ムーンライトベリーの香りが忘れられなくて

第5話 愛香の母は仕事で帰ってこない

曇り空には月も星もない。
千晃先生はぼんやりとハンドルを握り締め、車の中、交差点の赤信号で止まった。斜め下から見る先生の様子も悪くない。

「先生?」
「ん?」
「ご飯っていつも1人で食べてるんですか?」
「あー……いろんな意味で1人っちゃ1人だな」
「え? どういう意味ですか」
「だってさ、独身の男、1人で黙々とご飯食べると思うか?」
「え、それって普通じゃないですか」
 
 頭に疑問符を浮かべる愛香に、手振り身振りで話していると後続車からクラクションを鳴らされた。アクセルを踏んで車を進ませる。

「寂しいから、お店に行って食べるんだよ」
「んー、牛丼屋とかですか?」
「それもごくたまにあるけど、駅前の大人の店だよ」
 
 ボソッと小さい声で話す千晃先生が別人に見えた。子供っぽい姿だ。素顔を見せたくないようだ。

「まさか、エロい店ですか?」
「ば、バカ! そんなわけないだろ。俺、青少年なんたらで捕まるだろ。こんなんでも、教師だそ!?」
(自覚はあるんだ。この人……)
 なんの前触れもなく、車の中に置いていた電子タバコを吸い始めた。
「ちょ、ちょっと、タバコ吸わないでくださいよ!」
「あ、悪い。つい、癖で。今、終わるから」
 そう言いながらも、付けたばかりの電子タバコを吸い始めてからしばらく時間がかかった。片づけようとしない。
愛香は、口を膨らませて怒りを見せる。
「少しくらいいいだろ。減るもんじゃないし……」
「いや、匂いが好きじゃないんです。紙タバコも電子タバコも」
「……知ったような口ぶりだな」
「母が……吸っているから。嫌なんですよね」
「……」
 
 千晃先生はその一言で吸い終わってないタバコを何も言わずに片づけた。交差点の信号機が赤に光っている。

「んで、駅前のスナックによく行くわけよ。そこにいるママが話聞いてくれて、お通しの肉じゃがとか、もつ煮込みとか出してくれるからさ。おふくろ思い出して、まったりとした夜を過ごすの。夜遅くまでカラオケしてさ……大人の時間だね」
「なるほど、だからいつまで経っても独身なんですね」

 その話を聞いて、腕を組みながら愛香は、うなずいた。

「うっせーな。お前に俺の何がわかるんだよ」
「わかりませんよ。先生は授業してる姿しか私は見てませんし」
「……もっともらしい話だけどな。答えになってないな」
「……でも、誰かがいる空間に行きたいって気持ちはわからないでもないです」

 愛香は車の窓ガラスに顔を押し付けて、ぼんやりと光る街の電灯を見た。誰も通らない歩道を光らせて、寂しくないのかと感じる。千晃先生は、愛香の一言にふとため息をついて、青に光った信号を見て、アクセルを踏んだ。誰もいない交差点には、電灯が横断歩道を照らしている。寂しげな様子だった。まるで、どこか心が開いたような感覚の2人のようだった。

 愛香のスマホがバイブで揺れた。おもむろに画面を見ると、母親からのメッセージが入っていた。急遽、日勤から夜勤に延長で仕事をすることになったらしい。愛香の母親は看護師長で体調を崩したスタッフの代わりの者がいなければ、上司としてやらざる得ない。責任のある仕事だ。シングルマザーであるとともに病院の大事な役割を担っている。尊敬したいところだが、娘としては親として認められないことが多々あった。お金を稼ぐとはという話になると、愛香の反抗的な態度はもちろんすぐに却下される。仕事の代償というものはここに出て来る。早く大人になって親子という呪縛から解放されたい。そういう思いが大きくなっていた。

「どうかしたか?」
「母が、夜勤になって朝まで帰らないと言っていて……」
「あー、そういうことか」
 千晃先生は、動じることなく、返事をした。予想外だった。
「驚かないんですね」
「……うん、まぁ、想像はついていたからさ」

 頭をぼりぼりとかいて、ハンドルを握る。真っ暗でどこかに着いたかわからなかったが、
 シフトレバーをドライブからパーキングに変えた。

「さすがは先生、察しはいいですね」

 その言葉を発して、心と体は切り離された感覚に陥った。愛香の頬に涙が一粒落ちる。
 両手で受け止めようとするが、次から次へと流れていく。不意に、千晃先生は、愛香の顔を自分の胸に寄せた。

「……そのままでいい。そのままで」
 
 押し殺していた声を出して、愛香は千晃先生の胸で泣く。
 安心できる。呼吸も早くない。心臓も早まっていたのがおさまった。
 なぜか千晃先生のそばで愛香の心は落ち着いていた。

 車の屋根にぽつぽつと雨粒が落ちて来ると、一気に大雨になった。
 さっきまで静かだった外が信じられないくらいの土砂降りになる。

 雨音にかき消されてしばらく愛香の泣く声は車の外に漏れることはなかった。



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