大魔法使いアンブローズ・オルブライトによる愛弟子たちへの優しい謀略
オルブライト侯爵の暗躍 3
レイチェルは優雅な所作でパトリスの淹れたお茶を飲んでいたが、ゆっくりとティーカップをソーサーの上に戻した。
「まるであなたに懐いている大きな犬のようだわ。それに使用人に敬語を使うなんて、まだ身分に合った振舞をわかっていないようね」
ぽつりと、レイチェルが言葉を零した。呆れているような、しかしいつになく穏やかな声音だ。
「――あなた、自分から望んでホリングワース男爵について行ったそうね」
不意に声をかけられたパトリスは、自分に向けられた言葉だと気付くのにしばし時間を要した。
「はい、微力ながらお支えしたいと思いましたので旦那様に願い出ました。ホリングワース男爵が目の見えない生活に慣れるまでの間という期限付きです」
「兄弟子を助けたいからなのかしら?」
「……いいえ、ブラッドを愛しているからです」
「彼を諦めなさい。魔法を使えないあなたが魔法騎士として名声を得たホリングワース男爵と釣り合うわけがないわ」
「――っ」
レイチェルの冷たく容赦のない言葉がパトリスの心を深く抉る。
言われなくてもわかっていたことだ。それでも少しの間だけその現実を忘れたかった。
目の奥が痛みと熱を持つ。ともすれば涙が浮かんで、そのまま零れ落ちてしまいそうだ。
今ここで泣きたくはない。
パトリスはぎゅっと瞼を閉じると、心を落ち着けるように、ゆっくりと静かに息を吐いた。
「存じています。私はこの想いをブラッドに伝えるつもりはありません。私なんかがブラッドに釣り合うわけがありませんし、想いを伝えたところで迷惑になるだけです」
「……そう。それならいいわ」
やや沈黙したのち、レイチェルは力なく言葉を返す。躊躇いを含んだような静けさだった。
その異様な空白に違和感を覚えたパトリスは瞼を開く。見ると、レイチェルはなぜか傷ついたような表情を浮かべているではないか。
泣きたいのは、パトリスの方だというのに。
「ここでの仕事を終えたらオルブライト侯爵家の領主邸へ行きなさい。あそこにいる使用人たちは長年仕えている者ばかりで、若手を欲しがっているそうよ」
「いいえ、私はここでの仕事を終えたら、オルブライト侯爵家のメイドの仕事を辞めようと思います」
「なんですって?」
レイチェルが茫然とパトリスを見つめた。パトリスはどこか冷静で、姉もこのような表情をするのかと内心感激していた。
「旦那様と約束をしていたんです。やりたいことを見つけるまでメイドとして働かせていただくと。だけど私はいつまでたってもやりたいことを見つけられないまま、旦那様や同僚たちに頼ってばかりでした。そんな自分を変えていきたいので、屋敷を出て街で働こうと思います」
先ほどレイチェルと対峙して気付かされた。自分は周りの人間たちに恵まれているだけで、自分自身の力が全くないということを。
権力をほしいとは思わないが、せめて一人で生きていける生活力がほしい。そうしなければ、他人に頼って迷惑をかけてばかりの自分を呪いたくなってしまう。
「止めなさい。今までずっとグランヴィル伯爵家かオルブライト侯爵家の屋敷の中で生活してきたあなたが外の世界で生きていけるはずがないわ」
「外の世界で生きていくために、外に出るんです」
「ふざけないで。魔法を使えないあなたが外の世界に出ると、すぐに酷い目に遭うわ。ちょっとしたことが引き金になって、あなたがグランヴィル伯爵家の次女だと知った者がまた誘拐を企てるかもしれない。今度こそ誰も助けてくれないかもしれないのよ?」
レイチェルは立ち上がると、縋るようにパトリスの両肩を強く掴んだ。
いつもの冷静さはなく、切実さの滲む表情を彼女に向ける。
「そもそも、夫が許すはずがないわ。口先ではあなたの自由を約束しているけれど、きっと理由をつけて自分の監視下に置くはずよ」
「旦那様に限ってそのようなことはしません。旦那様はいつも私を」
パトリスの言葉に、レイチェルは悔しそうに唇を噛む。
「ローズは変わってしまったの。あなたが思うような温和な人じゃないわ!」
今にも泣き出してしまいそうな声で、そう叫んだ。
その時、応接室の扉がノックもなしに開いた。扉の先にいたのは、アンブローズとブラッド、そしてシレンスだ。
