていた。
ぼくはそのとき読書をしていた。
本を買うお金なんて貰えなかった。
一度だけ、母親に申請書を提出したことがある。その場で却下されたけれど。「図書館で借りなさい」という言葉と一緒に。
結局、ぼくは学校の図書室で借りた本を読んでいた。
高校に上がる頃には、絵とは呼べない図形を描くことはほとんどなくなっていた。 紗英はぼくが学校に対して感じていた嫌悪感を知っていたので、そんなぼくに対して、あることをしてくれた。
一年ごとに、ぼくにプレゼントをくれたのだ。それは特に誕生日にもらえるものでもなかった。
でも、それらは、確実に、学校には居場所がないぼくを守ってくれていた。
中学一年生のときには、紗英が小学校のあいだ、大切に使っていたヘアピンをプレゼントされた。もちろん、ぼくにはヘヤピンを使う趣味なんてなかったけれど、それでも、とてもうれしかった。
中学二年生のときは、ハンカチをプレゼントしてもらった。男性用ではなかったので、学校で人目に付くことは避けたけれど、いつもポケットの中にしまっておいた。とても肌触りの良いハンカチだった。
中学三年のときには、どこで手に入れたのかは分からないけれど、とてもきれいな石をプレゼントされた。それは、不思議な石だった。色は深い青色で、鉱石のような石だった。じっと見つめていると、石の中に吸い込まれそうなほどの魅力を秘めていた。
それらのプレゼントがあったから、ぼくは三年間を乗り越えられたはずだ。
三年生のときには、全てのプレゼントをポケットに入れていた。左右と、後ろの右側のポケットに。
ぼくは教室で嫌なことがあるたびに、ポケットの外に手を添えて、目を閉じていた。そうすれば、心が洗われたような気になれた。三つのポケットに同時に触れることはできないので、ぼくは順番で触れていた。一番目に貰ったプレゼントから順に。
高校に入学してからも紗英のプレゼントは続いた。
中学校と高校を卒業できるまでになれたのは、本当に紗英のおかげだった。
「ねえ、貴利・・・・・・」
教科書とノートを閉じてから、紗英がふいにそう言った。
その言葉はぼくの鼓動を急激に加速させた。自動車ならば、スピード違反になるほどに。紗英のその言葉は、あの行為のきっかけだったから。
ぼくはなるべく平静を装ってから言った。
「ん? どうしたの?」
「貴利は……、高校を卒業したらどうするの?」
真っ直ぐにぼくを見据えてから、紗英はそう言った。
拍子抜けしたけれど、動揺した素振りは見せないように意識してから、いつも通りの目で紗英を見据えた。
ずいぶんと久しぶりに、紗英の顔を真正面から見た気がした。本当に綺麗に美しく育った。兄妹でそんな風に思うことはおかしいのだろうか。でも、兄妹だからこそ、そう思ったのかもしれない。
「・・・・・・。どうしたらいいかわからないよ。でも、もう学校には行きたくない。学校に行っても、ただ息苦しいだけだし。それに、大学になんて行けないよ。どうせ……」
「うん、そっか。そう……、それは、私も言われた」
紗英はそう言って、一瞬だけ陰のある顔をしたけれど、すぐに表情を変えてから、ぼくに笑いかけてくれた。その笑顔は、当時住んでいた家で、ぼくの部屋にこっそり遊びに来てくれていたときに見せていた笑顔そのままだった。
ぼくはなんだかうれしかった。
「鍵の開け閉めがだいぶ上手くなったから、なんとかやってはいけるかもしれない……」
ぼくは唐突に、当たり前のようにそう言ったけれど、それは、紗英にすらそのときにはじめて言ったことだった。
「鍵の開け閉め?」
小さな頭を左右に何度か揺らしてから、紗英は不思議そうにそう訊ねてきた。
「うん、そうだよ」
「嫌なことの前には、自分で心に鍵をかけるんだ。まずは、自分の分身を作る。心の中に。そいつはずいぶんと小さな奴なんだ。ぼくの心の中に作るぐらいだからね。それで、心の部屋の中にそいつを入れて、ぼくが外から鍵をかけるんだ。そうしたら、もうその中には、嫌なことはいっさい入り込めなくなる」
「つらくないの?」
「なにが?」
「自分の分身を閉じ込めたりして・・・・・・」
