冷酷な狼皇帝の契約花嫁 ~「お前は家族じゃない」と捨てられた令嬢が、獣人国で愛されて幸せになるまで~2
第一章 獣人皇国の皇妃になった捨てられ令嬢
 皇帝夫婦が誕生して二週間、国を揺るがす問題を抱えていたガドルフ獣人皇国内は、この間に大きく変わった。昨年まで枯れかけて問題が深刻化していた皇国各地の《癒やしの湖》の多くは、今や豊富な水に(あふ)れていた。
 王都近郊のバグザート区もそうだ。
「こんなにも美しい《癒やしの湖》の光景が見られるなんて!」
「皇妃様には感謝しないと」
 そこでは朝から、女性や子供たちが(にぎ)わう森の湖の日常の景色が戻っていた。それは実に十二年ぶりだと、町の長老たちはいたく感動し孫を連れてその様子を毎日見に来ている。
 皇国の水源地でもある《癒やしの湖》は魔法の力を持ち、薬の効かない獣人族にとって、魔力でできたその水は唯一の薬でもあった。たった十二年で枯れかけ、そうして今年元に戻ったのだ。
 それは、もちろんバグザート区だけではない。
 ガドルフ獣人皇国では《癒やしの湖》の水量減少が問題になっていた。
 ついに枯れ果てるのでは、と言われていた時に金色の髪と目をした人間族の少女が、自身の疲弊をかえりみず水脈を生き返らせたのだ。
 バグザート区も、彼女がやって来たその日に水が生まれ続け、そうして翌朝には、子供たちが飛び込んで泳ぎ、女性たちが『決してなくならない生活水』としても再び使えるほどに潤った。それからもう二ヶ月が経とうとしている。
 とても素晴らしい力を持った人間族。
 皇国のため力を尽くしてくれている人間族の皇妃であると、獣人族たちも彼女を愛した。
 癒やしの水だけでなく、花嫁を迎え入れたことで皇帝の今後も安泰となった。
 金色の髪と目をした皇妃はまさに救世の聖女だと、国内では彼女を特別視する者たちの声に溢れていた。《癒やしの湖》の回復活動で彼女の姿を実際に見た者たちは、声をかけるのも恐れ多いと感じるほど美しい人間族であり、高貴さが溢れ出ていたと噂は日々広がり続けている――。
 とはいえ、その当の〝皇妃〟は王城で、皇国の大型戦闘獣であるドロレオの世話に勤しんでいた。
「そっちの梯子(はしご)は大丈夫そうかー?」
「私の方は大丈夫ですー!」
 日差しにあたるといっそう輝く金色の髪は皇妃の特徴であると、今や国内でも誰もが知るところだ。
 その髪を高い位置でポニーテールにした今の彼女の格好は、まさに侍女だった。働きっぷりは熟練の仕事人が見ていても気持ちがいいもので、彼女の髪が馬の尻尾のように右へ左へと動くたび、すっかり懐いたドロレオたちが目で追いかける。
 それに気づくと、ドロレオ騎獣隊員たちは「またやってるぞ」なんて言って、笑みをこぼした。
『彼女がいるだけで空気が心地よい』
 ドロレオの管理舎に勤めている者たちにそんな評価をされているなんて、ドロレオの世話に一生懸命の皇妃、サラ・フェルナンデ・ガドルフは気づいてもいない。
「おい、後ろの新米、サラちゃんを見習ってもうちょっと根性見せろ!」
「皇妃様の隣だから緊張するんですよー!」
 そんなことを叫んだのは、サラとドルーパ・ゾイの間にいるドロレオ騎獣隊の新入りだ。
 一頭のドロレオに左右から三つずつ梯子をかけ、ブラッシングを行っている。新入りは将軍であるドルーパから指導を受けているのだ。
「だから俺、言っただろ。『皇妃もやってる』って」
「ドルーパ将軍のジョークかと思ったんです!」
「それ目当ての入隊が圧倒的に多かったのに、お前は珍しい奴だなー」
 まぁそれでお前は屋内の方に回されているわけだが、とドルーパがドロレオの方へ視線を戻しながらつぶやく。
「こ、皇妃様、もし失礼があったりしてもどうかお許しください……」
「またブラシの持ち方がずれていますよ」
「ひぇっ、すみません皇妃様!」
「それからここにいる時は『サラ』でいいですよ。他の皆さんを戸惑わせないためにも、そうしようという話になったんです――て、あら?」
 話している途中だったのに、新米の隊員がふらっとして梯子から転げ落ちてしまった。
 獣人族はかなり身体(からだ)が強いとは、サラもいい加減わかってきた。
