大魔法使いアンブローズ・オルブライトによる愛弟子たちへの優しい謀略
オルブライト侯爵の客人 3
「パトリス、急ぐわよ」
「うん!」
帰宅したアンブローズとそのお客様を出迎えるため、掃除道具を片付けたパトリスとホリーは、庭園を駆け抜ける。
オルブライト侯爵家のタウンハウスは、高位貴族の屋敷が建ち並ぶ、煌びやかな一角にある。
上空から見るとコの字型に近い形状で、華やかさはないが堅牢で洗練された佇まいの白亜の屋敷だ。
屋敷の東側には背の高いガラス張りの温室が隣接しており、屋敷とはガラス張りの通路で繋がっている。そこを掃除するのが、ハウスメイドであるパトリスの日課だ。
建物の周囲は庭園で彩られており、春先の今は柔らかな萌黄色の緑と淡い色の花々で満ちている。
「それにしても、お客様は誰なのかしら? ホリーは知ってる?」
「ホリングワース男爵よ」
「えっ……本当に?!」
パトリスの声が上ずる。久しぶりに聞く兄弟子の名前に、どくんと心臓が大きく脈を打った。
ホリングワース男爵ことブラッド・ホリングワースは、今年で二十五歳になる。
魔法騎士として功績を上げた彼は、二年前に国王から男爵位を授かった。
「旦那様から執事長宛てに、ホリングワース男爵をもてなす準備をするよう言伝の魔法が届いたのですって。執事長本人からそう聞いたのだから、間違いないわ」
「そう……なんだ」
パトリスはそっと、自分の胸元に手を当てる。自分の心臓が駆け足で脈を打つのを感じた。
ブラッドとは、三年前に助けてもらって以来、会っていない。この三年間、一度も屋敷を訪ねてきていないのだ。
片想いの相手に会えるのは嬉しい。しかし、今の何もかも失った自分を彼に知られたくない。
パトリスはハウスメイドとして雇ってもらうこととなったその日、アンブローズにとある約束をしている。それは、パトリスがメイドとして働いていることをブラッドには知らせないでほしいということ。
だからブラッドが屋敷を訪ねる時は、顔を合わさないよう取り計らってもらうことになっていた。それなのに今、ブラッドを出迎えようとしている。
アンブローズがうっかり自分との約束を忘れてしまったのではないかと、パトリスは不安になった。
(遠くからだと見えないから、気づかれないよね。それに、ブラッドは私がメイドをしていることは知らないから、もし目が合っても他人の空似と思うのかも……)
屋敷の正面玄関の前には先に到着した使用人たちが並んでいる。今回もレイチェルの姿はなかった。先頭に立つのは執事長と侍女長だ。
パトリスは後方にひっそりと隠れるように並び、庭園の前にある漆黒の門が開かれる様子を固唾を飲んで見守る。
開かれた門から、漆黒の艶やかな馬車が入り込んだ。オルブライト侯爵家の馬車だ。
馬車は専用の石畳の道をぐるりと回り、使用人たちの前で停まった。
執事長が馬車の扉を開ける。初めに馬車から降りてきたのはアンブローズだ。
今日のアンブローズは、チャコールグレーのジャケットとスラックスと白のシャツの上から、漆黒のローブを着ている。
彼が顔を使用人たちに向けると、左耳につけている青色の魔法石のピアスがキラリと輝いた。
「旦那様、おかえりなさいませ」
使用人たちが一斉に身を屈め、礼をとる。アンブローズはすぐに頭をあげさせた。
「出迎えありがとう。客人を温室に案内するから、手伝ってくれ。――シレンス、ブラッドを頼む」
シレンスと呼ばれた男は、猛禽類を彷彿とさせる鋭い金色の瞳を持つ、鳶色の髪を頭の後ろで束ねている五十代の執事だ。屈強な体躯で、おまけに強面。口数が少なく表情の変化も乏しいため、初対面の相手は必ずと言っていいほど委縮してしまう。
しかしシレンスは心優しく、いつも率先して力仕事をしてくれるため、使用人仲間たちからの信頼が厚い。
「どうしてシレンスさんを呼ぶのかしら?」
「さあ? もしかして、怪我をしていらっしゃるのかもしれないわね」
使用人たちが見守るなか、シレンスは馬車のステップに片足をかけると、中にいる人物に手を差し出す。ブラッドの騎士らしい大きな手が、その手を取った。シレンスはゆっくりと、ブラッドの体を引く。馬車から出て来た屈強な美丈夫は、シレンスに助けられながら庭園に降り立った。
(ブラッド――!)
