大魔法使いアンブローズ・オルブライトによる愛弟子たちへの優しい謀略
オルブライト侯爵の謀略 2
「――パトリス?」
次いで、聞き慣れた声が自分の名前を呼ぶ。
声がした方を振り返ると、ブラッドが薔薇のアーチに手をついて立っているではないか。
「ブラッド……」
パトリスは自分の口を突いて出た言葉に慌て、口元を両手で覆った。それでもしゃっくりが止まらず、零れる声がブラッドに自分の居場所を知らせてしまう。
ブラッドは声を辿って、パトリスがいる方向に顔を向ける。
「声が聞こえたからもしかしてと思ったけど、やはりパトリスなのか……どうしてここに? ――それよりも、泣いているのかい?」
どこまでブラッドに聞かれてしまったのだろうか。
焦るあまり考えがまとまらない。
「パトリス、すまないが目が見えないんだ。お願いだから声を聞かせてくれ」
いつもは慣れない足取りで慎重に歩くのに、今は足がもつれるのもお構いなしに前に進む。
誤ってパトリスを踏みつけてしまわないよう、伸ばした手が宙をかく。
パトリスはやや覚束ない足取りで近づくブラッドを案じ、同じように手を伸ばした。
「ブラッド、ここにいるわ」
その声に導かれるようにブラッドの手が動き――二人の指先が触れ合う。
そうしてお互いを確かめ合うように、ゆっくりと指を交差させた。
ブラッドはパトリスの目の前にしゃがむと、空いている方の手を彷徨わせてパトリスの髪に触れる。そこからゆっくりと上へと動かし、パトリスの頭に乗せた。
まるでパトリスをあやすように、ぽんぽんと優しく撫でる。
「パトリス、もう大丈夫だよ。なにがあったのか言ってごらん?」
落ち着いた声音に、優しい言葉。
子どもの頃にもかけてくれた懐かしい言葉に、パトリスはきゅっと胸が軋むのを感じた。
「ブラッドが来てくれたからもう大丈夫よ」
「それならいいけど……それにしても、パトリスがうちの庭にいるなんて……夢でも見ているのかな?」
ブラッドが自分の頬を抓ろうと手を動かすと、パトリスがやんわりとその手を押さえて止めた。
「そう、これは夢よ。ブラッドに会いたくて、夢に出てきたの」
騙すことになって申し訳ないけれど、そうするしかない。
少しだけブラッドと話をして、その後はどこかに隠れ、ブラッドがいなくなるまでやり過ごそう。
ブラッドは魔力で人の気配を察しているけれど、魔力がない自分なら気配を隠し通せるはずだ。
「夢でもようやく会えて嬉しいよ。現実の世界でも会いに行くから、待っていてね?」
「……ええ」
逡巡した後、彼に嘘をついた。
ブラッドが会いたがってくれるのは嬉しいけれど、彼に会えば絶対にこの恋を終わらせられない。
「実は、魔法騎士から教官になったんだ。これからはパトリスに会える時間が増えるよ。だからグランヴィル伯爵を説得してパトリスに会いに行くつもりだ。それに、パトリスに渡したい物があるんだ。もしよかったら受け取ってほしい」
「渡したい物?」
「この前、街に出た時にパトリスに似合いそうな髪飾りを見つけたんだ。……といっても、目が見えないから付き添ってもらったメイドのリズさんに外観を聞いて、似合いそうだと思ったんだけど……」
街に出て見つけた髪飾りとは、きっとあの銀細工の小花をあしらったのバレッタのことだ。
合点するや否や、パトリスは頬を赤くした。
鼓動が駆け足になる。
まさかあれは自分への贈り物だったなんて。
(大切な人に贈りたいって言っていたけど、その大切な人って、私だったの?)