 ドロレオ舎の床には、ドロレオたちの大好きな(わら)などの床材が散らばっているので落下してもクッション代わりになってくれる。
「……こ、皇妃様に命令されたけど名前呼びなんて絶対に無理……夫の皇帝陛下に嫉妬で殺される……威嚇(いかく)されたら生きていけない……」
「まぁ」
 サラは目を丸くする。
 眺めていたドルーパを含め、周りからどっと笑い声が起こった。
 カイル・フェルナンデ・ガドルフはそんなことしない。サラが知っている限り彼は大人で器も大きく、できた人だ。
 獣人族たちは普段は人の姿をしていた。本来の獣感が交じった姿は『本能がむき出しの状態だ』と恥ずかしいことだとされているので、通常皆、半獣人、または完全獣姿を作法で隠している。
 それくらいに理性も配慮も持ったきちんとした国民たちなのだ。
 ただし、結婚前につがいを見つけた獣人族はやや余裕がなくなるようで、以前少しだけ嫉妬の感じは出ていたが、結婚すればすべて解決とはドルーパにも聞いている。
 そもそも、時間が空いたら侍女服を着て『侍女サラ』として引き続きみんなのために役立ちたいと言ったのを許してくれたのは、カイルだ。
 皇妃として勉強中でやれることはまだ少ない。
 余暇があれば優雅に休むより、世話になっている城の者たちの手伝いを少しでもしたいとサラは思っていた。
 その心意気は宰相(さいしょう)たちも感動していた。ここへ来る前は辺境伯家の末娘でありながら屋敷の掃除やらなんやらをしていたから、彼女はそれが普通の貴族ではあり得ないことだと気づいてもいない。
 侍女服は、仕事には動きやすくてもってこいだ。
 サラは皇妃の活動を終えると、続いてドロレオの世話をするため、王城の侍女のお仕着せを着た。
 もちろん、衣装についても〝夫〟が許可していることだ。
(優しい人よね)
 それを語った際、そばで護衛についていたギルク・モズドワルドが、主人に対してものすごく何か言いたいことがあるような表情を浮かべていたが。
 サラの夫は、このガドルフ獣人皇国の皇帝カイル・フェルナンデ・ガドルフだ。
 獣人族は伴侶を必要とする種族で、彼に拾われたサラは、契約花嫁となることを受け入れて婚約した。
 それが、偽りではなく本当の愛すべき婚約者同士になった。
 そうしてまさかの彼と入籍して〝夫婦〟となったのだ。
 冷酷な皇帝だといわれているカイルは、出会った時にはサラも怖さを感じたものの、それは〝王〟として必要な統治力の一つでもあった。
 交流し、彼を知っていくごとに、サラはとても優しい人なのだと理解した。
 早くに両親を亡くし、急に兄を亡くし――今もその傷は癒えていないのをサラはたびたび感じ取っていた。
(私がそばにいて、少しでも彼の傷も癒やしていければ)
 なんて、ちっぽけな自分がそんな壮大な願いまで抱いていることについては、恥ずかしくて誰にも言えないけれど。
 言えるように、立派な皇妃になりたいとは思っている。
 だから、サラは自分が今できる〝皇妃の《癒やしの湖》の回復活動〟という公務と、皇帝の妻としての公務をこなしながら、必死に王族の妻として必要な作法を学んでいるところだ。
 それだけでもかなり忙しいが、彼女は勉強する一方でドロレオたちの世話にもそつがなく優秀だった。
 そんな中、ぐんぐん妃教育も吸収している優秀さを彼女自身はわかっていない。おかげで臣下は《癒やしの湖》の回復活動だけでなく、今や執務処理や社交活動についてもサラに頭が上がらなくなり始めている。
「さっ、次は寝床を整えましょうか」
 新入りに見本を見せるべく、ドルーパに付き合ってサラも率先してドロレオの寝床作業へと移る。
「皇妃様がドロレオの寝床運びなんて……」
「私は獣人皇国の生まれではないから、皆さんがあたり前に知っているドロレオの知識をどんどん身につけていきたいんです。いい勉強にもなるし、ドロレオに会いたいし、ドロレオはかわいいし」
「え」
 表情が固まった彼の斜め前で、ドルーパがぶっくくくと笑う。
「サラ、本音の方が声に出てる。でも《癒やしの湖》の回復活動もあるんだから、あまり無理はしないようにな。魔力は少ないんだし」
 心配をかけないことは誓っていたので、サラは神妙な顔でうなずく。