パトリスは久しぶりに見る片思いの相手の姿に、嬉しさのあまり泣きそうになった。
三年前と変わらない精悍な顔つきで、漆黒の髪はきちんと整えている。今日は白いシャツに茶色のベストと黒色のスラックスといったラフな装いだが、背が高くしなやかで引き締まった体躯のブラッドは、何を着ていてもカッコよく見えた。
「シレンスさん、ありがとう」
ブラッドはシレンスに感謝を伝える。しかしブラッドの橄欖石のような瞳は視線が定まっておらず、シレンスを見ていない。
どことなく様子のおかしいブラッドに、使用人たちは青ざめる。彼らにとってブラッドはアンブローズの弟子であり、大切な客人だ。幼少期より弟子としてこの屋敷に過ごしてきた彼とは積み重ねてきた思い出がある。そんな彼によからぬことが起こったのではないかと、心から案じているのだ。
パトリスもまた、ブラッドの視線に胸がざわついた。彼に気づかれたくないという思いは霧散し、真っ直ぐ彼を見つめる。
「実は、目が見えなくなってしまったんです。申し訳ないけれど、このまま歩行を手伝っていただけますか?」
ブラッドの衝撃的な告白に、使用人たちは息を呑んだ。
(目が――見えていない……?)
大切な人が、自分がこの世で一番愛している人が、視力を失ってしまった。
パトリスは頭が真っ白になり、その場に立ち尽くす。そうして、シレンスに支えながら歩くブラッドの背を見送った。
「うん!」
帰宅したアンブローズとそのお客様を出迎えるため、掃除道具を片付けたパトリスとホリーは、庭園を駆け抜ける。
オルブライト侯爵家のタウンハウスは、高位貴族の屋敷が建ち並ぶ、煌びやかな一角にある。
上空から見るとコの字型に近い形状で、華やかさはないが堅牢で洗練された佇まいの白亜の屋敷だ。
屋敷の東側には背の高いガラス張りの温室が隣接しており、屋敷とはガラス張りの通路で繋がっている。そこを掃除するのが、ハウスメイドであるパトリスの日課だ。
建物の周囲は庭園で彩られており、春先の今は柔らかな萌黄色の緑と淡い色の花々で満ちている。
「それにしても、お客様は誰なのかしら? ホリーは知ってる?」
「ホリングワース男爵よ」
「えっ……本当に?!」
パトリスの声が上ずる。久しぶりに聞く兄弟子の名前に、どくんと心臓が大きく脈を打った。
ホリングワース男爵ことブラッド・ホリングワースは、今年で二十五歳になる。
魔法騎士として功績を上げた彼は、二年前に国王から男爵位を授かった。
「旦那様から執事長宛てに、ホリングワース男爵をもてなす準備をするよう言伝の魔法が届いたのですって。執事長本人からそう聞いたのだから、間違いないわ」
「そう……なんだ」
パトリスはそっと、自分の胸元に手を当てる。自分の心臓が駆け足で脈を打つのを感じた。
ブラッドとは、三年前に助けてもらって以来、会っていない。この三年間、一度も屋敷を訪ねてきていないのだ。
片想いの相手に会えるのは嬉しい。しかし、今の何もかも失った自分を彼に知られたくない。
パトリスはハウスメイドとして雇ってもらうこととなったその日、アンブローズにとある約束をしている。それは、パトリスがメイドとして働いていることをブラッドには知らせないでほしいということ。
だからブラッドが屋敷を訪ねる時は、顔を合わさないよう取り計らってもらうことになっていた。それなのに今、ブラッドを出迎えようとしている。
アンブローズがうっかり自分との約束を忘れてしまったのではないかと、パトリスは不安になった。
