ムーンライトベリーの香りが忘れられなくて

第33話 懐かしき香り

 小高家に帰宅すると、叔母の万智子はリビングの大きなテーブルに顔を腕の中にうずめて眠っていた。叔父の孝太郎はお酒を飲みすぎたのか飲んだままのグラスをそのままに座布団を枕代わりにいびきをかいて眠っている。
 千晃と愛香はその姿を見て、ありのままの2人がいるなとくすっと顔を見合わせて笑った。

「風呂、入っておいで」
「先生は?」
「俺はちょっとやることあるから」
「……うん」
 愛香は、パジャマと下着を引き出しから取り出して、お風呂の方へ移動する。千晃先生は、書斎の部屋に移動して、書類の山に手をつけた。塾を開業するにあたっての手続きのようだった。

「よし!」

 半袖シャツを着てるはずだが、腕まくりのしぐさをする。やる気を自分の中で奮い立たせたかった。この書類を書かなければ、何も始まらない。気合いを入れた。愛香は、横目にその姿を見て、水道の蛇口をひねった。細かく顔にシャワーのお湯があたる。髪を全体に濡らした。お風呂場の棚を見ると、シャンプーとトリートメントのポンプがあった。万智子が最近新しく買い換えたものらしい。パッケージに【ムーンライトベリーの香り】と書いてある。商品名は【MOON SINE】となっている。これはあじさいスナックのママに勧められたシャンプーと同じものだと気づく。

「懐かしい香り……」

 このシャンプーを使った時はまだ千晃先生に対して、淡く心地よい好意を寄せていた気がした。今は、不安要素が強くてこのままでいいのかと考えてしまう。その時と同じ気持ちになれるかもしれないと洗ってみる。香りが一緒。過去にすがってしまう。元に戻れたらいいのにと感じる。前向きに考えるどころか過去に戻りたいと考える。よくない方向に進んでいる。

「あの時と同じ気持ちに戻りたい」
 愛香は切実にその幸福感を味わっていた時に戻れるならと自分の泡のついた髪を撫でて洗った。シャワーの音がお風呂場に響く。

 お風呂から上がると、書斎で何やら受験生のように一生懸命書き方をしていた千晃先生がドアの隙間から見えた。邪魔しちゃいけないとベッドのある部屋に向かう。

カーテンを閉めて、電気を消した。真っ暗な天井を見る。なんとなく、こわくなってふとんをかぶる。1人で眠るベッドは寂しくて、心が落ち着かなかった。いろんなことを考えて、何度も寝返りを打って、眠ることができなかった。

 いつの間にか、机に向かっていた千晃先生はいびきをかいて紙の上で眠っていた。
 その日の夜は長く感じた愛香だった。

 
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