妖怪ホテルと加齢臭(改訂版)久遠と天音

女将の決意

数日後
天音は、認知症の母の入居している施設に面会に行った。

母が施設の職員と一緒に、車いすで玄関で待っていてくれた。
そして、満面の笑顔で天音に向かって「いらっしゃいませ」と言った。

娘の顔が、もうわからないのだ。
母の記憶は、女将だった時に留まっている。

「お母さん、元気だった?ごはん、ちゃんと食べている?」
天音はひざまずいて、母の温かい手を握った。
「いらっしゃいませ」
母が返事をしてくれる。

プーッ、プーッ
スマホのマナーモードの振動。
見ると、近藤からの着信が入っていた。

「お庭を散歩してきます」
施設の職員に声をかけると、天音はゆっくりと車いすを押し始めた。
中庭に出ると、バックからスマホを取り出した。

ツー・・ツー・・ツー

呼び出し音が鳴っている。
「はい、近藤です・・」
「紅葉旅館の三角です。さきほど、お電話をいただいたようで・・」

「わざわざ、ありがとうございます。売却の件で、ご連絡差し上げたのですが・・
今、お時間いただけますでしょうか?」

その時だった。
「いらっしゃいませ!!!」

母が通りかかった施設の職員に向かって、大声で叫んだ。
天音はその声に驚いて、ひゅっと息を呑んだ。

「三角さん?・・・・」
電話口で近藤が、何か言っている。
天音は思わず言ってしまった。

「・・・売りません。旅館は・・」

久遠が話をしてくれた「ルサルカの儀式」が、脳裏をかすめる。

女たちがこの土地を守る。
祖母、母とつないできた糸を、切る事はできない。

「・・・申し訳ありません。このお話は、なかった事にしていただきたいです」
やっとそれだけ言って、電話を切った。

久遠とあのきれいな女の人とのディープキス・・・林の中で抱き合っている姿。
あの人たちには・・・渡したくない。

これは別の感情だ。
天音は、複雑な気持ちで唇をかんだ。

これでいいのだ。

宿泊ではなくても、日帰りでも・・・
露天風呂だけでも、季節営業でも、できることをもう少しやってみよう。

天音は、母の耳元に口を寄せて、
「三代目、女将、なんとかやってみるからね」

そう言うと、母はニコッと笑って
「いらしゃいませ」
と、返事をしてくれた。

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