もちろん妹弟子として好ましく思ってくれているのはわかっている。しかし贈り物を選んでいた時のブラッドは――まるでその相手に恋焦がれているかのようだった。
パトリスは口をパクパクと開けたり閉じたりするばかりで、なにも言葉を紡げない。
「パトリス、お願いだからもう遠くに行かないで。ぜったいに君を守るから、だから俺の前から消えないで――」
愛する人もまた自分を愛してくれているなんて、それこそ夢でも見ているのだろうか。
甘い感情が心を溶かす。
しかしパトリスは首を横に振ると、冷静に自分に言い聞かせた。
(受け取ってはダメよ。だって私は、ブラッドに相応しくないもの)
だけど今の一瞬だけは、彼の想いを享受したい。
「ブラッド、ごめんなさい」
小さく謝ると、彼の唇にそっと自分の唇を触れさせる。
ブラッドは息も忘れ、パトリスからもたらされる温かな感覚を受けとめた。
キスなんて一度もした事がなかったパトリスは触れさせるだけで精いっぱいで、気恥ずかしさのあまりすぐに身を引いた。
しかし逞しい腕と大きな掌が彼女を逃がさず、気付くとまた温かく柔らかなものが唇に触れている。
不意打ちに驚き目を見開いたパトリスは、耳の奥でなにかがガシャンと音を立てて砕ける音を聞いた。
しかし慣れないキスを受けとめるので精一杯なパトリスは、聞こえた音すら忘れてしまった。
翻弄されながらも、ブラッドの目が治るようにと祈る。
それがパトリスなりの餞だった。
離れられなくなる前に離れようとしたその時、淡い光が膜のようにパトリスとブラッドを包む。
「いったい、なにが起こったの?」
ぱちくりと目を瞬かせた間に光は消えた。
自分の手を見つめて何か変化はないかと観察していたパトリスは、不意に目の前から視線を感じた。
見上げると、ブラッドの新緑のような緑色の瞳がしっかりと自分を映しているではないか。
「パトリスが見えている……もしかして、視力が戻った……?」
ブラッドは自分の頬を抓ると、「痛い」と小さく零す。
「どうやら夢ではないようだけど……それに、どうしてパトリスの髪の色がリズさんと同じ栗色になっているのかな? パトリス、事情を説明してくれるかい?」
いつもは優しい兄弟子の声音に怒りが滲んでいる。
パトリスは小さく震えた。
騙してしまったのだから、怒られても仕方がない。
「……ごめんなさい。ブラッドのことが心配で、私からメイドとして一緒にいたいと旦那様に言って――」
「わーっ、パトリスは謝らないで? パトリスには怒っていないよ。師匠に怒っているんだ。全ての元凶は師匠だってわかっているから」
ブラッドはしゅんとするパトリスに弁明した。
あの師匠、絶対に許さないと心に誓いながら。
次いで、聞き慣れた声が自分の名前を呼ぶ。
声がした方を振り返ると、ブラッドが薔薇のアーチに手をついて立っているではないか。
「ブラッド……」
パトリスは自分の口を突いて出た言葉に慌て、口元を両手で覆った。それでもしゃっくりが止まらず、零れる声がブラッドに自分の居場所を知らせてしまう。
ブラッドは声を辿って、パトリスがいる方向に顔を向ける。
「声が聞こえたからもしかしてと思ったけど、やはりパトリスなのか……どうしてここに? ――それよりも、泣いているのかい?」
どこまでブラッドに聞かれてしまったのだろうか。
焦るあまり考えがまとまらない。
「パトリス、すまないが目が見えないんだ。お願いだから声を聞かせてくれ」
いつもは慣れない足取りで慎重に歩くのに、今は足がもつれるのもお構いなしに前に進む。
誤ってパトリスを踏みつけてしまわないよう、伸ばした手が宙をかく。
パトリスはやや覚束ない足取りで近づくブラッドを案じ、同じように手を伸ばした。
「ブラッド、ここにいるわ」
その声に導かれるようにブラッドの手が動き――二人の指先が触れ合う。
そうしてお互いを確かめ合うように、ゆっくりと指を交差させた。
ブラッドはパトリスの目の前にしゃがむと、空いている方の手を彷徨わせてパトリスの髪に触れる。そこからゆっくりと上へと動かし、パトリスの頭に乗せた。
まるでパトリスをあやすように、ぽんぽんと優しく撫でる。
「パトリス、もう大丈夫だよ。なにがあったのか言ってごらん?」
落ち着いた声音に、優しい言葉。
子どもの頃にもかけてくれた懐かしい言葉に、パトリスはきゅっと胸が軋むのを感じた。