 まだ《癒やしの湖》はすべて回復し終えていない。これは数年の時間がかかることが試算されている。だからサラは積極的に活動していた。
 とはいえ、妃としてもっと獣人皇国を知っていかないといけないという心意気を胸に、回復のため回る箇所の周辺地を皇妃として視察もした。
 さらに、自分を忙しくするみたいに、大好きになってしまったドロレオの世話も引き続きしている。
 ドロレオの世話習得は花嫁にとって必須だ。
 王城には花嫁修業で侍女になる女性たちが半分以上を占めていて、国中の女性たちが今や皇妃に『その心意気はいい花嫁になれる女性の鏡だわ』と熱い視線を送っている状況なんて、考えもしていないけれど。
「あっ」
 その時、後ろからサラの荷物がひょいっと取られてしまった。
「人間族は体力もないしな。あれやこれややってんだから無理はさせないぜ。そのために俺が専属護衛を引き受けてるからな」
「アルドバドスさん!」
 彼は家族に捨てられたサラを獣人皇国で拾った獣人族だ。彼は保護する親や大人がいなくなってしまった子供を対象にした労働力売買の組織に所属している。その組織の上司から許可が出て、皇妃専属護衛の仕事もしている。王城に皇妃専属だと認定されて自由に出入りし、《癒やしの湖》の回復活動には彼が必ずつき添うことはすでに周知されていた。
「『さん』じゃねぇし。皇妃なんだから、呼び捨てにしろって教育されてるだろ」
「恩ある人を呼び捨てなんてできませんっ」
 社交界や必要な場ではきちんとするので、それ以外では許して欲しいとみんなにお願いしていた。
「恩人、か」
 アルドバドス・サイーガが悪くない顔をする。
 よし、解決、そう思ったサラは早速本題へ入ることにする。
「さっ、荷物を返してください」
「あ?」
 なんでだよ、と言わんばかりに上にある彼の顔がサラを見下ろしてくる。
「ドロレオの寝床をふかふかにするチャンスなのにっ」
「お前が飛び込みたいだけだろ……」
 後ろで、とうとう新入りの隊員が「皇妃様にため口……しかもハイエナ……」という言葉を最後に気絶した。
「この草食種、誰だ?」
 荷物をクッションにするみたいに横たわってしまった隊員を、アルドバドスが胡乱(うろん)げに見やる。
「昨日から屋内作業に配属された新人さんなんですって」
「ふうん。ま、途中で放り投げるのが嫌なタイプなのはわかってるが、とにかくサラはここでタイムアイトだ」
(タイムアウトって、もしかして)
 サラは仕事が急に中断となってしまったのに、つい胸が躍った。
 その時だった。後ろから優しい仕草で彼女の腹の前に手が回った。あ、と気づいた時には両腕で引き寄せられ、暖かいマントの内側にすっぽりと囲われていた。
「迎えに来た、愛しい花嫁」
 うれしそうな男の声につられて見上げると、それはやはりカイルだった。
 光の具合で銀色が交じっているようにも見えるアッシュグレーの美しい髪。軍人なのに肌は白くなめらかで、明るいブルーの目は凛々(りり)しい美貌を持った彼によく似合う。
 彼は狼の獣人族のせいか、確かな政務手腕と騎士としての実力もあって圧を覚える威厳をまとっていた。
 二十七歳にして皇帝として立派に国を統治し、時々不敵な笑みを見せていた人――。
 それが出会ってから、とても優しい表情を見せるようになった。
 というか、少し離れていただけでやけに甘くなる。
 そこにサラはちょっと困っていたりする。今だって、かなり密着が強い。
『結婚したばかりの獣人族は、そんなもんだ』
 というのは今や色々と指導もしてくれているアルドバドスの助言だ。蜜月で二人の時間をたっぷり過ごしたあとか、または子供ができれば落ち着くのだとか。
(蜜月、も子供ができる可能性もしばらくはないのよねぇ)
 彼女が初めて《癒やしの湖》を回復させた際、誰もがサラを皇帝の伴侶にと望み、急きょサラはカイルと入籍して夫婦になった。つまり、彼女は人間族のエルバラン王国の辺境伯爵令嬢籍からガドルフ獣人皇国民となったのだ。
「俺が離れている間、大事なかったか」
 すり、と頬を寄せられてサラはくすぐったくて一瞬首をすくめた。
「いえ、何も」
 これも獣人族の特徴だったりするのだろうか。
