涙を越えて
第二章 怒りの不協和音
第十三話 夢への第一歩
佐竹さんがスタジオを訪れた日から数日後、俺と氷月は『earth』の事務所に呼ばれた。
「それではこの契約書にサインして下さい。」
そう言って社長、神田浩はテーブルの上に一枚の書類を置いた。その脇にボールペンを置くのも忘れない。
神田は思っていたより若く、まだ40代そこそこに見えた。芸能関係の事務所の社長っていったら、ぶくぶく太って頭髪は寒い感じでそれなりに歳をとってるっていうイメージだったから全然違ってビックリした。……って俺の想像力が酷すぎてビックリだし!
「嵐!」
「うえっ?」
余計な事を考えてたら隣の氷月から肘鉄を喰らって変な声が出る。氷月の方を見るともの凄い形相で睨まれた。
「え……」
「ボーッとしてないで早くしなよ、もう……」
「あ、すまん。えーっと……」
我に返った俺はボールペンを手に取って、契約書の下に自分の名前を書いた。そして氷月にペンをバトンタッチすると、氷月はその下の保証人の欄に名前を記入した。
「ありがとう。これで君達との契約が成立した。これはバンドとしての契約書になる。個人としての契約書はそれぞれ送るから、書いて送り返してくれるよう伝えてくれ。まぁ内容はだいたい同じだから。」
「はい。」
「しかし『the natural world』というバンド名は中々いいね。君達の名前が由来なんだろ?」
社長が俺達が書いた書類を封筒にしまいながら言う。それに氷月が少し驚いた様子で聞いた。
「気づいてたんですか?」
「まぁね。皆の名前を見ていた時に気づいて、『なるほど』と感心した。」
「いや、そんな感心して頂くものじゃありませんよ。ただ他に思いつかなかっただけで。」
氷月が謙遜すると『いやいや。』と手を振った。
「こういうところにセンスというのが出るんだよ。自分達の名前にさえ目をつけてバンド名にする。うん、素晴らしい。」
「ありがとうございます。」
戸惑いながら二人して頭を下げると、リラックスした様子でソファーに身を沈めた。
「ところでバンドでツインボーカル、しかも男女っていうのは珍しいね。それにキーボードも。」
「えぇ。自分達でもそう思います。」
「と、言うと?」
「実はこの体制になったのは最近で、それも偶然っていうか何ていうか……」
俺の言葉に社長が首を傾げる。俺は氷月が頷いたのを確認して、吹雪と南海ちゃんが加入した経緯を話した。もちろん俺の女苦手病の辺りは適当にぼかして……
「なるほど。そういう事か。でもその子達も名前に自然が入っていたのは運命だね。それにボーカルの相性がすこぶるいい。」
「相性……ですか。」
「そう。いくら歌が上手い同士でも相性が悪けりゃそれは聴く人の心に届かない。その点君達の声は一瞬で惹きつけられるんだ。まぁでも、嵐君はまだまだレッスンが必要だから、今後はうちのスタジオで練習できるように設備を整えてる。早い内に…そうだな、明日にでも機材の引っ越しを済ませておいてくれ。後の事はマネージャーの佐竹に任せているから、何かあったら彼女に言ってくれ。」
そう言うと社長はこれ見よがしに腕時計に視線をやった。どうやら話は終わりらしい。っていうかこの事を言う為の長話だったみたいだ。俺と氷月は目を見合わせると同時に立ち上がった。
「それじゃ僕達は失礼します。」
「あぁ。くれぐれも書類の件忘れないように。」
「はい。」
「あの、この度は俺達に声をかけて頂いてありがとうございました。デビューを目指して頑張りますのでよろしくお願いします。」
ドアの前で二人並んでお辞儀をすると社長は笑顔でヒラヒラと手を振った。
「はぁ~……緊張した……」
「そうだね。久しぶりに手に汗かいた。」
廊下に出ると二人して深いため息を漏らした。珍しく緊張した様子の氷月を見ながらさりげなく聞いてみる。
「でも、寂しくなるな。」
「何が?」
「だってここのスタジオを使う事になったらさ、もうお前んとこのスタジオには……」
言い淀む俺に氷月は『何だ、その事?』と小さく笑って、
「この事務所に入るんだからそうなる事はわかりきってたよ。デビューするって事はあそこから卒業するっていう意味。そうやって何組もの先輩や後輩達が巣立っていった。僕達もやっと卒業できるんだ。悲しんでる暇はないよ、嵐。」
そう言った。でもその表情には言葉とは裏腹に、何処か暗い陰が差していたように思えた。
「そうだよな。でもあのライブハウスでライブをする。その目標は持っててもいいだろ?」
「え?」
「デビューして有名になってライブができるようになるまで成長したら、あの場所でライブがしたい。そりゃあ最終目標は武道館とかドームだけど、あそこが俺達の原点だからさ。」
地下にあるライブハウス。汗水流して他のバンドの楽器を運んだり、一生懸命掃除したりしたステージを思い出す。いつか有名になってここで歌いたい。ずっと思ってきた。もしチャンスがきたら、その時は必ずここに戻ってきたい。必ず……
「何を言ってるの?」
「え……?」
「当たり前じゃない。そんなの。」
思わず氷月の顔を見ると、意地悪な表情でこっちを見ていた。
「……ビックリさせんなよな、たくっ!」
そっぽを向いて悪態をつくと小さな笑い声が聞こえた。それに対してぶつぶつ文句を言いながらも、俺も内心笑っていた。
絶対戻ってくる。だから待っていてくれよ。俺の、俺達の原点……
「それではこの契約書にサインして下さい。」
そう言って社長、神田浩はテーブルの上に一枚の書類を置いた。その脇にボールペンを置くのも忘れない。
神田は思っていたより若く、まだ40代そこそこに見えた。芸能関係の事務所の社長っていったら、ぶくぶく太って頭髪は寒い感じでそれなりに歳をとってるっていうイメージだったから全然違ってビックリした。……って俺の想像力が酷すぎてビックリだし!
