悪い男のサンクチュアリ
10 いつか未来に変わるとき
瑞希が由奈のアパートに上がり込んでちょうど一月が経つ頃、瑞希は由奈が泣いているのを目にした。
夜、茉優を寝かしつけて、由奈がようやく自分の時間を持つことができるときのことだった。
瑞希が居間に入ったら、由奈は携帯電話を手に目を濡らしていた。
「由奈さん?」
「……本当に、瑞希ちゃんのことばっかりなんだから」
勘のいい瑞希は、由奈の言葉に今しがたの電話の相手を察した。
瑞希は頭を下げて由奈に謝る。
「電話の相手、一也でしたか? ……ごめんなさい」
でも由奈は首を横に振って、瑞希に文句をつけることはなかった。由奈の優しさに瑞希は言葉が出なくて、二人で黙りこくる。
瑞希は、ここをもう出て行くつもりでいる。でもあとひといきの勇気が、出ない。
けれどもそれで由奈に迷惑をかけるなら、今すぐ下宿をみつけてでも出て行かなければ。瑞希はそう思って、顔を上げたときだった。
由奈は苦笑して瑞希に言った。
「一也さんはね、「瑞希は自分が嫌いになったんだろうか」って言っていたわ」
「……それは」
由奈は首を横に振って、言葉を続ける。
「まだわからないのかしら。好きとか嫌いじゃないでしょう?」
瑞希はうなずいて、言いにくそうに告げる。
「はい。……そんな境界、とっくの昔に過ぎたのに」
もう夜は深く、外は車が通る音さえしなかった。一日の疲れのままに、静かに眠りにつく時間だった。
その静寂の中で、由奈はふいに切り出す。
「瑞希ちゃんは覚えている? 初めて瑞希ちゃんが一也さんのところに来た頃」
瑞希は黙って考えたが、はっきりとは思い出せなかった。
瑞希が仕方なく首を横に振ると、由奈は柔く笑って言う。
「私はよく覚えてる。一也さんに、「あなたの孫じゃないんですよ」って笑って言った。……それくらい、可愛くて仕方ないって様子だった」
瑞希はくしゃりと顔を歪めた。少しだけ思い出せたからだった。
両親を失って寂しかった瑞希は、とにかく一也にくっつきたがった。料理をしようとする一也の足にくっついて邪魔をして、抱っこをせがんで、夜寝るときも一也のベッドの中にもぐりこんだ。
でも一也は、瑞希が好きなだけ甘えさせてくれた。
かずや、大好き。そう言った瑞希に、一也はむずかゆそうに笑った。
今の瑞希は、そのときよりは大人になった。屈託なく大好きとは言えなくて、言葉を濁した。
「ふたりぼっちだったからですよ。お互い寂しかっただけです」
「それもあったでしょうね。……でも、それだけだったの?」
由奈は目を伏せて苦い言葉をもらす。
「私、一也さんが好きだった頃があったわ」
由奈は、優しい思い出を語るように心を打ち明ける。
「でも全然だめ。瑞希ちゃんの十分の一だって、私には愛情をくれなかった。そういう人なんだってわかってから、可愛くも思えるようになったけど」
「……由奈さん」
「悪い人よね、あの人は。自分勝手で、そのくせ魅力的で」
由奈はため息をついて告げる。
「あの人に好きなんて言うのは危険すぎる。だから逃げるなら、これが最後のチャンスかもしれないわよ?」
そのときだった。インターホンが鳴って、瑞希はそのタイミングの良さに息を呑んだ。
悪意のある訪問者、たとえば由奈の元夫だと想像してもおかしくなかったのに、瑞希はそれを直感的に一也だと思った。
瑞希が硬直したままでいると、由奈はモニターで外を確認して、瑞希を振り向く。
由奈は瑞希を見て、どうしたいかと目で問いかけた。
でももう迷う気持ちはなかった。瑞希は吸い寄せられるように玄関に足を向けた。
瑞希はのろのろと、その手で扉を開ける。
