全盲の御曹司は契約バディを妻にしたい
第5話 許嫁と私
10月中旬。
バディ契約の終了も数ヶ月後に迫っていた。
職場での初対面時の冷徹で悪い噂のある俺様御曹司の印象もすっかり変わり、いつしか恋愛対象として見てしまっている自分がいた。
宮田さんがずっと西条さんを支えたいと思うのもわかる気がする。
「さて、ふたりが戻ってくる前に情報まとめておくか~」
今日は外回りに西条さんと宮田さんが出ている。
夕方前には戻ってくるとのことだったので、SNSユーザーを対象にした広報をするために、インターネット広告代理店に連絡を取るように指示されていたので、その結果を報告できるようにまとめておこうとしていた。
その他にも事務的な書類作成など、スムーズな仕事のための下準備もある。
「はぁ……」
やることはたくさんあるのに、手が進まない。
私は卓上カレンダーを手に取り、1月と2月を交互にめくっては日にちを指でなぞる。
頭の中は、西条さんとの関係についての思いや悩みなどが次々と浮かんでしまって、もやもやと霧がかかったような感覚。これまで経験したことのないような感覚のせいで、仕事に集中できない。
こんなこと初めてだ。早く、抜け出したい。そう思っている。
西条さんが私を抱きしめてくれたあの日以降、オフでの私との関わり方が変わったのは自覚している。
それでも私は西条さんの気持ちが本当に私と同じものなのか、信じることができない。
私の手料理を食べたいと言ってサバの味噌煮やきんぴらごぼうを作ってあげたら、美味しいと言って笑顔になってくれた。
私は小学生の頃から実家の手伝いをしていたこともあって、料理をすることは好きだし得意な方でもあると思う。
西条さんは高級料理店の料理人が作ったものばかり食べて舌の肥えている人だろうに、私の手料理を本心から美味しいと思って食べてくれたその姿を見ると、『私自身』を受け入れてくれているのだと思えて、素直に嬉しかった。
「また料理作ったら、食べてくれるのかな……」
私は迷っていた。
これより先に進むのか、進まないのか。
私のことを特別に思っていなくても、私が料理を作って、それを食べて美味しいねと言ってもらえる。
それだけでも十分幸せだというのに。彼はそれ以上の愛を私に注ごうとしてくる。
私を愛したいという気持ちを受け止めたい。本当はそう思っている。
でも、そうした愛が垣間見える度に、私の脳裏には『あの令嬢』がちらついてしまっていた。
私よりも、絶対に彼女と結婚した方が西条さんのためにも、そしてこの会社のためにもなるのだから。庶民である私を仮に西条さんが好いてくれているとしても、私は彼女に勝つことはできない。
「私だってもっと素直になりたいわよ……」
以前、西条さんと彼女が親しげに話しているのを見たことがある。
西条ホールディングスの関連会社の創立記念パーティーだった。あの日初めて、許嫁と噂されている沢城優子さんに出会ったから、よく覚えている。
お互い貶し合っていても、それがあったからといって相手のことを悪くは思わない。むしろ信頼し合っているからこそ出てくる言葉なのだろうと思えるような関係。それを隣で見ていた私は、住む世界が違うのだと思わされた。
たしかあの時は『古い付き合いだから』と言っていたけれど、それ以上の強い繋がりがあるようにも思えた。
私なんかじゃ手の届かない存在なんだと、今思えばあの時から薄々気づいていた。
それを考えるようになったのは、きっと西条さんとの未来を考えてしまうようになったからだろう。
もし、私がこのまま自分の想いに素直になったら?
もし、彼が私を本気で愛しているとしたら?
もし、私たちが結ばれるとしたら?