(遠くからだと見えないから、気づかれないよね。それに、ブラッドは私がメイドをしていることは知らないから、もし目が合っても他人の空似と思うのかも……)
屋敷の正面玄関の前には先に到着した使用人たちが並んでいる。今回もレイチェルの姿はなかった。先頭に立つのは執事長と侍女長だ。
パトリスは後方にひっそりと隠れるように並び、庭園の前にある漆黒の門が開かれる様子を固唾を飲んで見守る。
開かれた門から、漆黒の艶やかな馬車が入り込んだ。オルブライト侯爵家の馬車だ。
馬車は専用の石畳の道をぐるりと回り、使用人たちの前で停まった。
執事長が馬車の扉を開ける。初めに馬車から降りてきたのはアンブローズだ。
今日のアンブローズは、チャコールグレーのジャケットとスラックスと白のシャツの上から、漆黒のローブを着ている。
彼が顔を使用人たちに向けると、左耳につけている青色の魔法石のピアスがキラリと輝いた。
「旦那様、おかえりなさいませ」
使用人たちが一斉に身を屈め、礼をとる。アンブローズはすぐに頭をあげさせた。
「出迎えありがとう。客人を温室に案内するから、手伝ってくれ。――シレンス、ブラッドを頼む」
シレンスと呼ばれた男は、猛禽類を彷彿とさせる鋭い金色の瞳を持つ、鳶色の髪を頭の後ろで束ねている五十代の執事だ。屈強な体躯で、おまけに強面。口数が少なく表情の変化も乏しいため、初対面の相手は必ずと言っていいほど委縮してしまう。
しかしシレンスは心優しく、いつも率先して力仕事をしてくれるため、使用人仲間たちからの信頼が厚い。
「どうしてシレンスさんを呼ぶのかしら?」
「さあ? もしかして、怪我をしていらっしゃるのかもしれないわね」
使用人たちが見守るなか、シレンスは馬車のステップに片足をかけると、中にいる人物に手を差し出す。ブラッドの騎士らしい大きな手が、その手を取った。シレンスはゆっくりと、ブラッドの体を引く。馬車から出て来た屈強な美丈夫は、シレンスに助けられながら庭園に降り立った。
(ブラッド――!)
パトリスは久しぶりに見る片思いの相手の姿に、嬉しさのあまり泣きそうになった。
三年前と変わらない精悍な顔つきで、漆黒の髪はきちんと整えている。今日は白いシャツに茶色のベストと黒色のスラックスといったラフな装いだが、背が高くしなやかで引き締まった体躯のブラッドは、何を着ていてもカッコよく見えた。
「シレンスさん、ありがとう」
ブラッドはシレンスに感謝を伝える。しかしブラッドの橄欖石のような瞳は視線が定まっておらず、シレンスを見ていない。
どことなく様子のおかしいブラッドに、使用人たちは青ざめる。彼らにとってブラッドはアンブローズの弟子であり、大切な客人だ。幼少期より弟子としてこの屋敷に過ごしてきた彼とは積み重ねてきた思い出がある。そんな彼によからぬことが起こったのではないかと、心から案じているのだ。
パトリスもまた、ブラッドの視線に胸がざわついた。彼に気づかれたくないという思いは霧散し、真っ直ぐ彼を見つめる。
「実は、目が見えなくなってしまったんです。申し訳ないけれど、このまま歩行を手伝っていただけますか?」
ブラッドの衝撃的な告白に、使用人たちは息を呑んだ。
(目が――見えていない……?)
大切な人が、自分がこの世で一番愛している人が、視力を失ってしまった。
パトリスは頭が真っ白になり、その場に立ち尽くす。そうして、シレンスに支えながら歩くブラッドの背を見送った。