引きこもり令嬢は皇妃になんてなりたくない!~強面皇帝の溺愛が駄々漏れで困ります~3
第一章 思いもよらない新婚旅行のお誘い
 エンブリアナ皇国の王都にて、地面に走った大きな鳥の影に気づくなり、誰もがふっと顔を上げた。
「おぉっ、皇妃陛下のお戻りだ!」
「なんと美しい鳳凰(ほうおう)型の心獣なのだろう……!」
「この皇国で唯一無二の形をした大きな心獣(しんじゅう)なんだぜ! かっこいいよな!」
「ああ、魔法師として憧れるよ」
「濃い魔力が我々にも黄金の粒子になって見えるとは、さすがは最強のオヴェール公爵(こうしゃく)家のご令嬢だ」
 そんな声援と憧れの眼差(まなざ)しを向けられているとは、上空にいる本人は気づかない。
 大きな心獣の背に乗る華奢な彼女が向かう先は、宮殿だ。
 宮殿の正面広場で待機していた騎士たちが、その姿を認めて動く。
「皇妃陛下のお帰りだ! 場を開けよ!」
 騎士たちが左右の庭園側へと人をどける。
 そこに、黄金色の巨大な鳳凰は真っすぐ向かった。その背に――波打つハニーピンクの長い髪を風になびかせ、エレスティア・ガイザーはいた。
(人を吹き飛ばしてしまわないように着地よ)
【御意】
 心で思うだけで鳳凰化したピィちゃんが答え、翼を大きく広げてふわりと減速する。
 日差しを遮ったその全長に、魔法師たちから感嘆の声が漏れた。
 エレスティアはピィちゃんと共に宮殿の正面広場に着地した。
 ピィちゃんの背から降りると、振り返り心の中で『解除』と唱える。それだけで鳳凰は黄金色の光を放ち、その姿は見る見るうちに小さくなる。
「ぴぃ!」
「お疲れさま、ピィちゃん」
 黄金色の小鳥になったピィちゃんが、両手を差し出したエレスティアに(うれ)しそうな声を上げ、その手のひらの上に身を収めた。
 心獣は、散策を好む性質を持っている。
 通常の心獣は白い(おおかみ)の姿をしているので散歩するとしたら地上だが。――その好き、嫌いも彼らをますます『生物なのか?』『魔力の意志なのか?』と不思議な存在にさせている。
 大陸には他にも魔法国家があるが、この皇国では魔力によって魔法を使う特殊能力者を魔法師と呼んだ。心獣とは、強い魔法師が持つ守護獣のような存在だ。
 心獣は、強い魔法師が生まれるとその胸から誕生する。
 彼らは主人である魔法師の器に収まりきらない魔力を預かる貯蔵庫であり、魔法師の魔力そのものだ。
 同時に、守護の明確な意志を持ち、主人となら意思疎通ができた。
 だから他国からも『不思議生物、心獣』なんて言われている。
 小鳥姿の時のピィちゃんはそれができないが、エレスティアはピィちゃんが全身で表す喜怒哀楽も愛らしいので、言葉がなくとも意思疎通ができていると感じていた。
 鳳凰化を習得してから絆とつながりが深まり、その感覚はいっそう強まっている。
(ピィちゃんも、大空を飛ぶと楽しそうなのよね)
 この皇国に存在している心獣の中で、ピィちゃんは唯一の鳥型だ。他の心獣が地上を散歩するのと同じように、ピィちゃんは空を飛ぶことが好きなようだ。
 とはいえ公務の日程の合間に入れられているこの飛行は、エレスティアにとっては心獣の散歩兼、飛行訓練だったりする。
 すると続いて広場に降り立ったのは、一般的な白い狼の姿をした心獣だ。
「まったく、速さだけは憎らしいくらいですわ」
 そう言って飛行にも適したドレスを揺らし、ハニーブラウンの髪をした美しい令嬢、アイリーシャ・ロックハルツが心獣の背からブーツを履いた足で降りる。
 気の強そうな目つきさえも美を感じさせる女性だ。しかしながら彼女がそこに立つと、周りの騎士たちは上官を前にしたように緊張して背を伸ばす。
 とくに魔獣の激戦区だったバレルドリッド国境。そこに赴く部隊は皇帝直属の精鋭たちだ。
 その戦場に投入された女性班のリーダーであり、皇帝、ジルヴェスト・ガイザーを支える魔法師の軍人の一人として活躍しているのがアイリーシャだった。