……その先のことを思うと、私なんかじゃ秘書という仕事以外で西条さんの隣にいることなんてできないと思うのだ。
「はあ……仕事、しなきゃ……」
アイスコーヒーを飲んで、腕を上に上げて伸びる。
私が作業を再開して集中力が切れかけていた頃。トントン、と開けていたドアをノックする音がして、そちらを見る。
「沢城さん……!?」
「初めまして渡辺輝さん。沢城優子です」
そこに立っていたのは、背が高く、すらっと細身の艶のある腰までの黒髪が綺麗な美人。沢城優子さんご本人だった。
上品な千鳥格子のボウタイブラウスにパンツスタイル。やや高めのヒールを履いたその姿はまるでモデルのようだ。
「少しいいかしら?」
そう言うと、沢城さんは西条さんの席に腰かける。
「どのようなご用件でしょうか。今、西条さんと宮田さんは不在なのですが」
あくまで冷静に。平然と同僚ですという話し方を心がけて。
「わかっているわ。私はあなたに用事があって来たのよ」
「私に、ですか?」
沢城さんのキリっとした目つきで私を見る。小顔で目はぱっちりとしていて存在感がある。首が細長くて色白。
西条さんと並んでも霞まない、あの人に相応しい美しさと強さを持つ女性。
彼女に見つめられるだけで、私は消えてしまいそうになる。
「ええ。単刀直入に言うわ。あなたは徹さんのもとから立ち去りなさい」
「それはどういう意味で……」
「徹さんをこれ以上悩ませないでほしいの。あの人の相手は私。それで丸く収まるはずだったのに。沢城財閥も、西条ホールディングスも。昔から決まっていたことなの。それをぽっと出のあなたが崩そうとしているのよ。わかる?」
沢城さんが言っていることは正しい。
これほど大きな企業にとって、もはや結婚というのはすなわち会社同士の結びつきを強めて、世間にも示すこととなる。
そんな世界に私はみだりに入ってはいけない。やはり、そうなのだ。
「ですが、これは私とあなたの2人だけの秘密。徹さんを困らせてはいけない。それはあなたも同じ思いのはずよ。だから、私の指示に従って、契約期間内に立ち去りなさい。そうしなければ、私は強引にでもあなたを追い出す」
私が返事をせずに黙り込んでいると、沢城さんは畳みかけるように口を開く。
「あなたのご両親、食堂を営んでいるそうね。私にとってそこを潰すことだって容易いことなのを理解した上での判断を願うわ」
「……はい」
その言葉の圧は、肯定しか許されないことを意味していた。
「わかればよろしい。契約期間といっても、1月下旬まででしょう。あなたの立場上、自分の意思で契約を絶つことは難しいと思うから、そこは私も手を回してあげる。だから、意思が固まったなら、連絡をちょうだい」
そう言って沢城さんは連絡先を書いている名刺を私に渡した。
「渡辺さんの賢明な判断を願っているわ。それじゃあ」
私はただ俯くしかできない。
惨めになる。どうしようもない。もういいんだ。私は十分すぎるくらい夢を見た。
もう終わりにしよう。
でも、もう少しだけ……猶予があるのなら、まだあの人の傍にいたい。そう願ってしまった。
いろんな思いが私を襲って視界が涙で揺れる。
「今日は客人が来る予定はなかったはずだが?」
この声は──
「あら徹さん。私も契約バディとやら子の様子を見たくなってね。それに私はこの子に用事があって来たもの。あなたがいなくてもいいじゃない」
「優子……来るなら俺がいる時にしろ」
「いいわよもう。用事は終わったから」
「そうか」
「じゃあね、渡辺さん」
沢城さんは私に手を振り、笑顔で去っていく。
「大丈夫か、渡辺」
「お喋りしていただけですから。心配しないでください」
「……そうとは思えないが」
「大丈夫ですって」
私はこの時初めて、西条さんの優しさを拒んでしまった。
あからさますぎる私の態度に、2人は困惑しただろう。これまでの良好な関係を水の泡にしてしまうような、そんな気がした。
これでいいんだ。私はこのまま消え去るんだから。
「徹さん。少し渡辺さんと2人になって話したいのですが、よろしいですか」