「……瑞希」
そこに立っていた一也は、憔悴しきって見えた。けれど瑞希の姿をみとめると、泣きそうなくらいに目を和らげた。
半歩先で立つ瑞希に、一也はぽつりと切り出す。
「本当に大事なら……瑞希を自由にしてやれるだろうと、思ったんだ」
一也は目を伏せて、掠れた声で言葉を続ける。
「俺は、大丈夫。瑞希がいなかった頃に戻るだけだと。そうやって暮らしていた頃もあっただろうと、自分に言い聞かせたんだ」
そこまで一也は言葉を続けると、ふいにくしゃりと顔を歪めた。
「でも、瑞希のいない日々は……俺には、朝の来ない夜みたいだった。瑞希を中心に俺の世界は動いていたんだって、気づいた」
「……私だって」
瑞希も顔を歪めて一也を見上げる。
「私も、一也と離れて……空しかったよ。だから」
瑞希は腕を広げて、ぎゅっと一也を抱きしめる。
「一也、もう離さないでいて」
一也はごくんと息を呑んで、瑞希の背に腕を回す。
瑞希はうなずいて言葉を続けた。
「家族ごっこだって笑われたっていいじゃない。だって私たち、それでずっと幸せだったじゃない」
「……ああ。そうだ」
一也は強く瑞希を抱きしめ返して言う。
「いいんだな? もうどこにも行かせない。……未来ごと、さらっていくぞ」
「うん……いいよ」
瑞希はうなずいて、少しだけ照れくさそうにささやく。
「一也。いつか……ね?」
瑞希の言葉に一也は悪い大人らしく喉で笑った。
一也の答えは、瑞希の頭に口づけることだった。瑞希は顔を赤くして、「今じゃないよ、いつかなんだから」と言い訳のように続けた。
瑞希と一也のふたりぼっちの生活は、まだしばらく続く。
喧嘩をいっぱいして、周りに迷惑をかけて、それでも結局二人でいる。
でもこの頃から二人で作り出した変化は、いつか大きな未来に変わる。
……二人が、ふたりぼっちじゃない未来を共有するようになるのは、もう少しだけ先の話。
夜、茉優を寝かしつけて、由奈がようやく自分の時間を持つことができるときのことだった。
瑞希が居間に入ったら、由奈は携帯電話を手に目を濡らしていた。
「由奈さん?」
「……本当に、瑞希ちゃんのことばっかりなんだから」
勘のいい瑞希は、由奈の言葉に今しがたの電話の相手を察した。
瑞希は頭を下げて由奈に謝る。
「電話の相手、一也でしたか? ……ごめんなさい」
でも由奈は首を横に振って、瑞希に文句をつけることはなかった。由奈の優しさに瑞希は言葉が出なくて、二人で黙りこくる。
瑞希は、ここをもう出て行くつもりでいる。でもあとひといきの勇気が、出ない。
けれどもそれで由奈に迷惑をかけるなら、今すぐ下宿をみつけてでも出て行かなければ。瑞希はそう思って、顔を上げたときだった。
由奈は苦笑して瑞希に言った。
「一也さんはね、「瑞希は自分が嫌いになったんだろうか」って言っていたわ」
「……それは」
由奈は首を横に振って、言葉を続ける。
「まだわからないのかしら。好きとか嫌いじゃないでしょう?」
瑞希はうなずいて、言いにくそうに告げる。
「はい。……そんな境界、とっくの昔に過ぎたのに」
もう夜は深く、外は車が通る音さえしなかった。一日の疲れのままに、静かに眠りにつく時間だった。
その静寂の中で、由奈はふいに切り出す。
「瑞希ちゃんは覚えている? 初めて瑞希ちゃんが一也さんのところに来た頃」
瑞希は黙って考えたが、はっきりとは思い出せなかった。
瑞希が仕方なく首を横に振ると、由奈は柔く笑って言う。
「私はよく覚えてる。一也さんに、「あなたの孫じゃないんですよ」って笑って言った。……それくらい、可愛くて仕方ないって様子だった」