「嵐!」
「うえっ?」
余計な事を考えてたら隣の氷月から肘鉄を喰らって変な声が出る。氷月の方を見るともの凄い形相で睨まれた。
「え……」
「ボーッとしてないで早くしなよ、もう……」
「あ、すまん。えーっと……」
我に返った俺はボールペンを手に取って、契約書の下に自分の名前を書いた。そして氷月にペンをバトンタッチすると、氷月はその下の保証人の欄に名前を記入した。
「ありがとう。これで君達との契約が成立した。これはバンドとしての契約書になる。個人としての契約書はそれぞれ送るから、書いて送り返してくれるよう伝えてくれ。まぁ内容はだいたい同じだから。」
「はい。」
「しかし『the natural world』というバンド名は中々いいね。君達の名前が由来なんだろ?」
社長が俺達が書いた書類を封筒にしまいながら言う。それに氷月が少し驚いた様子で聞いた。
「気づいてたんですか?」
「まぁね。皆の名前を見ていた時に気づいて、『なるほど』と感心した。」
「いや、そんな感心して頂くものじゃありませんよ。ただ他に思いつかなかっただけで。」
氷月が謙遜すると『いやいや。』と手を振った。
「こういうところにセンスというのが出るんだよ。自分達の名前にさえ目をつけてバンド名にする。うん、素晴らしい。」
「ありがとうございます。」
戸惑いながら二人して頭を下げると、リラックスした様子でソファーに身を沈めた。
「ところでバンドでツインボーカル、しかも男女っていうのは珍しいね。それにキーボードも。」
「えぇ。自分達でもそう思います。」
「と、言うと?」
「実はこの体制になったのは最近で、それも偶然っていうか何ていうか……」
俺の言葉に社長が首を傾げる。俺は氷月が頷いたのを確認して、吹雪と南海ちゃんが加入した経緯を話した。もちろん俺の女苦手病の辺りは適当にぼかして……
「なるほど。そういう事か。でもその子達も名前に自然が入っていたのは運命だね。それにボーカルの相性がすこぶるいい。」
「相性……ですか。」
「そう。いくら歌が上手い同士でも相性が悪けりゃそれは聴く人の心に届かない。その点君達の声は一瞬で惹きつけられるんだ。まぁでも、嵐君はまだまだレッスンが必要だから、今後はうちのスタジオで練習できるように設備を整えてる。早い内に…そうだな、明日にでも機材の引っ越しを済ませておいてくれ。後の事はマネージャーの佐竹に任せているから、何かあったら彼女に言ってくれ。」
そう言うと社長はこれ見よがしに腕時計に視線をやった。どうやら話は終わりらしい。っていうかこの事を言う為の長話だったみたいだ。俺と氷月は目を見合わせると同時に立ち上がった。
「それじゃ僕達は失礼します。」
「あぁ。くれぐれも書類の件忘れないように。」
「はい。」
「あの、この度は俺達に声をかけて頂いてありがとうございました。デビューを目指して頑張りますのでよろしくお願いします。」
ドアの前で二人並んでお辞儀をすると社長は笑顔でヒラヒラと手を振った。
「はぁ~……緊張した……」
「そうだね。久しぶりに手に汗かいた。」
廊下に出ると二人して深いため息を漏らした。珍しく緊張した様子の氷月を見ながらさりげなく聞いてみる。
「でも、寂しくなるな。」
「何が?」
「だってここのスタジオを使う事になったらさ、もうお前んとこのスタジオには……」
言い淀む俺に氷月は『何だ、その事?』と小さく笑って、
「この事務所に入るんだからそうなる事はわかりきってたよ。デビューするって事はあそこから卒業するっていう意味。そうやって何組もの先輩や後輩達が巣立っていった。僕達もやっと卒業できるんだ。悲しんでる暇はないよ、嵐。」
そう言った。でもその表情には言葉とは裏腹に、何処か暗い陰が差していたように思えた。
「そうだよな。でもあのライブハウスでライブをする。その目標は持っててもいいだろ?」
「え?」
「デビューして有名になってライブができるようになるまで成長したら、あの場所でライブがしたい。そりゃあ最終目標は武道館とかドームだけど、あそこが俺達の原点だからさ。」
地下にあるライブハウス。汗水流して他のバンドの楽器を運んだり、一生懸命掃除したりしたステージを思い出す。いつか有名になってここで歌いたい。ずっと思ってきた。もしチャンスがきたら、その時は必ずここに戻ってきたい。必ず……
「何を言ってるの?」
「え……?」
「当たり前じゃない。そんなの。」
思わず氷月の顔を見ると、意地悪な表情でこっちを見ていた。
「……ビックリさせんなよな、たくっ!」
そっぽを向いて悪態をつくと小さな笑い声が聞こえた。それに対してぶつぶつ文句を言いながらも、俺も内心笑っていた。
絶対戻ってくる。だから待っていてくれよ。俺の、俺達の原点……