「……ああ、頼んだ」
宮田さんがそう言うと、西条さんは部屋から出ていった。
私の無理矢理笑うその表情を、宮田さんも見逃してはくれない。
宮田さんはイスを私の傍に寄せて、お湯を沸かして温かいハチミツ紅茶を淹れてくれる。
「これは、僕と徹の幼い頃。それと、優子さんも関わってくる話なんだ」
宮田さんはイスに座って、眼鏡をクイっと上げて俯きながら話し始めた──
バディ契約の終了も数ヶ月後に迫っていた。
職場での初対面時の冷徹で悪い噂のある俺様御曹司の印象もすっかり変わり、いつしか恋愛対象として見てしまっている自分がいた。
宮田さんがずっと西条さんを支えたいと思うのもわかる気がする。
「さて、ふたりが戻ってくる前に情報まとめておくか~」
今日は外回りに西条さんと宮田さんが出ている。
夕方前には戻ってくるとのことだったので、SNSユーザーを対象にした広報をするために、インターネット広告代理店に連絡を取るように指示されていたので、その結果を報告できるようにまとめておこうとしていた。
その他にも事務的な書類作成など、スムーズな仕事のための下準備もある。
「はぁ……」
やることはたくさんあるのに、手が進まない。
私は卓上カレンダーを手に取り、1月と2月を交互にめくっては日にちを指でなぞる。
頭の中は、西条さんとの関係についての思いや悩みなどが次々と浮かんでしまって、もやもやと霧がかかったような感覚。これまで経験したことのないような感覚のせいで、仕事に集中できない。
こんなこと初めてだ。早く、抜け出したい。そう思っている。
西条さんが私を抱きしめてくれたあの日以降、オフでの私との関わり方が変わったのは自覚している。
それでも私は西条さんの気持ちが本当に私と同じものなのか、信じることができない。
私の手料理を食べたいと言ってサバの味噌煮やきんぴらごぼうを作ってあげたら、美味しいと言って笑顔になってくれた。
私は小学生の頃から実家の手伝いをしていたこともあって、料理をすることは好きだし得意な方でもあると思う。
西条さんは高級料理店の料理人が作ったものばかり食べて舌の肥えている人だろうに、私の手料理を本心から美味しいと思って食べてくれたその姿を見ると、『私自身』を受け入れてくれているのだと思えて、素直に嬉しかった。
「また料理作ったら、食べてくれるのかな……」
私は迷っていた。
これより先に進むのか、進まないのか。
私のことを特別に思っていなくても、私が料理を作って、それを食べて美味しいねと言ってもらえる。
それだけでも十分幸せだというのに。彼はそれ以上の愛を私に注ごうとしてくる。
私を愛したいという気持ちを受け止めたい。本当はそう思っている。
でも、そうした愛が垣間見える度に、私の脳裏には『あの令嬢』がちらついてしまっていた。
私よりも、絶対に彼女と結婚した方が西条さんのためにも、そしてこの会社のためにもなるのだから。庶民である私を仮に西条さんが好いてくれているとしても、私は彼女に勝つことはできない。
「私だってもっと素直になりたいわよ……」
以前、西条さんと彼女が親しげに話しているのを見たことがある。
西条ホールディングスの関連会社の創立記念パーティーだった。あの日初めて、許嫁と噂されている沢城優子さんに出会ったから、よく覚えている。
お互い貶し合っていても、それがあったからといって相手のことを悪くは思わない。むしろ信頼し合っているからこそ出てくる言葉なのだろうと思えるような関係。それを隣で見ていた私は、住む世界が違うのだと思わされた。
たしかあの時は『古い付き合いだから』と言っていたけれど、それ以上の強い繋がりがあるようにも思えた。
私なんかじゃ手の届かない存在なんだと、今思えばあの時から薄々気づいていた。
それを考えるようになったのは、きっと西条さんとの未来を考えてしまうようになったからだろう。
もし、私がこのまま自分の想いに素直になったら?
もし、彼が私を本気で愛しているとしたら?
もし、私たちが結ばれるとしたら?
