ムーンライトベリーの香りが忘れられなくて

第16話 青く透明な水槽と心の埋め合わせ

部屋の隅っこ青く光る小さな水槽には透明なグッピーが3匹泳いでいた。
千晃先生は寂しさのあまりペットを飼い始めたらしい。ペットショップの淡水熱帯魚コーナーですごくグッピーに詳しい店員に初心者向けの道具の揃え方を教わり、全部揃えて、最近部屋の中はグッピーのグッズが増え始めた。どんな種類がいるかと本を見て研究をしたりしていた。愛香は、部屋に着いてすぐに何も言わず青い水槽をずっと眺めていた。コポコポと空気が出る音が響いた。
 千晃先生は、少し気持ちが落ち着いた愛香を見て、ホッと落ち着いた。テーブルの上、青い陶器のカップに紅茶を注いで静かに置いた。愛香が目くばせすると、千晃先生は手を伸ばしてどうぞとジェスチャーした。ぺこりとお辞儀して、そっと飲む。なんともない。
無糖のダージリンティー。鼻に香りが漂う。家で紅茶なんて入れてもらったことなんてない。勝手に飲んでと冷蔵庫を指さされるだけ。テーブルにならんだことなんて一度もない。並ぶのは時々の一緒に食べるご飯の時だけ。母との過ごし方は高校生になってから変わった。たった紅茶を飲むという動作をするだけで何だか悲しくなってきた。自分はこの世に存在していいのだろうかと思うくらいの親子喧嘩をした。仕事に行かなければならない母。学校に行きたくないという娘の攻防戦。勝手に休んでもいいが、テストを受けないとはどういうことかともめる。テストと補修を受けなければ留年もしくは退学になる。そうなってほしくないという親の要望。高校を卒業して大学も通ってという自分が決めたわけじゃない進路に息が詰まりそうになる。給料をある程度稼がないと今の世の中は無理だとか、好きなことで生きていけないのだとか。母は看護師になりたくてなったはずを、自分はなぜしたくない仕事をさせようとするのか矛盾が生じる。言うことを聞けなければ家を出ていけと発狂された。シングルマザーで重圧があるのはわかる。人間常日頃、万能ではない。休みたい時だってある。人生に迷いが生じることもある。それをすべて理解されない。たださえ、家族という頼りたい人にさえ信じてもらえない。行く場所も限られて、担任でもある千晃先生に心のよりどころを求めた。今は何もせず、会話しなくても心落ち着いていた。どうして、うまくいかないのだろう。血のつながりの煩わしいこの気持ちがもやもやする。

「白崎……家に居場所ないって思ってるのか?」

 母との話を詳しくしたわけじゃないが、何かを察してくれた。首を横に振る。嘘をついた。

「無理すんなよ」

 何ともいえない愛香の顔にポンと頭をなでる。心が少しずつ満ち始めて来た。手を触れて、肌に触れて、温かく、気持ちが一致する。ソファの上、2人は体を寄せあった。このまま、時がとまってほしい。ただぼーっと過ごすこの時間だけでも満たされるのはなぜだろう。真夜中に、外で一台の車が通り過ぎる音がした。心にせき止めていた何かが崩れた。ガラスが割れたよう。理性というはみ出してはいけないエリアに入ってしまった。欠けた心を埋めるために2人は、肌を密着させた。歯止めがきかない。お互いの心を満たすために入ってはいけない領域に入った。
 先生と生徒という禁断の恋愛が始まった瞬間だった。

 真っ暗な夜の街には救急車のサイレンが響いていた。






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