「ブラッドが来てくれたからもう大丈夫よ」
「それならいいけど……それにしても、パトリスがうちの庭にいるなんて……夢でも見ているのかな?」
ブラッドが自分の頬を抓ろうと手を動かすと、パトリスがやんわりとその手を押さえて止めた。
「そう、これは夢よ。ブラッドに会いたくて、夢に出てきたの」
騙すことになって申し訳ないけれど、そうするしかない。
少しだけブラッドと話をして、その後はどこかに隠れ、ブラッドがいなくなるまでやり過ごそう。
ブラッドは魔力で人の気配を察しているけれど、魔力がない自分なら気配を隠し通せるはずだ。
「夢でもようやく会えて嬉しいよ。現実の世界でも会いに行くから、待っていてね?」
「……ええ」
逡巡した後、彼に嘘をついた。
ブラッドが会いたがってくれるのは嬉しいけれど、彼に会えば絶対にこの恋を終わらせられない。
「実は、魔法騎士から教官になったんだ。これからはパトリスに会える時間が増えるよ。だからグランヴィル伯爵を説得してパトリスに会いに行くつもりだ。それに、パトリスに渡したい物があるんだ。もしよかったら受け取ってほしい」
「渡したい物?」
「この前、街に出た時にパトリスに似合いそうな髪飾りを見つけたんだ。……といっても、目が見えないから付き添ってもらったメイドのリズさんに外観を聞いて、似合いそうだと思ったんだけど……」
街に出て見つけた髪飾りとは、きっとあの銀細工の小花をあしらったのバレッタのことだ。
合点するや否や、パトリスは頬を赤くした。
鼓動が駆け足になる。
まさかあれは自分への贈り物だったなんて。
(大切な人に贈りたいって言っていたけど、その大切な人って、私だったの?)
もちろん妹弟子として好ましく思ってくれているのはわかっている。しかし贈り物を選んでいた時のブラッドは――まるでその相手に恋焦がれているかのようだった。
パトリスは口をパクパクと開けたり閉じたりするばかりで、なにも言葉を紡げない。
「パトリス、お願いだからもう遠くに行かないで。ぜったいに君を守るから、だから俺の前から消えないで――」
愛する人もまた自分を愛してくれているなんて、それこそ夢でも見ているのだろうか。
甘い感情が心を溶かす。
しかしパトリスは首を横に振ると、冷静に自分に言い聞かせた。
(受け取ってはダメよ。だって私は、ブラッドに相応しくないもの)
だけど今の一瞬だけは、彼の想いを享受したい。
「ブラッド、ごめんなさい」
小さく謝ると、彼の唇にそっと自分の唇を触れさせる。
ブラッドは息も忘れ、パトリスからもたらされる温かな感覚を受けとめた。
キスなんて一度もした事がなかったパトリスは触れさせるだけで精いっぱいで、気恥ずかしさのあまりすぐに身を引いた。
しかし逞しい腕と大きな掌が彼女を逃がさず、気付くとまた温かく柔らかなものが唇に触れている。
不意打ちに驚き目を見開いたパトリスは、耳の奥でなにかがガシャンと音を立てて砕ける音を聞いた。
しかし慣れないキスを受けとめるので精一杯なパトリスは、聞こえた音すら忘れてしまった。
翻弄されながらも、ブラッドの目が治るようにと祈る。
それがパトリスなりの餞だった。
離れられなくなる前に離れようとしたその時、淡い光が膜のようにパトリスとブラッドを包む。
「いったい、なにが起こったの?」
ぱちくりと目を瞬かせた間に光は消えた。
自分の手を見つめて何か変化はないかと観察していたパトリスは、不意に目の前から視線を感じた。
見上げると、ブラッドの新緑のような緑色の瞳がしっかりと自分を映しているではないか。
「パトリスが見えている……もしかして、視力が戻った……?」
ブラッドは自分の頬を抓ると、「痛い」と小さく零す。
「どうやら夢ではないようだけど……それに、どうしてパトリスの髪の色がリズさんと同じ栗色になっているのかな? パトリス、事情を説明してくれるかい?」
いつもは優しい兄弟子の声音に怒りが滲んでいる。
パトリスは小さく震えた。
騙してしまったのだから、怒られても仕方がない。
「……ごめんなさい。ブラッドのことが心配で、私からメイドとして一緒にいたいと旦那様に言って――」
「わーっ、パトリスは謝らないで? パトリスには怒っていないよ。師匠に怒っているんだ。全ての元凶は師匠だってわかっているから」
ブラッドはしゅんとするパトリスに弁明した。
あの師匠、絶対に許さないと心に誓いながら。