英雄は時を駆ける~エリート将軍の年上花嫁~
 声が、聞こえた。
 今日はまだ、帰ってこられないはずなのに。

 ガッガッ、と馬の蹄が石畳を蹴る力強い音が響き、馬のいななきが聞こえる。
 リリアーヌが振り返った先、夕日を背にして馬にまたがっているのは――

「シャルル様……!」
「なっ、公爵令息だと!?」

 父親が呆然とした隙に、リリアーヌは腕を振り払って駆け出した。転びそうになりながら走るリリアーヌのもとに、素早く馬から下りたシャルルが走ってきて――

「リリアーヌ!」

 強く、抱きしめられた。

 ふわ、と漂うのは、草と泥の香り。遠征から帰ってきたばかりで、シャルルの軍服は汚れている。
 だがその匂いはなぜかまったく嫌とは思えなくて、リリアーヌはシャルルの服の胸元に顔を押しつけて何度も深呼吸し、鼻の奥に残っている悪臭を追い出そうと懸命になった。

「シャルル様、シャルル様……!」
「もう大丈夫だよ、リリアーヌ。……おまえ、何者だ? リリアーヌに何をした!」

 リリアーヌを抱き寄せて威嚇するシャルルを見て、父は呆然としたようだ。お互い顔を合わせたのは四年前の一度きりなので、シャルルはリリアーヌの父親の顔を忘れているのだろう。

「こ、公爵令息殿! 私は、マクシム・ラチエ! そこにいるリリアーヌの父親でございます!」
「ラチエ……?」

 シャルルは不可解そうにつぶやいてから、ふん、と鼻を鳴らした。

「……ラチエ男爵家は、取り潰し処分を受けている。よってこの世に、マクシム・ラチエなどという名の者は存在しないはずだ」
「いえ! それは冤罪でして……そうだろう、リリアーヌ!?」

 父親に名前を呼ばれたリリアーヌがびくっと震えたからか、シャルルはやれやれとばかりに肩をすくめた。

「……そういうことか。あいにくだが、僕はそのような戯れ言を聞くつもりはない。それに、よく見るとリリアーヌは怪我をしているようだ。……まさか、リリアーヌの父親を名乗っておきながら娘に暴行をしたのか?」
「い、いえ……」
「ああ、そういえばおまえは四年前、城の廊下でリリアーヌともみ合いになっていたな。聞けば、娘に望まぬ結婚を強いようとしたとのこと。そのような外道の言葉などに、耳を貸す必要はない」

 冷たく言い放ったシャルルはリリアーヌの肩を抱き、「さあ、行こう」と優しく声をかけてくれた。
 ……だが。

「……お待ちください、公爵令息殿! その娘のことで、大切な話が――」
「っ、待って!」

 父親の声にわずかな喜色が含まれていることに気づき、リリアーヌははっとして振り返った。

 父は、リリアーヌのお腹にシャルルの子がいると暴露するつもりなのだ。

 それは、本当だったとしても嘘だったとしても……父親の口から言うべきことではない。言ってほしくない。
 言わせるわけには、いかない。
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