「つらくないよ。そのあいだは、分身がほんとうのぼくだから。教室にいるのは、仮初めのぼく。ただ、ぼくの形をしたなにか。人形ですらない。それに、学校にいるあいだだけだしね」
そう言った後、ぼくは紗英から視線を逸らした。
「なに?」
「うん、それに、家に帰れば紗英がいるから・・・・・・」
それは異性への告白のように、ぼくは感じた。もちろん、異性に告白なんてしたことはないのだけれど。
「ありがとう」
そう言われて、紗英は恥ずかしかったのか、無造作にノートを開いて、パラパラとさせた。
それからこう言った。
「高校を卒業したら、またなにかプレゼントするからね」
「ほんとに?」
「うん、ほんと。どれだけ貴利の役に立つかはわからないけど・・・・・・」
じゅうぶん過ぎるほど役に立っているよ。それは言葉にしないで、ぼくはできるかぎり優しい笑顔を作ってから、紗英の言葉に応えた。
「ねえ、貴利・・・・・・」
さきほどと同じ言葉だったけれど、今回は明らかに違いがあった。声に湿り気というか、何か、ぼくの心の中の欲動を呼び覚ますような、扇状的な響きを含んでいた。
「うん」
「学校で言われたんだ。同じクラスの女子に。あんた、ほんと男好きだね、って。それで、そうだとは思わない、って返したの。そしたら、あんた、男とっかえひっかえじゃん、って言われた。私はただ、誘ってくれた男の子と遊んだだけなのに。だって、断るのも悪いでしょ。私、付き合っている人もいないし、別に誰と遊んでも問題ないのに・・・・・・」
そこまで言うと、紗英は軽く息を吐いてから目を伏せた。
それでも、まつげは気持ちと反するように、力強く上を向いていた。
「紗英は悪くないよ。ぼくが言っても、説得力なんてないかもしれないけど・・・・・・」
「ううん、そんなことないよ。貴利がそう言ってくれるなら大丈夫。ありがとう」
いまにも泣き出しそうな目のままで、紗英はそう言った。
「うん、それならよかった」
「私にとって、男の人は、お父さんと貴利だけなのに・・・・・・」
囁くように、呟くように、紗英はそう言った。それでも、ぼくにはハッキリと聞き取れた。ただ、「お父さん」という言葉は、ぼくの心の奥底の紗英以外は絶対に入ってこられない領域にまで、ぬるっと、油が染み込むように浸食してきた。
ぼくは何も返さないで、ただ、紗英の顔の横の空間を見ていた。
次に紗英に視線を合わせたとき、紗英は右手の親指を立ててから、それをじっと見つめていた。
「ねえ、貴利・・・・・・」
今回は間違いない。それは、直感的に分かった。
「うん」
そう言うと、ぼくは紗英に近寄った。
ぼくが近寄らなければ、紗英からこちらに来そうではなかったから。
紗英の目はぼくを映しているはずなのに、遠くの景色をぼんやりと見ているような揺れ方をしていた。
「はい・・・・・・」
「うん」
ぼくはそう言うと、紗英の右手をそっと掴んでから、自分の口元に手繰り寄せた。
「いい?」
ぼくの問いに、紗英は少しだけ顎を引いてから応えた。
ずいぶんと久し振りのことだったので、戸惑いもあったけれど、それ以上に紗英を癒してあげたかった。
ぼくにしかそれはできない、と思った。そう、思い込みたかっただけかもしれないけれど。
ぼくは紗英の右手を両手でそっと包み込んだ。
それから、親指でさえも、細くて長い、紗英のそれを一舐めした。
紗英の味がした。
紗英は喘ぎ声には足りないけれど、ぼくの欲動を呼び覚ますにはじゅうぶんなほどの声を出した。
ぼくはそれから、無心で何度か、紗英の親指の腹を丁寧に舐めた。
紗英はそのたびに、肩を微かに震わせて、ぼくに応えてくれた。
ぼくの鼓動が紗英にも聞こえているかも、と思って、最後の一舐めをしようとしたとき。
固く締めていたはずの蛇口から、水一滴が滴り落ちたかのように、紗英がふと言った。
「お父さん・・・・・・」
ぼくはその言葉を聞いて、一瞬、いま自分がどこにいるのかが分からなくなった。突然まったく知らない土地に置き去りにされたような感覚だった。
ぼくは、なんとか意識を繋いで紗英を見た。
すると、紗英は泣いていた。
表情は何一つ変えないで、涙だけを流していた。
ぼくは馬力をなくした自動車のように、ただ、紗英のそばから離れないで、紗英の涙が止まるまで、その場に居座っていた。