「そこまでだよ、レイチェル」
アンブローズはいつもの穏やかな声でレイチェルを諫める。しかしその目には獲物に狙いを定めた肉食獣のような鋭さが宿っていた。
「外まで君の声が聞こえていたよ。……まあ、君がこの部屋全体にかけていた防音魔法を私が解いてしまったからなのだけど」
「……っ、どこから話を聞いていたの?」
「『今までずっとグランヴィル伯爵家かオルブライト侯爵家の屋敷の中で生活してきたあなたが外の世界で生きていけるはずがないわ』からだね。そこからは全て聞かせてもらったよ」
アンブローズはレイチェルの手に触れると、パトリスの肩から離す。そのままレイチェルを自分の腕の中に閉じ込めた。
「君が私をローズと呼んでくれていたなんて初めて知ったよ。なんせ、その名前で私を呼ぶ人はたった一人だけだと思っていたからね。それに、君から見て私がどう変わったのか教えてもらいたいものだね。私たちはもっと話をしてお互いを知る必要がありそうだ」
「~~いらないわよ。恥ずかしいから離れてちょうだい!」
レイチェルがジタバタと藻掻くが、アンブローズは涼しい顔のまま腕に力を込めてレイチェルを拘束し続ける。
その様子を茫然と眺めるパトリスたちに、アンブローズは片目を瞑ってみせた。
「ブラッド、夜分に押しかけた挙句に騒いでしまってすまないね。後日改めて謝罪しに来るよ」
「い、いえ、お気になさらず……」
「ああ、そうだ。明日はリズとシレンスは必ず家の中に入れておいてね。誰が来ても出てはいけないよ。たとえ、その相手が私を名乗っていてもね」
「……わかっています」
ブラッドは神妙な声で答えた。
先ほどまでアンブローズの腕の中で暴れていたレイチェルも、途端に抵抗を止めてどこか緊張した面持ちになった。
明日は別段大きな用事があるわけではなく、ブラッドの療養休暇最終日としか聞いていない。
しかしアンブローズたちの表情を見る限り、何の変哲もない一日ではなさそうだ。
「それでは明後日の早晨の頃合いに、全てを終わらせて我が屋敷に集おう」
アンブローズはそう宣言すると、レイチェルの肩を抱いて屋敷を後にした。
新月の夜の、星明かりだけの心もとない暗闇の中。
彼らを乗せた馬車が王都を駆け抜けた。
「まるであなたに懐いている大きな犬のようだわ。それに使用人に敬語を使うなんて、まだ身分に合った振舞をわかっていないようね」
ぽつりと、レイチェルが言葉を零した。呆れているような、しかしいつになく穏やかな声音だ。
「――あなた、自分から望んでホリングワース男爵について行ったそうね」
不意に声をかけられたパトリスは、自分に向けられた言葉だと気付くのにしばし時間を要した。
「はい、微力ながらお支えしたいと思いましたので旦那様に願い出ました。ホリングワース男爵が目の見えない生活に慣れるまでの間という期限付きです」
「兄弟子を助けたいからなのかしら?」
「……いいえ、ブラッドを愛しているからです」
「彼を諦めなさい。魔法を使えないあなたが魔法騎士として名声を得たホリングワース男爵と釣り合うわけがないわ」
「――っ」
レイチェルの冷たく容赦のない言葉がパトリスの心を深く抉る。
言われなくてもわかっていたことだ。それでも少しの間だけその現実を忘れたかった。
目の奥が痛みと熱を持つ。ともすれば涙が浮かんで、そのまま零れ落ちてしまいそうだ。
今ここで泣きたくはない。
パトリスはぎゅっと瞼を閉じると、心を落ち着けるように、ゆっくりと静かに息を吐いた。
「存じています。私はこの想いをブラッドに伝えるつもりはありません。私なんかがブラッドに釣り合うわけがありませんし、想いを伝えたところで迷惑になるだけです」
「……そう。それならいいわ」
やや沈黙したのち、レイチェルは力なく言葉を返す。躊躇いを含んだような静けさだった。
その異様な空白に違和感を覚えたパトリスは瞼を開く。見ると、レイチェルはなぜか傷ついたような表情を浮かべているではないか。
泣きたいのは、パトリスの方だというのに。
「ここでの仕事を終えたらオルブライト侯爵家の領主邸へ行きなさい。あそこにいる使用人たちは長年仕えている者ばかりで、若手を欲しがっているそうよ」
「いいえ、私はここでの仕事を終えたら、オルブライト侯爵家のメイドの仕事を辞めようと思います」