 よくわからないが、カイルは夫婦になってから、やけにすりすりしてくる。
 本人は自覚がないようで、先日それとなく尋ねてみたら質問の意図がわからないみたいに首をひねられてしまったので、たぶん本人は無自覚なのだと思う。
(獣人族についてまだまだ知らないことは多いみたい)
 暮らしていきながら経験を積んで、感覚を(つか)んでいくしかないのだろう。
 サラはちらりとカイルの向こうを見た。そこには、皇帝の護衛部隊がいた。
 先頭で両腕を後ろに回して立っているのはリーダーのギルクだ。黒狼の彼は髪が黒く細身の美丈夫で、真面目で礼儀正しいという印象をサラは抱いている。
 彼はカイルが軍人として活躍していた王弟時代からの右腕の部下なのだとか。
「いらっしゃるのが早かったですね。ガート将軍様もいらっしゃらないようですし、ギルクさんたちを連れているということは何か急な会談でも入りましたか? 夫婦の公務ならまたがんばりますので任せてください!」
 サラは頼もしく思ってくれるようガッツポーズをしてみせた。
 初めは『皇妃として振る舞うなんて……!』と恐れ多くて震えたものだが、妃教育を終えたら必ず直面することだ。それなら自分が持っている令嬢知識で足りるもの、足りていないものも把握できるし、実践してみるべしと前向きな性格から考え直した。
 おかげで獣人貴族たちと会うのは怖くなくなった。
 むしろ仲のいい人ができるのはうれしいし、彼らとの会話は国を知っていくことと同じくらい楽しく感じる。
 皇妃として王城内を移動しても急な貴族にだって対応できる。そうすると出歩くことにためらいはなくなって、サラの行動範囲も広がった。
 皇国のことを知るため、積極的に図書室や資料庫へと足を運んで自習にあてる。
 同じく空き時間を自分からどんどん埋めるように、できる仕事を探したり、執務を手伝いながら皇国のことを習ったりする余裕だって生まれた。
 役に立つよう今できることは全部やってみるべきだというのが、サラの前向きな考えだ。
 するとカイルが向き合い、ふっと柔らかな笑みをもらす。
「いや? とくに仕事はない。ただただサラと過ごしたくて早く迎えに来た」
 彼がサラの手を取り、自分の頬にあてて顔をすり寄せた。
(……こ、こんなに甘えてくる人ではなかったのにっ)
 甘い彼の流し目と合った瞬間、サラの心臓がどっと音を立て、彼女は動けなくなる。
「ドロレオにサラを取られて、寂しかった。このあとの時間は、俺のために使ってくれるとうれしい」
 サラは熱っぽさを感じた自分の目元が、ぐわーっと体温を上げていくのを感じた。
 つがい相手を見つけた獣人族は、その相手を心底大切にする。
 それは愛情を隠さないことも含まれている――らしいとは、サラも最近理解してきた。妙に色気を感じるので言い方は少し抑えて欲しいとは思う。
 でも、ドロレオより自分にかまって、と聞こえてかわいいとときめいてもしまう。
(今までのカイルの印象と違いすぎて、ギャップが)
「わ、わかりました。カイルのために時間を使いますね。つまり早めの休憩入りですよね」
 ひとまず自分の心臓のためにも、さりげなく手を取り返す作戦に出る。
 だが、言いながら引っ込めようとしたら、腰に彼の腕が回されてサラはカイルの腕の中に吸い込まれていた。
「ひゃっ」
「離れないでくれ。ようやく会えたのに寂しいぞ」
「わ、私、手が汚れていますから洗わないと」
「それでは水場へ行こうか」
 まさか、と予感した時にはカイルにお姫様抱っこされていた。
 近くの騎獣隊員に荷物を頼んだアルドバドスが、気づいて振り返り『……まぁがんばれ』みたいに表情を変えた。
 サラは恥ずかしくってカイルに下ろしてくれるよう頼んだ。彼はドロレオ舎の者たちに見せつけるみたいに上機嫌で、聞いてくれなかった。
 とはいえドルーパを含め、急な皇帝の来訪なんてもう慣れたものだ。
「やれやれ、ラブラブでいいことですね」
 平然と仕事を再開する男たちの微笑ましい表情の言葉をギルクが口にし、護衛部隊の男たちと共にあとへと続いた。
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