離婚まで30日、冷徹御曹司は昂る愛を解き放つ
 それは、素直な気持ちだった。

 彼は先ほど、果菜のことを常識的な考えができる真面目な人間だと言ったが、はっきり言って、そんな風に決め付けることがよくできたなと思う。それぐらい、二人はお互いのことを知らない。

 だからどうして、果菜を選んだのか。本気で不思議だった。

「夏原さんにお願いしたいと思った理由は色々あるが、一番は俺に興味を持っていないという点だ」

「……え?」

 少し考える素振りを見せたあと、おもむろに開いた口から放たれた言葉に、果菜は不意を突かれた。

 それは果菜にとって思ってもみない理由で。
 思わず遼の顔をまじまじと見てしまう。

「こんなことを自分で言うのは憚られるが、俺の容姿は女性受けするらしい。だから好意を持たれやすい。だけど経験上、好意を持たれている状態だと、何らかの期待をされたり、色々と面倒な事態になることが多い。その状態だと、契約結婚という形態をとるのが難しいと思う」

「……なるほど」

 果菜は真面目な顔で頷いた。確かに、自分で言うようなことではないが、その言葉が納得できる容姿であることは間違いない。

 そして、その言葉が示す通り、どちらかが好意を持っている状態では、契約結婚を遂行すること自体が難しいだろう。なぜなら、契約が崩れてしまうことになりかねないからだ。

「これまでの夏原さんの態度から、俺に対してまったく興味を持っていないことは十分に理解した。加えて、先ほども言ったが常識的で真面目な性格であるということも重要な要素だ。非常識な考え方の人間とは一緒に暮らす気になれないし、何より契約を守れるかが、まず怪しい。契約結婚について吹聴する可能性もある」

 淡々とした語り口だったが、その口調から遼が本気でそう思っていることが窺えて、果菜は口を挟むことができなかった。
 遼は果菜を見つめながら話を続ける。

「MIKASAで夏原さんが俺のことを案内してくれている時に、落としたものを拾ってくれたことがあった。落としたものはメモで、その場合、多くの人が何が書かれているかとりあえず見てみようとすると思う。しかし夏原さんは一切見ようとせずに俺に渡してきた。その時に、相手のプライバシーに配慮できる思慮深い人間だと判断した。俺の周りには、何かと接点を求める女が多いから印象に残って覚えていた」

 果菜はその言葉を聞きながら小さく首を振った。
 なんだか買い被られている。そう思った。

 その時のことは覚えているが、果菜はただ、面倒ごとを嫌っただけだ。もし見てしまったそこに、人には知られたくないことが書いてあったら? 気まずい空気になるし、下手したらクレームに繋がりかねない。そうなったら困るなと思っただけだ。

「そ、それだけのことで過大評価しすぎだと思います。私はそんなに立派な人間ではありません」

「その反応も思った通りだから、やっぱり夏原さんは俺の考える人に近いと思う」

 そう言われると言い返す言葉がなくなってしまう。
 果菜は困ったように口ごもった。

「まあ、そんなに嫌なら無理強いはできないけど。そしたら君はどうする? 見たところ、夏原さんの母親の結婚への意向はかなり強いように思える。親戚の結婚式にまで見合い写真を持ってくるなんてなかなかない。簡単に諦めるようには思えない」

 畳みかけるように言われて果菜は更に何も言えなくなってしまった。

 確かにその通りだ。

 言葉を探すように視線を彷徨わせるが、言うべきことが何も見つからない。

 それとこれは別の話だとは思うが、今のところ対応策が何もないこともまた事実だった。

「それは……そうなんですが」

「とりあえず結婚すれば、もう煩く言われることはないんじゃないかな。期間はそうだな、一年間。一年だけ結婚生活をして、離婚するんだ。もしかすると離婚後も再婚を勧められるかもしれないが、結婚に向いてなかったと言えばだいぶ断りやすくなると思う。その後はもう一度結婚するもしないも自由だ」

 ――自由。
 なんていい響きなんだろう。

 どうやら、果菜は、母親からの執拗な結婚の押しつけに、自分が思っていたよりもうんざりしていたようだった。

 おそらくそれは果菜が結婚するまで続くし、一番下の妹がもし結婚すれば、もっと激しいものになるだろう。

 根負けして、見合いに応じてしまうかもしれない。そして一度見合いをすれば最後、もしまかり間違ってその時の相手が果菜を気に入ればそのまま強引に進めようとしてくることもあり得る。

 もしそうなったら……とそこまで考えて果菜はぞっとした。

(だったら、芦沢専務の言う通り、一年結婚するだけの方が……)

 最悪の未来を想像して、にわかに心が揺れ始めてしまう。
 確かに、悪くないかもしれないとその瞬間、思ってしまったのだ。

 それを見て取ったのか、遼が言葉を続ける。

「結婚式は近い親族だけ、できるだけ規模を抑えてささやかなものにする。親戚づきあいも必要最低限で済むようにしよう。結婚後は一緒に住む必要はあると思うが、新居はこちらで用意するし、プライバシーが保てるように独立した居住空間のある間取りの家にする。結婚にかかる費用や結婚している間の生活費もすべてこちらが払うし、贅沢をしてくれてもかまわない。もちろん、夏原さんの生活に必要以上に干渉しない。今まで通りの生活をしてもらっていい」

 金銭的なことまでは望まないが、聞けば聞くほど魅力的な話に聞こえた。

 つまり、結婚をするにあたって発生するだろう面倒ごとは最小に抑えてくれるという。そして、結婚後は今と変わらない生活をおくらせてくれると保証してくれているのだ。

「……確認なのですが、本当に相手が私で問題はないんですね? 私の実家はごくごく一般的な家庭ですし、出身大学も名の通ったところではありません。英語が話せたりもしませんし、何か秀でたところや特技などもありません。自分でいうのも何ですが、とっても平凡です」

「かまわない。そういう肩書き的なものには頓着しない。ただ、一般的な身上調査だけはさせてもらうことになる。これは犯罪歴や反社会的勢力との関わり合いなど、最低限確認しとかなければならない身辺のことについて夏原さんや夏原さんの親類縁者に関して調べる類の調査になるが、会社経営に関わっている身として、念のために確認しておかないといけないことを理解してほしい」

「それは……もちろん理解します。大丈夫です」

 彼の立場を考えると当然のことだと思った果菜は素直に頷いた。

 果菜は平凡な人間だが、親戚もあわせて、警察のお世話になった人もいないし、暴力団やヤクザといった危険な世界との関わり合いも当然ない。そのあたりは自信を持って大丈夫だと言えた。

 それよりも、具体的なことを言われて、話に一気に現実感が増した気がした。

 今までの人生からではありえない、とんでもない決断を、自分は今しようとしている。

 自分の人生が大きく変わる気配に、ドクドクとにわかに鼓動が早まり、果菜の全身は何とも言えない緊張感に包まれた。
 ぎゅっと、膝にのせている手を握り込む。

「ありがとう。もちろん婚姻中は不信感を抱かせる行動は慎むように努力する。嘘はつかない。もしそれでも、俺との結婚生活を続けることが難しい状況になった時は、婚姻関係は途中で解消できるようにしよう」

 まっすぐに果菜を見て言われた言葉がダメ押しだった。

 果菜はその目をじっと見返したあと、こう言った。

「わかりました。契約結婚をお受けします。よろしくお願いします」

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