 彼女は女性の身で、父親である名将ロックハルツ伯爵と同じくらい活躍している。
 魔法師は、持っている魔力量と魔法の強さがすべて。
 戦闘能力に関しては、完全に訓練次第なところがあった。アイリーシャは軍人として、階級が低い心獣持ちの魔法師たちの訓練指導も担当するとか。
 そのため、どんな雷が落ちるやらと屈強な男たちも彼女を警戒したのだが――。
「最高の飛行でございましたわ、皇妃!」
 アイリーシャが手を握り、瞳をキラキラさせて嬉しそうに言うと、騎士たちが一斉に目をむく。
「あとでわたくしが見た光景を鮮明に話し伝え、絵師に描かせますわね!」
「絵を……!? そ、それはおやめになってっ」
 エレスティアも騎士たちと同じ反応をした。
「あら、どうしてですの? 王都の皆がうっとりと見上げておりましたわ。私の目に焼きつけましたから、その時の光景を提供して差し上げようと思っています」
 すると周りで見守っていた令嬢たちが、途端にアイリーシャを応援する声を上げる。
「見たいですわ!」
「アイリーシャ様! 新作楽しみにしております!」
「皇妃専門誌っ、いつも拝見しています!」
 エレスティアはくらりとした。
 アイリーシャはエレスティアの記事を集めて本にするだけでなく、その行動力で雑誌まで発刊してしまった。
 それは、ジルヴェストが彼女に許可し、彼自身が支援者となってしまったため実現した。他にも絵が出回るまでに発展していて、もういろいろと想定外だ。
(あぁあ、どうしてこんなことに……)
 そんな主人の気持ちに混乱したのか、ピィちゃんが両足をぐるぐると空回りさせて、エレスティアの頬にしがみついた。『楽しくなかったの!?』『お空最高でしょ!?』と言うみたいにもふもふの頬を押しつける。
「ところで、早速ですが本日の点数をまとめますわね」
「うっ」
 心獣を下がらせたアイリーシャが、待っていた騎士の手から、浮遊魔法で手帳とペンを自分のもとへと移動させて書き始める。
 優秀な軍人でもある彼女の特訓は、スパルタだ。
「申し訳ございませんでした、今日も浮遊魔法の発動に失敗してしまいました……」
 エレスティア自身、今日の飛行訓練の反省点はすでに認識している。
 すると続いて心獣と共に着地した者がいて、そこから彼女の意見をすばやく否定する声が上がった。
「いえ、それはコレが悪いのでは?」
 それは皇妃の専属の護衛にあてられた、皇帝の幼なじみにして騎士のアインス・バグズだ。心獣の上からアインスが『コレ』と言いながら、ピィちゃんを指差す。
 ピィちゃんがその指に真っすぐ飛んで向かい、怒ったように何度もつつく。
「魔法の発動には集中力がいります。コレが右へ左へと旋回していたら集中できないでしょう」
「アインス様、ピィちゃんが指をくわえてしまいましたけど……」
「心獣と主人が息を合わせる技術が必要になりますからね」
 アインスは平気なのか、話しながら手を振って指からピィちゃんを離そうとする。
「心獣持ちの魔法師は、魔法教育が始まるまでの数年間、心獣と共生するための訓練に徹しますし」
 アイリーシャも困ったように頬に片手を添え、ピィちゃんを見た。
「魔法のコツだって掴む必要もございます。感情と意思が合致するような感覚が(かなめ)、と言いますか。先に地上での発動を安定させてからの方がよさそうですわね。皇妃の魔力なら、本来は心獣の方向操作だけでなく、かなり重い物でも浮遊させられると思います。飛行技術もその頃には向上しているかと」
 魔法には炎、水、風、氷、土、光、というように属性が存在している。基本的に風属性の魔法師が得意とするのが、浮遊魔法だ。
 しかし、心獣持ちの魔法師は、一定以上の魔力量を持ったエリート魔法師である。
 複数属性を扱える者は珍しくない。それでいて、例外なく全員が浮遊魔法を会得しているという特徴もあった。
 それは心獣で空を飛んだり地上を駆けたりする際、浮遊魔法が活用されているからだ。
(そう、なれるかしら……?)
