君がプールで泳げたら
「僕がプールで泳げたら」――先輩は僕に無理無体な条件の対価として、自分の潤んだ唇を指差して「これ、あげなくもないよ?」といった。まだあどけなさの残る十代の唇はノーメイクでいながらつややかで、確実に女としての色香をまとっていた。

「でも、そんなのできないでしょ。ふつうに僕が惚れさせる方が一〇〇万年早くないですか?」僕はへらへらと笑いながら先輩の横でフルートを構える。

 七月、午睡には遅い夕方に西日は差しこんでいた。音楽室からは遠い、3ーFの教室。フルートパート――といっても僕と先輩だけだが――はパー練の総仕上げに入っていた。夏が来るのも早ければ終わるのも早い。青春なんてものはいつ使い果たしたか定かではないのに、とっくのとうにこの手を離れている。先輩への恋心は洗い終わったラムネの瓶のようにつるんとしている。恋しているのに慣れてしまったのだろう。

「もし僕が泳いだとして、途中で溺れたらどうします? あ、先輩直々の人工呼吸? ——っ!」
 先輩がいきなり超高音を耳元で鳴らす。「すす、すみませんでした失言でしたやめて鼓膜が死ぬ」

「へへえ」
「な、なにかおかしいこといいましたっけ?」
「いや、その顔以上の冗談は存在しない」
「それ酷くないです? 毎朝この顔面見てポーズ決めてるのに」

 ぺたぺたぺた――。
「やべ、おい副顧問だよ」

 歩幅の狭そうなスリッパの音が聞こえてきたので先輩と僕はさっとフルートを構え直す。
 できるだけアラの出ない部分を卒なく吹き、何とか吹いてます感を演出する。スリッパは遠ざかっていった。
「ンベー!」ああ、せっかくの美人がもったいない、と僕は思うのだが先輩は構わずあっかんべえを遠ざかる副顧問のスリッパにくれる。まあ、それもそれで可愛いから許す。なぜなら可愛いから。

 ささやかながらも注釈を付け加えると僕はこの先輩――ちほさんにぞっこんラブである。それは自他ともに認める惚れようで、時代を遡る趣味がおありの方には入学時の式典演奏にそのルーツはあるといっておこう。
当時、フルートパートは、彼女一人だけだった。それでいて、それなのに、彼女のフルートはほかのどの楽器よりも輝き、欲をいえばフルート聴きたいからあとのひと黙って、と拳を握り立ち上がる寸前だった。そんなフルートだったのだ。

 ――会田千穂。先輩の名前。その字を書けばそのノートは捨てられなくなるし、その名を口にすれば三〇分はなにも話したくなくなるほどだった。

「あっ、会田先輩、ここのフレーズ、どんな感じなのかよくわからなくて——」
「会田先輩、さっきの合わせ、セカンドもう少し引いた方がいいですか?」
「会田先輩、わたし、会田先輩に憧れて入部したんです——」

 しらないよ。

「ホラ、アンブシュアだのアーティキュレーションだの専門用語ばっかり。局、業界人?」
「ファースト立てるのがセカンドの吹き方って認識? すげー年功序列。あたし、もう部活やめるわ」
「局、さっき鏡の前で吹いてたよね? どんだけ自分大好きなんだか」

 しらないよ?

「で、君とわたしが残ったと」
「らしいですね」
「でも、中学で吹奏やってない側からしたら高校デビューは難しいんかねえ」
「個人の技量と努力ですよ」
「いや、なんか局っていわれてるし——あたし、そこまで排他的にしてなかったと思うんだけどな」
「僕というセカンドがいるのにまだアレですか、侍らせたいと」
「うん——侍らせるんは何人いても足りんなあ」先輩はあはは、と笑い、直後に椅子の上で体育座りをし、顔を隠してしまった。

「せん――」
「知ってる。全部知ってる。あの子らのいうこと、何もいい返せない。あと、君が隣なら、まあ許す。でも、今は前は向けない」先輩の手が控えめに伸びてくる。僕も震える指先同士を合わせる。
「なんで、なんでなんかなあ。あたし、今ただの二年生やし、偉そうにいうてないんよ、自分の中ではよくやってたつもりだったんに、なんもかんも——裏目に出た。な、なあ——なんでシュウ君は残ってくれとるん? それも、ただの——恋愛感情?」
 先輩は顔を上げて見せる。意外に顔同士が近く、僕は果てしなくどぎまぎしてしまう。僕はハンカチを出し、ちほ先輩の涙の跡だけをぬぐう。まつげに触れていいような僕じゃないことはなんとなく、諦めを見ていたから。
 僕はこぶしを固める。
「今日の夜十時、校庭の真ん中で。あとは、あとで話します」
 自分の膝頭で泣く先輩の手だけは、向こうが離さない限り僕は決して離すまいと決めていた。
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