ムーンライトベリーの香りが忘れられなくて
第29話 壁の鳩時計とグラスの氷の音
鳩の壁掛け時計が鳴り響いた。
時刻は午後8時。居間でずっと待ち続けて、千晃先生は、なかなか帰ってこない。
万智子とともに一緒に作ったお手製のハンバーグが冷えてきた。
テレビのバラエティ番組でけらけらと笑っていたが、愛香だけつまらない顔をして頬杖をつく。
「あの……万智子さん。先生から連絡ってないんですよね」
「あ、うん。そうだね。そろそろお腹すくよね。先食べちゃおっか。女子は太るから」
「どこが女子だよ。ささっと食べてささっと寝よう。千晃は今の時間なら外で食べてくるんだろ」
「……私、ちょっと思い当たるところがあるので探してきますね」
「え、愛香ちゃん。こんな夜に出歩いたら危ないよ!!」
「大丈夫です」
万智子はとめようとするが、愛香は玄関のサンダルのベルトをつけて駆け出した。白フリルのオフショルダーなシャツに黒のジーンズを履いていた。そんなおしゃれな服を着ていったらと万智子は心配になったが、とめるより先に走っていくのをとめられなかった。
「追いかけたいお年頃だな。放っておくのも大事だろうって思うけど、俺は」
「まぁ、その気持ちはわかりますけど、愛香ちゃんはまだ10代じゃないの。危ないじゃない。女子だし」
「確かにそれは否めないが……。大丈夫じゃない? 今の時代スマホあるだろ」
「……そぉ? あ、あれ。ほら、ここに愛香ちゃんのスマホ置きっぱなし」
「へぇ、若いのにスマホに執着ないのかぁ。珍しいなぁ」
「それよりも何よりもちーちゃんなのね」
万智子は、ため息をついて、愛香のスマホをテーブルに置き直した。愛香が千晃へ対する想いが強いことがわかる。気持ちがほっこりした。
◆◆◆
「いらっしゃい。千晃ちゃん、お久しぶりね」
スナックあじさいに入った千晃は、いつものカウンター席に座った。お客さんはまばらで静かだった。おしぼりを受け取る。
「濃いめのハイボールちょうだい」
「へー、珍しいの選ぶのね。ビールはいいの?」
「スカッと炭酸飲みたいの」
「そうですか。お待ちください」
千晃は、カウンターに腕を組んで、顔をうずめる。何だか飲む前から落ち込んでいる。
「ママさぁ、窮地に立ったことないの?」
「えー、何それ。もしかして、窮地なの?」
「話そらさないで言ってよぉ」
「はいはい。そうね。窮地かぁ……このスナックを立ち上げる時に反対されたことかな。資金もかかるし、お客さんなんて来るわけ
ないだろって父親にコンコンと言われ続けたわ」
「え、こんなにお客さんたくさん来るのに? そんなことあったの?」
ハイボールのグラスを受け取って、ぐいっと飲む。
「何でも始めからうまく行くわけないでしょう。なんでも下積み必要よ。新人が仕事覚えるのと一緒でさ。お店開くっていろんなこと開拓していかないといけないわけじゃない。メンタルは普通の会社員の下っ端で働くよりリスクは伴うわけよ」
「まぁ、それはそうだけどさ。信じられないわ。今のママからは想像できない。すごいね」
「ありがとう。それって褒めてるんだよね」
「当たり前。褒めてるよ。女で1人でやりこなすって大変っしょ」
「確かにね。だんだん軌道に乗って、お客さんが来るようになると元夫から手のひら返しでたかられたけどね」
「ハハハ……波乱万丈っすね。ママも大変やわ」
お通しの小鉢に入ったもつ煮をつまむ。枝豆もさらに注文した。
「それで? そっちはどうなの? 私の話聞いたんだからきちんと話しなさいよ」
「えー、言わなきゃないの。やだな」
「知ってるわよ。やめたんでしょう。高校教師」
「え?! なんで知ってるのよ。言ってないよ、俺」
目を見開いて驚いた。ママはウィンクをして、カクテルのレゲェパンチを飲む。
「やめた理由も何となく知ってる。禁断な恋でしょう」
「げげげ……なんでよ。なんでそこまで知ってるのよ」
「風の噂と、女の勘ね」
「ママには嘘つけないみたいだな」
「その通り」
けらけらと笑っておどけてみせた。千晃は大きくため息をついた。
「俺、教師やめて、学校に執着するのやめたんすよ。どーせ、噂とかで評判とか理由とかバレるじゃないですか。だから無職のままも嫌だし……塾の経営でもやろうかなって考えてるんす。でも、ちょっと自信なくなってきて」
「いいじゃない。塾するの。先生してるんだし、モテモテだったんなら塾に生徒増えそう」
「……来るのはいいんですけどね。ありがたいですけど、それで満足するかなって悩みます」