「なんですって?」
レイチェルが茫然とパトリスを見つめた。パトリスはどこか冷静で、姉もこのような表情をするのかと内心感激していた。
「旦那様と約束をしていたんです。やりたいことを見つけるまでメイドとして働かせていただくと。だけど私はいつまでたってもやりたいことを見つけられないまま、旦那様や同僚たちに頼ってばかりでした。そんな自分を変えていきたいので、屋敷を出て街で働こうと思います」
先ほどレイチェルと対峙して気付かされた。自分は周りの人間たちに恵まれているだけで、自分自身の力が全くないということを。
権力をほしいとは思わないが、せめて一人で生きていける生活力がほしい。そうしなければ、他人に頼って迷惑をかけてばかりの自分を呪いたくなってしまう。
「止めなさい。今までずっとグランヴィル伯爵家かオルブライト侯爵家の屋敷の中で生活してきたあなたが外の世界で生きていけるはずがないわ」
「外の世界で生きていくために、外に出るんです」
「ふざけないで。魔法を使えないあなたが外の世界に出ると、すぐに酷い目に遭うわ。ちょっとしたことが引き金になって、あなたがグランヴィル伯爵家の次女だと知った者がまた誘拐を企てるかもしれない。今度こそ誰も助けてくれないかもしれないのよ?」
レイチェルは立ち上がると、縋るようにパトリスの両肩を強く掴んだ。
いつもの冷静さはなく、切実さの滲む表情を彼女に向ける。
「そもそも、夫が許すはずがないわ。口先ではあなたの自由を約束しているけれど、きっと理由をつけて自分の監視下に置くはずよ」
「旦那様に限ってそのようなことはしません。旦那様はいつも私を」
パトリスの言葉に、レイチェルは悔しそうに唇を噛む。
「ローズは変わってしまったの。あなたが思うような温和な人じゃないわ!」
今にも泣き出してしまいそうな声で、そう叫んだ。
その時、応接室の扉がノックもなしに開いた。扉の先にいたのは、アンブローズとブラッド、そしてシレンスだ。
「そこまでだよ、レイチェル」
アンブローズはいつもの穏やかな声でレイチェルを諫める。しかしその目には獲物に狙いを定めた肉食獣のような鋭さが宿っていた。
「外まで君の声が聞こえていたよ。……まあ、君がこの部屋全体にかけていた防音魔法を私が解いてしまったからなのだけど」
「……っ、どこから話を聞いていたの?」
「『今までずっとグランヴィル伯爵家かオルブライト侯爵家の屋敷の中で生活してきたあなたが外の世界で生きていけるはずがないわ』からだね。そこからは全て聞かせてもらったよ」
アンブローズはレイチェルの手に触れると、パトリスの肩から離す。そのままレイチェルを自分の腕の中に閉じ込めた。
「君が私をローズと呼んでくれていたなんて初めて知ったよ。なんせ、その名前で私を呼ぶ人はたった一人だけだと思っていたからね。それに、君から見て私がどう変わったのか教えてもらいたいものだね。私たちはもっと話をしてお互いを知る必要がありそうだ」
「~~いらないわよ。恥ずかしいから離れてちょうだい!」
レイチェルがジタバタと藻掻くが、アンブローズは涼しい顔のまま腕に力を込めてレイチェルを拘束し続ける。
その様子を茫然と眺めるパトリスたちに、アンブローズは片目を瞑ってみせた。
「ブラッド、夜分に押しかけた挙句に騒いでしまってすまないね。後日改めて謝罪しに来るよ」
「い、いえ、お気になさらず……」
「ああ、そうだ。明日はリズとシレンスは必ず家の中に入れておいてね。誰が来ても出てはいけないよ。たとえ、その相手が私を名乗っていてもね」
「……わかっています」
ブラッドは神妙な声で答えた。
先ほどまでアンブローズの腕の中で暴れていたレイチェルも、途端に抵抗を止めてどこか緊張した面持ちになった。
明日は別段大きな用事があるわけではなく、ブラッドの療養休暇最終日としか聞いていない。
しかしアンブローズたちの表情を見る限り、何の変哲もない一日ではなさそうだ。
「それでは明後日の早晨の頃合いに、全てを終わらせて我が屋敷に集おう」
アンブローズはそう宣言すると、レイチェルの肩を抱いて屋敷を後にした。
新月の夜の、星明かりだけの心もとない暗闇の中。
彼らを乗せた馬車が王都を駆け抜けた。