妖怪ホテルと加齢臭(改訂版)久遠と天音

宿泊客の帰還

早朝、鳥のさえずりが木立の間に響く。

天音は4時に起きて、おにぎりを握っていた。
一息ついて厨房の時計を見あがると、5時20分。
前掛けで急いで手を拭くと、旅館の玄関を開けた。

すでに門前に、スーツ姿の男性が二人立っている。
一人は、大き目のビジネスバックを持っている。近藤だ。
「おはようございます」
天音は声をかけた。

久遠と近藤が、振り向いた。
スーツ姿の久遠は、違う世界の住人のように見える。
王者の風格。そして近藤は側近のように控えていた。

「ああ、おはよう。朝早くて、起こしてごめんね」
久遠は申し訳なさそうに、天音を見た。

レジ袋入りのおにぎりは貧相で、この二人にはふさわしいものではないけど・・・
天音は、躊躇したが

「これを・・朝食です。おにぎりですが、車内でお召し上がりください」
そう言って、お茶のボトルも入っているレジ袋を二つ、従者である近藤に渡した。

黒の高級車が、坂道を上がってくる。
車が止まると、白手袋の運転手が降りて、すぐ後部ドアを開けた。

「あのさ、また、来るから。マサラティー、また一緒に飲もうね」
久遠が朝日がまぶしいのか目を細めて、右手を天音に差し出して言った。

天音はその右手を取ることなく、頭を下げた。
「ええ、お気をつけてお帰りください」
頭を上げると、精いっぱいの笑顔をつくった。
たぶん、ひきつって変顔にみえるだろう。

「時間がないので、失礼します」
近藤に促されて、久遠は車に乗り込んだ。
車がUターンして元の道に戻る。
久遠が手を振っているのが、ガラス越しに見えた。

天音は車が見えなくなるまで、深く頭を下げていた。
お客様のお見送り、女将の最後の仕事だ。

あなたがこの次ここに来る時は・・・私はいない。
この旅館もないだろう。

天音は頭を下げた姿勢のまま、自分の手のひらを見つめた。
真っ赤になっている。

それは、枝から落ちた紅葉の葉のように見える。
アツアツの炊き立てご飯を、何個も握ったからだ。

天音はくるりと向きを変えると、玄関に向かった。
キャンプをしていた連中に、朝食におにぎりと味噌汁くらいは出してやろう。
そう考えていた。
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