一番星にキス。
 翌日、久しぶりに尊が学校に来た。

 女子たちは妙に色めき立ち、落合さんはいつにも増して眼鏡をぴかぴかに光らせていた。
 ノートを抱きしめていつものボールペンをくるくる回しながら、廊下の端から尊の作る人だかりを観察している。

「アイドルが学校に登校してくるなんて、一大イベントですからね」

「いや、大抵のアイドルは、ちゃんと学校で勉強してると思うよ」

「わかってませんね野宮さん。慣れるまでは一大イベントなんですよ」



 休み時間になって、落合さんの言っている意味がわかった。
 
 たくさんの女の子たちに囲まれた尊を遠目に、私は少し落ち込む。
 いや、かなり落ち込む。
 視線の一つも合わせない私たちは表向き別れたカレシとカノジョ。
 昨日の電話みたいなことを直接語り合うには遠くて。そして。

「尊くん、アイドルってどんな感じなの?」

「サインほしい!」

「あたしも!」

「私もほしい!」

  女子たちは尊が「フリー」だと思ってるから、私そっちのけで尊に群がる。甘い花の蜜を前にした蝶みたいに。

「待って、順番。っていうか本当は事務所に確認とらないといけないんだけど……」

 そう前置きして、尊は苦笑いしながら「ないしょな」と付け足した。

「かっこいい~!」

「現役アイドルって感じすごいよね」
「ね、今度一緒にカラオケ行こうよ! カノジョいたときはできなかったことたくさんできるでしょ」
「いいね、行こ行こ! 同級生と一緒にカラオケくらい、大丈夫じゃない?」
「みんな誘っていこうよ!」

 誰かが言った。
 私が聞いてるって、わかって言ってるんだろうか。

 私はひそかに拳を握りしめて、わいわいと華やぐ女子たちから目をそらす。

 そして視界に入った小さな落合さんに尋ねた。

「――落合さんは、サインいらないの?」
「……野宮さん?」
「いまなら、サイン大会みたいだし。……ロクブル所属のアイドルのサインが、手に入るかもよ」

 私はそれしか言えなかった。歩き出した足はやがて早足に、そして駆け足になってしまう。

「野宮さん! 野宮さん待って!」

「生理重いから保健室!」

 追いかけてくる落合さんに、私は大声で叫んだ。すれ違った男子がびくりと肩を跳ね上げた。でも私はかまわなかった。

 涙がこぼれる前にどこかに行かないといけない。

 そうしないと尊に迷惑がかかる。




 自分がこんなに欲深くって、心の狭い女の子だとは思わなかった。

 尊から浴びるみたいに好きって言葉をもらってもまだ足りない。

 愛してるの言葉さえ、さっきの光景の前じゃかすんでしまう。だって。

 尊は、小鳥遊尊は、みんなのアイドルだ。私だけの恋人じゃなくなってしまった。


 私だけ見て。

 尊、私だけ見て。

 小鳥遊尊じゃなくて田中尊でいて。おねがい。カラオケなんか行かないで。

 どこにも行かないで。


「こんなに弱いとは思わなかった」

 頬を伝い落ちたひとしずくをぐっと拭い取ってつぶやく。

「よわむし。よわむしいちご。身の程をわきまえろ。相手はアイドルなんだぞ」


 ずっと、アイドルになりたいって言ってた。
 尊は昔から戦隊ものが好きで、アイドルから俳優になったあるアイドルに憧れた。
 いつかあの人みたいになるんだ。って。
 
 だからそのアイドルの出身である「ブライト・スター事務所」しか受けなかった。
 街頭でのスカウトも、何度も断った。
 そして、本命のオーディションは何度落ちても諦めなかった。
 
 ようやく夢をつかんだんだ。
 夢の一歩手前にいる尊を邪魔したくない。


「やっぱり私、……」

 何度も否定してきた。でも、何度もよみがえってくる。
 私は、恋人は、アイドルの邪魔なんじゃないか。
 障害になってしまうんじゃないか……。

 予鈴が鳴った。
 私は保健室に駆け込み、養護教諭に生理痛だと嘘をつき、ベッドに横たわって、湧き上がってきた悲しみが過ぎ去っていくのをじっと待った。

 だけど悲しみは増す一方で。
 一度は落ち着いた涙が流れてこぼれて、枕にしみを作っていく。
 私は思いきって枕に顔を押しつけた。誰にも聞かれないように小さな声で、つぶやく。


「尊、だいすき。ごめんなさい。だいすき」


 そのときだった。

「野宮さん? お友達が来てるけれど、どうする?」

 養護教諭の声だった。私は泣きはらした目を丸くした。

「お、……おともだち?」

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