頬杖をついて、グラスの氷をくるくると指でまわした。カラカラと高音が鳴る。
時刻は午後8時。居間でずっと待ち続けて、千晃先生は、なかなか帰ってこない。
万智子とともに一緒に作ったお手製のハンバーグが冷えてきた。
テレビのバラエティ番組でけらけらと笑っていたが、愛香だけつまらない顔をして頬杖をつく。
「あの……万智子さん。先生から連絡ってないんですよね」
「あ、うん。そうだね。そろそろお腹すくよね。先食べちゃおっか。女子は太るから」
「どこが女子だよ。ささっと食べてささっと寝よう。千晃は今の時間なら外で食べてくるんだろ」
「……私、ちょっと思い当たるところがあるので探してきますね」
「え、愛香ちゃん。こんな夜に出歩いたら危ないよ!!」
「大丈夫です」
万智子はとめようとするが、愛香は玄関のサンダルのベルトをつけて駆け出した。白フリルのオフショルダーなシャツに黒のジーンズを履いていた。そんなおしゃれな服を着ていったらと万智子は心配になったが、とめるより先に走っていくのをとめられなかった。
「追いかけたいお年頃だな。放っておくのも大事だろうって思うけど、俺は」
「まぁ、その気持ちはわかりますけど、愛香ちゃんはまだ10代じゃないの。危ないじゃない。女子だし」
「確かにそれは否めないが……。大丈夫じゃない? 今の時代スマホあるだろ」
「……そぉ? あ、あれ。ほら、ここに愛香ちゃんのスマホ置きっぱなし」
「へぇ、若いのにスマホに執着ないのかぁ。珍しいなぁ」
「それよりも何よりもちーちゃんなのね」
万智子は、ため息をついて、愛香のスマホをテーブルに置き直した。愛香が千晃へ対する想いが強いことがわかる。気持ちがほっこりした。
◆◆◆
「いらっしゃい。千晃ちゃん、お久しぶりね」
スナックあじさいに入った千晃は、いつものカウンター席に座った。お客さんはまばらで静かだった。おしぼりを受け取る。
「濃いめのハイボールちょうだい」
「へー、珍しいの選ぶのね。ビールはいいの?」
「スカッと炭酸飲みたいの」
「そうですか。お待ちください」
千晃は、カウンターに腕を組んで、顔をうずめる。何だか飲む前から落ち込んでいる。
「ママさぁ、窮地に立ったことないの?」
「えー、何それ。もしかして、窮地なの?」
「話そらさないで言ってよぉ」
「はいはい。そうね。窮地かぁ……このスナックを立ち上げる時に反対されたことかな。資金もかかるし、お客さんなんて来るわけ
ないだろって父親にコンコンと言われ続けたわ」
「え、こんなにお客さんたくさん来るのに? そんなことあったの?」
ハイボールのグラスを受け取って、ぐいっと飲む。
「何でも始めからうまく行くわけないでしょう。なんでも下積み必要よ。新人が仕事覚えるのと一緒でさ。お店開くっていろんなこと開拓していかないといけないわけじゃない。メンタルは普通の会社員の下っ端で働くよりリスクは伴うわけよ」
「まぁ、それはそうだけどさ。信じられないわ。今のママからは想像できない。すごいね」
「ありがとう。それって褒めてるんだよね」
「当たり前。褒めてるよ。女で1人でやりこなすって大変っしょ」
「確かにね。だんだん軌道に乗って、お客さんが来るようになると元夫から手のひら返しでたかられたけどね」
「ハハハ……波乱万丈っすね。ママも大変やわ」
お通しの小鉢に入ったもつ煮をつまむ。枝豆もさらに注文した。
「それで? そっちはどうなの? 私の話聞いたんだからきちんと話しなさいよ」
「えー、言わなきゃないの。やだな」
「知ってるわよ。やめたんでしょう。高校教師」
「え?! なんで知ってるのよ。言ってないよ、俺」
目を見開いて驚いた。ママはウィンクをして、カクテルのレゲェパンチを飲む。
「やめた理由も何となく知ってる。禁断な恋でしょう」
「げげげ……なんでよ。なんでそこまで知ってるのよ」
「風の噂と、女の勘ね」
「ママには嘘つけないみたいだな」
「その通り」
けらけらと笑っておどけてみせた。千晃は大きくため息をついた。
「俺、教師やめて、学校に執着するのやめたんすよ。どーせ、噂とかで評判とか理由とかバレるじゃないですか。だから無職のままも嫌だし……塾の経営でもやろうかなって考えてるんす。でも、ちょっと自信なくなってきて」
「いいじゃない。塾するの。先生してるんだし、モテモテだったんなら塾に生徒増えそう」
「……来るのはいいんですけどね。ありがたいですけど、それで満足するかなって悩みます」
頬杖をついて、グラスの氷をくるくると指でまわした。カラカラと高音が鳴る。