瑞希はくしゃりと顔を歪めた。少しだけ思い出せたからだった。
両親を失って寂しかった瑞希は、とにかく一也にくっつきたがった。料理をしようとする一也の足にくっついて邪魔をして、抱っこをせがんで、夜寝るときも一也のベッドの中にもぐりこんだ。
でも一也は、瑞希が好きなだけ甘えさせてくれた。
かずや、大好き。そう言った瑞希に、一也はむずかゆそうに笑った。
今の瑞希は、そのときよりは大人になった。屈託なく大好きとは言えなくて、言葉を濁した。
「ふたりぼっちだったからですよ。お互い寂しかっただけです」
「それもあったでしょうね。……でも、それだけだったの?」
由奈は目を伏せて苦い言葉をもらす。
「私、一也さんが好きだった頃があったわ」
由奈は、優しい思い出を語るように心を打ち明ける。
「でも全然だめ。瑞希ちゃんの十分の一だって、私には愛情をくれなかった。そういう人なんだってわかってから、可愛くも思えるようになったけど」
「……由奈さん」
「悪い人よね、あの人は。自分勝手で、そのくせ魅力的で」
由奈はため息をついて告げる。
「あの人に好きなんて言うのは危険すぎる。だから逃げるなら、これが最後のチャンスかもしれないわよ?」
そのときだった。インターホンが鳴って、瑞希はそのタイミングの良さに息を呑んだ。
悪意のある訪問者、たとえば由奈の元夫だと想像してもおかしくなかったのに、瑞希はそれを直感的に一也だと思った。
瑞希が硬直したままでいると、由奈はモニターで外を確認して、瑞希を振り向く。
由奈は瑞希を見て、どうしたいかと目で問いかけた。
でももう迷う気持ちはなかった。瑞希は吸い寄せられるように玄関に足を向けた。
瑞希はのろのろと、その手で扉を開ける。
「……瑞希」
そこに立っていた一也は、憔悴しきって見えた。けれど瑞希の姿をみとめると、泣きそうなくらいに目を和らげた。
半歩先で立つ瑞希に、一也はぽつりと切り出す。
「本当に大事なら……瑞希を自由にしてやれるだろうと、思ったんだ」
一也は目を伏せて、掠れた声で言葉を続ける。
「俺は、大丈夫。瑞希がいなかった頃に戻るだけだと。そうやって暮らしていた頃もあっただろうと、自分に言い聞かせたんだ」
そこまで一也は言葉を続けると、ふいにくしゃりと顔を歪めた。
「でも、瑞希のいない日々は……俺には、朝の来ない夜みたいだった。瑞希を中心に俺の世界は動いていたんだって、気づいた」
「……私だって」
瑞希も顔を歪めて一也を見上げる。
「私も、一也と離れて……空しかったよ。だから」
瑞希は腕を広げて、ぎゅっと一也を抱きしめる。
「一也、もう離さないでいて」
一也はごくんと息を呑んで、瑞希の背に腕を回す。
瑞希はうなずいて言葉を続けた。
「家族ごっこだって笑われたっていいじゃない。だって私たち、それでずっと幸せだったじゃない」
「……ああ。そうだ」
一也は強く瑞希を抱きしめ返して言う。
「いいんだな? もうどこにも行かせない。……未来ごと、さらっていくぞ」
「うん……いいよ」
瑞希はうなずいて、少しだけ照れくさそうにささやく。
「一也。いつか……ね?」
瑞希の言葉に一也は悪い大人らしく喉で笑った。
一也の答えは、瑞希の頭に口づけることだった。瑞希は顔を赤くして、「今じゃないよ、いつかなんだから」と言い訳のように続けた。
瑞希と一也のふたりぼっちの生活は、まだしばらく続く。
喧嘩をいっぱいして、周りに迷惑をかけて、それでも結局二人でいる。
でもこの頃から二人で作り出した変化は、いつか大きな未来に変わる。
……二人が、ふたりぼっちじゃない未来を共有するようになるのは、もう少しだけ先の話。