……その先のことを思うと、私なんかじゃ秘書という仕事以外で西条さんの隣にいることなんてできないと思うのだ。
「はあ……仕事、しなきゃ……」
アイスコーヒーを飲んで、腕を上に上げて伸びる。
私が作業を再開して集中力が切れかけていた頃。トントン、と開けていたドアをノックする音がして、そちらを見る。
「沢城さん……!?」
「初めまして渡辺輝さん。沢城優子です」
そこに立っていたのは、背が高く、すらっと細身の艶のある腰までの黒髪が綺麗な美人。沢城優子さんご本人だった。
上品な千鳥格子のボウタイブラウスにパンツスタイル。やや高めのヒールを履いたその姿はまるでモデルのようだ。
「少しいいかしら?」
そう言うと、沢城さんは西条さんの席に腰かける。
「どのようなご用件でしょうか。今、西条さんと宮田さんは不在なのですが」
あくまで冷静に。平然と同僚ですという話し方を心がけて。
「わかっているわ。私はあなたに用事があって来たのよ」
「私に、ですか?」
沢城さんのキリっとした目つきで私を見る。小顔で目はぱっちりとしていて存在感がある。首が細長くて色白。
西条さんと並んでも霞まない、あの人に相応しい美しさと強さを持つ女性。
彼女に見つめられるだけで、私は消えてしまいそうになる。
「ええ。単刀直入に言うわ。あなたは徹さんのもとから立ち去りなさい」
「それはどういう意味で……」
「徹さんをこれ以上悩ませないでほしいの。あの人の相手は私。それで丸く収まるはずだったのに。沢城財閥も、西条ホールディングスも。昔から決まっていたことなの。それをぽっと出のあなたが崩そうとしているのよ。わかる?」
沢城さんが言っていることは正しい。
これほど大きな企業にとって、もはや結婚というのはすなわち会社同士の結びつきを強めて、世間にも示すこととなる。
そんな世界に私はみだりに入ってはいけない。やはり、そうなのだ。
「ですが、これは私とあなたの2人だけの秘密。徹さんを困らせてはいけない。それはあなたも同じ思いのはずよ。だから、私の指示に従って、契約期間内に立ち去りなさい。そうしなければ、私は強引にでもあなたを追い出す」
私が返事をせずに黙り込んでいると、沢城さんは畳みかけるように口を開く。
「あなたのご両親、食堂を営んでいるそうね。私にとってそこを潰すことだって容易いことなのを理解した上での判断を願うわ」
「……はい」
その言葉の圧は、肯定しか許されないことを意味していた。
「わかればよろしい。契約期間といっても、1月下旬まででしょう。あなたの立場上、自分の意思で契約を絶つことは難しいと思うから、そこは私も手を回してあげる。だから、意思が固まったなら、連絡をちょうだい」
そう言って沢城さんは連絡先を書いている名刺を私に渡した。
「渡辺さんの賢明な判断を願っているわ。それじゃあ」
私はただ俯くしかできない。
惨めになる。どうしようもない。もういいんだ。私は十分すぎるくらい夢を見た。
もう終わりにしよう。
でも、もう少しだけ……猶予があるのなら、まだあの人の傍にいたい。そう願ってしまった。
いろんな思いが私を襲って視界が涙で揺れる。
「今日は客人が来る予定はなかったはずだが?」
この声は──
「あら徹さん。私も契約バディとやら子の様子を見たくなってね。それに私はこの子に用事があって来たもの。あなたがいなくてもいいじゃない」
「優子……来るなら俺がいる時にしろ」
「いいわよもう。用事は終わったから」
「そうか」
「じゃあね、渡辺さん」
沢城さんは私に手を振り、笑顔で去っていく。
「大丈夫か、渡辺」
「お喋りしていただけですから。心配しないでください」
「……そうとは思えないが」
「大丈夫ですって」
私はこの時初めて、西条さんの優しさを拒んでしまった。
あからさますぎる私の態度に、2人は困惑しただろう。これまでの良好な関係を水の泡にしてしまうような、そんな気がした。
これでいいんだ。私はこのまま消え去るんだから。
「徹さん。少し渡辺さんと2人になって話したいのですが、よろしいですか」
「……ああ、頼んだ」
宮田さんがそう言うと、西条さんは部屋から出ていった。
私の無理矢理笑うその表情を、宮田さんも見逃してはくれない。
宮田さんはイスを私の傍に寄せて、お湯を沸かして温かいハチミツ紅茶を淹れてくれる。
「これは、僕と徹の幼い頃。それと、優子さんも関わってくる話なんだ」
宮田さんはイスに座って、眼鏡をクイっと上げて俯きながら話し始めた──