 今のところエレスティアの浮遊魔法は、紙を浮かせる程度だった。そこから全然進歩がなく、自信は喪失気味だ。
 心獣の主人としても初心者で、いまだ基本的なこともできていない。焦りはある。
(毎日努力はしているのに基本の浮遊魔法も上達しない……申し訳ないわ)
 実践担当のアイリーシャの他、基礎勉強や訓練は、魔法具研究局宮殿支部の支部長カーター・バロックが受け持ってくれている。彼は、エレスティアの父であるドーラン・オヴェール公爵の学生時代の後輩であり友人でもある。
 属性によるものとはまた別に、個人の性質によっても魔法の種類に向き不向きがある。
 それを見極めるのも魔法を学ぶための準備としては大事だ。そのためまずは浮遊魔法の基礎と実践訓練を行っているところだ。
(やっぱり私には、父や兄たちのような魔法の才能は――)
 たくさん協力してもらっているのにきちんとした浮遊魔法一つ行えないでいることを思い、エレスティアがうつむいた時だった。
 アインスたちがすばやく一礼をして、数歩後ろへと身を引く。
 それに気づいたエレスティアは、ピィちゃんに髪を引かれ、ハッと振り返る。
「君が戻ったと知らせを受けてな。飛んできたよ」
「ジルヴェスト様」
 そこにはジルヴェストがいた。どうしてこちらに?と驚きつつも、彼の姿を見ただけでエレスティアの心は罪悪感からひととき解放される。
 このエンブリアナ皇国の皇帝にして、すべての魔法師たちのトップに立つ魔力量を持った最強の魔法師だ。
 深い青の瞳に、金髪が似合う(まばゆ)い美貌をしたエレスティアの夫でもある。
 ジルヴェストはそばにいた側近に仕事を指示する。その横顔は一瞬、美しいのに人を圧倒する引き締まった強面(こわもて)になる。だが、エレスティアに視線が戻れば、彼の凛々(りり)しい端正な目元は優しく和らぐ。
「会いたかった」
 結婚指輪がある左手を持ち上げられ、手の甲にキスをされる。
(か、彼の美しさには、まだ慣れそうにないわ)
 エレスティアはじわじわと頬が熱くなった。
 こういうことをスマートにこなすのだって、いったい彼はどこで覚えてくるのだろう。
 ジルヴェストは以前は、冷酷な皇帝と知られていた。
 臣下として男女を平等に扱う姿勢は尊敬されるものの、貴族女性に対してさえ容赦がないというのは有名だった。
(――の、だけれど)
 結婚で宮殿に上がった際、彼の印象が違っていて驚いた。
 無理に初夜を決行せずに話をしてくれた人だった。いや、そもそも彼は、エレスティアに愛の告白をしてから一転した。
「離れている間がつらくて仕方がなかった。エレスティアは?」
「わ、私も、です……」
 だんだんと自分の顔が赤味を増していくのを感じつつも、正直に答える。
 引きずり出されるように朝の名残惜しげなキスが思い出された。エレスティアだって、夫であるジルヴェストを今は心から愛している。
 とはいえ、彼の愛情表現は、彼女には初めてすぎて困った。
「あ、あの、そろそろ手を」
 そろりと引き寄せようとした手を、意図的に引き留められる。
「あっ」
