憎き上司の子を懐妊したのち、引くほど溺愛されている件について。
「………」
以前、割ってしまったお気に入りのマグカップの…代わり。
家に転がっていた、猫の絵が描かれたマグカップ。
そんな絵を眺めていると視界に入って来る…大きくなったお腹。
………猫の絵が…ジワッと滲む。
手で目元を拭うも止まることを知らない涙。
次々と零れ落ち、少しだけ嗚咽が漏れた。
相手が結城さんでなければ…こんなにも辛い思いをしなくて良かったかもしれないのに。
「………」
マグカップをキッチン台の上に置いて、両手で顔を覆う。
全然止まらない涙。
もはや、何故流れているのかさえ分からない涙に溺れそうになる。
そんな時、ふと背後に人気を感じた。
その姿を確認しようと振り向く前に、背後から優しく抱き締められ、動きを制御される。
「…沢城……」
私の名前を呼ぶ、甘い…声。
姿を見なくても分かる。
結城さんだ…。
「……は、離して下さい…。誤解されたくありません」
「…沢城。さっき、経理部室に戻ったんだ。…みんなが、お前のことを話してた」
「………」
「やっぱり俺…耐えられない。俺の子がお腹にいる沢城のことを悪く言われて、黙って見て見ぬフリをするなんて…耐えられないし、そんなことできない」
そう言いながら声を震わす結城さん。
やっぱり…意味不明で、理解できなくて…。
でも…。
周りの心無い言葉に傷付いた私の心には、結城さんの身体の温かさが…自分でも驚く程に染み渡った…。
「……“エリート経理部長”が、笑かしますね」
「…え?」
「何だか、仕事以外のことが全て不器用で…変な性癖があって…。で、勤務時間中なのに、何も考えずに部下を抱き締める」
「……」
そう指摘すると、急いで私から離れた。
困ったように頬を掻き…頭を抱える。
「結城さん。私は1人でどうにかします。本当に結城さんは気にしないで下さい」
「…泣いているくせに、強がるなよ。大体、俺にも責任があるんだから。沢城が1人で抱える必要は無い」
「泣いてないし、強がってもいません。私は…1人で大丈夫」
やかんに入っている麦茶を飲もうと思い、マグカップに手を取る。
しかし、思った以上に震えていた手。
上手く持てなかったマグカップは、キッチン台から床に落下してしまった。
「あっ…」
パリンッと小さく音を立てるマグカップ。
猫の絵が、真っ二つになっていた。
「…………」
本当、上手くいかない。
ぼたぼたと、感情の制御が出来ずに涙が零れ落ちる。
別にお気に入りではないし、ただ家に転がっていただけだし…。
なのに、何だか悲しくて…やるせなくて。
心が震えて止まらない。
「沢城……っ」
「……すみません、結城さん。今日は、帰らせて下さい」
「そ…それは許可する。けれど…俺に送らせてくれ…。色々と話したいし…」
「いや、結構です。自力で帰れます」
「沢城っ!!」
「良いって!!!!」
結城さんが声を張り上げたのと同じように、私も声を張り上げる。
唇を噛んで複雑そうな表情をしている結城さんを睨みつけ、震える身体を押さえつけながら言葉を継ぐ。
「大体、結城さんが原因ですよ。結城さんのせいで人生を狂わされ、傷付けられているんです!! …簡単に結婚なんて言いますけれど、一度嫌いになった人、再度好きになんてなれません。好きだったのに…課長時代は、結城さんのことが好きで、部長になっても大好きな結城さんを支えたいと思って…頑張っていたのに…!! それなのに…知りませんよ、結城さんの性癖なんて!!」
「沢城………ごめん…」
「…もう良いです。すみません、今日は失礼します」
「………」
割れたマグカップを拾い集めて、足早にオフィスに戻った。
そして荷物を片付けて、飛び出すように会社を後にする。
…もう、辛い。
しんどい、苦しい、悲しい。
どうすれば良いか分からず、心の整理も出来ず…。
私はその日から1週間、有給で仕事を休んだ。