「俺は離してしまいたくないな。指の一本ずつにでもキスをしたいくらいだ」
 彼の唇が結婚指輪に触れ、続いて薬指の先にちゅっと二度目のキスを落とされ、赤面していたエレスティアはさらにかぁっと熱くなり、うつむきかげんになる。
 数歩後ろにいるアインスとアイリーシャの存在が、大変気になる。
 宮殿の正面広間には多くの貴族の姿もあった。
「まぁ、なんと仲睦まじいのかしら」
「あちらをごらんになって」
 貴族たちがそう(ささや)き合う声が聞こえる。
 エレスティアは大注目を浴びているのも恥ずかしくてたまらない。
 皇帝と皇妃。二人は夫婦なので、こうした手への挨拶のキスくらいで恥ずかしがる必要はない。だが、ジルヴェストは二十八歳で、妻に対する誠実さにおいても申し分なく、立派な大人の男性だった。それに対してエレスティアは、まだ十七歳だ。
 彼相手に恥ずかしさを抑えるどころか、彼の方を見ることさえままならない。
 この国では、とくに貴族は魔力量で人を見る。
 魔力が発現するまで、エレスティアは自他共に認める引きこもり令嬢だった。
 ゆえに、男性への接し方だって慣れていない。
 だから皇妃として『脱・引きこもり令嬢』を目指し、公務と共に社交を始めた。
 あれから、もう何十人と知れず異性と言葉を交わしたのだが、いまだジルヴェストの対処法は掴めないでいる。
「共に空の散歩は叶わなかったが、少し庭園を歩かないか?」
 嬉しい提案に、エレスティアは目をぱっと輝かせた。
 ジルヴェストが途端に、安心したように目を優しく細める。
(あっ、私の緊張を察してくださったんだわ)
 彼女はまた恥ずかしくなる。
 ジルヴェストは心の底からエレスティアを愛してくれていた。夫婦として距離を縮めていくことも、彼は考えて進めてくれていた。
「さあ、行こうか」
 うなずいたエレスティアの肩を、ジルヴェストが抱き寄せる。
 ピィちゃんが嬉しそうに周りを飛んだ。自分の心を反映しているのかしらと思って目で追い、エレスティアはまた(ひそ)かに頬を赤らめる。
「アインス、アイリーシャ嬢、同行せよ」
「はっ」
 二人が声を揃え、あとに続く。
 元々同行していた護衛騎士たちがその後ろについた。
(すごく大人なのよね)
 エレスティアは、自分を自然に散歩へ誘ったジルヴェストに感心する。やはりそこもまだまだ彼にかなわないと感じる点だ。
 多くの貴族たちが注目する中、正面広場の東側の高い生け垣に囲まれた庭園へと進んで、入り口のアーチへと向かう。
 そこに到着すると、護衛騎士たちが止まった。
「周辺へ配置せよ」
 一人が部下たちに指示する声が、アーチをくぐったエレスティアの耳から遠ざかる。
 ここは宮殿の東棟に続いていた。二階の渡り廊下をくぐると休憩用のベンチなどが置かれた別庭園へと出るのだ。
(あら? 他には誰もいないみたい)
 普段なら優雅に庭園の鑑賞を楽しむ貴族や、宮殿の勤め人が気晴らしで歩く姿も見られる場所だった。
 珍しく他の話し声も聞こえてこない。静かだ。
(もしかして……ジルヴェスト様は、ここを歩く予定を先に立てていらしたのかしら?)
 ふっと推測が浮かんだ時、アインスとアイリーシャが立ち止まった。
 二人はここまでのようだ。左胸に手をあてて、頭を下げる様子をエレスティアは肩越しに見た。
(やっぱり先に打ち合わせでも行われていたみたい)
 距離が開いていく二人の姿をつい目で追いかけていたら、ふと、手をつながれる感触がして胸がはねた。
「飛行はどうだった?」
「え、ええ、とても充実していました」
 隣のジルヴェストに顔を(のぞ)き込まれ、どきどきしつつ答えた。
「話を聞かせてくれるか?」
「もちろんです」
 充実していたのは本当だ。
 彼と思いが通じ合い、妻として生きることを決めてからずっと毎日が満たされている。そんな思いで、エレスティアは自然と微笑みを浮かべて彼に答えた。
 心獣は主人と一心同体。気持ちが伝わったのか、ピィちゃんが嬉しそうに飛んできた。エレスティアは指先にピィちゃんをのせ、楽しかった飛行のことをジルヴェストに話した。
 彼が話を聞いてくれることにも胸は弾む。
 そして話を聞こうと、彼が歩調をゆっくりにしてくれたことも、嬉しい。
「――そうか。絵画は俺も賛成だ」
 ジルヴェストがつないでいない手を(あご)にやる。
「あとでアイリーシャ嬢に絵師を紹介しなければな」
 思案するその横顔は、真面目だ。
(王族御用達(ごようたし)の絵師をわざわざ……)
 エレスティアは反応に困ってしまった。
 最近、この二人がタッグを組むと止められないことは理解した。幼なじみのアインスがいつも苦労しているからだ。
(アイリーシャ様が訓練指導役に正式指名されてからいろいろスピード感が)
 と思った時──。
『手をつないだが、子供っぽく思われないだろうか? さりげなく彼女の手を取り、腕を組んでもらうように導いた方がよかったか』
 彼の悶々(もんもん)と悩む心の声がどこかから聞こえた。
(えっ)
 口にした言葉とはまったく違う、ジルヴェストが〝今考えている〟ような内容に驚く。
 エレスティアは、同時に、心の声が聞こえてくるとはまったくの想定外で、あまりにも不意打ちだったので動揺して、うっかり彼の手を強く握ってしまった。
『エレスティアが俺の手を!? まずい、かわいいな。そうか手をつないで正解だったのか、それはよかった。彼女にはまだこちらの方が安心できるのかもしれないな、どんどん信頼してくれると嬉しいんだが』
 むふふと胸の中でつぶやく彼の声が聞こえてくる。
 そんな作戦があったらしいというような憶測など、エレスティアは思い浮かべる余裕がなかった。
 彼は、エレスティアに会うために文字通り飛んできたのだろう。そうわかって大急ぎで視線を巡らせてみると、捜していたものが目に留まった。
(き、来たわ!)
 つい、心の中で叫ぶ。
 歩いてきた通路の途中から、大きな黄金色の心獣がのそりと顔を出した。
 このエンブリアナ皇国では、心獣は〝白い〟狼の姿をしているのが一般的だが、皇帝陛下の心獣は唯一、黄金の毛並みをしていることで知られていた。
 色に関していえば、エレスティアの魔力の発現と共に〝ピィちゃん〟が誕生したことで状況は変わり、数ヶ月前から唯一ではなくなっている。
 とはいえ国内外を含め『大きな黄金の狼の守護獣』『大きな黄金の鳥の守護獣』と、互いに皇国で一頭ずつしかいない心獣を持った皇帝夫婦だと話題になっている――のだとか。
 その情報提供者はアイリーシャだ。
 外国からの招待の話もかなり多く届いているようだが、そこは宰相(さいしょう)や外交大臣に任せている。
(私は、遠くへは行けないから……)
 一瞬、エレスティアはそこに気を取られた。
 ジルヴェストと、心獣で大空を飛ぶ楽しさを知った。飛んでいる時の解放感も、ピィちゃんのおかげで感じられた。
 引きこもりだったけど、彼ともっとたくさんのものを見られたら――。
 今ではそんな気持ちを抱くようになっていた。
 外へ行くのは怖いことではない。出会ってくれたジルヴェストのおかげで、エレスティアは自分が見てこなかったこの皇国の美しさにも気づけた。
『横顔が神秘的だ。実に愛らしい』
 聞こえた心の声に、エレスティアはハッと現実に引き戻される。
『唇を奪った際の反応を見てみたいと思うが、さすがに今は自制した方がいいよな』
「ひゃっ」
 思わず反射的に隣の彼を見上げた。
「エレスティア?」
「い、いえっ、なんでもありませんわ」
 エレスティアは慌ててつないでいない方の手を振った。
 そのかたわら、不思議そうな表情で見下ろしてくるジルヴェストの心の声が、そばまで来た彼の心獣から引き続き漏れ出ている。
『愛らしい唇を俺のものでくすぐって悪戯(いたずら)してしまいたいな、反応も絶対にかわいいだろうな。一度ここで(あえ)がせてはだめかな? いや、しかし世界で一番大事にしたい。夫としてエレスティアに嫌われたくないから対応も慎重にしなければならないし、うーん』
 この平然とした様子で、そんな思いを巡らし続けているのか。
(も、もうやめてー!)
 なぜ、心の中は甘々な夫なのだろうか。
 喘がせるという彼の言葉に想像を膨らませて赤面すると同時に、エレスティアは自分の夫が世界で一番素敵すぎて赤面する。
 そもそも、どうして自分だけ、夫の心獣の胸元から心の声が聞こえてしまうのかわからない。
『いや、話さなければいけないことがあるから、やはり自制すべきだ。そうしないと俺が彼女をぞんぶんに()でることに意識が向いてしまって、この大切な話もままならないだろうしな。うむ、実に悩ましい』
(えっ、話?)
 その心の声を聞いて、エレスティアはハタと我に返る。
 何か、仕事の話があったのだろうか。
 そうだとすると、人払いがされている状況についても()に落ちる。
『とはいえ――抱きしめてはいけないだろうか? 抱きしめるぐらいは許して欲しい、まずは彼女にものすごく癒やされたい気分だ』
 心の声が心獣からダダ漏れになるのは困りものだが、こういうことを知ることができるのは利点ではあった。
 ジルヴェストはなかなか苦労を顔に出したり、弱音を吐いたりしない。
(これからするお仕事の話で、何かお疲れが?)
 いまだエレスティアは、皇妃としての仕事のすべてには協力できていない。公務や執務を手伝い始めてから、彼の仕事量はかなりのものだと改めて実感していた。
 夫を癒やすのも、妻の大事な役目だ。
 誰にも甘えることができない皇帝を一人の男性として受け入れ、そばで支えられるのは自分だけ。
 エレスティアは心を決めると、立ち止まって彼に向き合った。
「どうした?」
 引き留められたジルヴェストが不思議そうに見つめてくる。
 彼と見つめ合うと、さらに緊張して心臓がばくばくしてきた。
(恥ずかしい……けれどがんばるのよっ、私っ)
 彼を癒やすのだ。そう思い、エレスティアはジルヴェストをぐっと見上げた。両手を広げてみせると、彼が目を(またた)く。
「エレスティア?」
「まだ、今日はジルヴェスト様に抱きしめられていません」
 正面から互いに抱きしめ合うことはしていなかった。
 それを告げながらも、子供っぽい言い方をしてしまったかなと心配になる。
 けれど、なかなか切り出せないジルヴェストの思いをくんで、抱きしめやすいようエレスティアがどうにか考えた方法だった。
 するとジルヴェストが、口を手で(おお)い、一歩後退した。
『俺の妻が愛らしすぎる!』
 大きな黄金色の毛並みをした彼の心獣から漏れてくる声が、大音量になる。
 主人の心の声をタダ漏れにさせている張本人なのに、気のせいか彼の心獣は、冷めた目でジルヴェストを見下ろしている気がした。
『まさか彼女は、俺がしていたから抱きしめられるのが癖になったとか? ――待て待て待てっ、俺の妻のかわいさに磨きがかかって心臓が大変なことになりかねん!』
 それは困る。
(この国の皇帝には、健康でいてもらわないと)
 前皇帝夫婦は、実子である十代のジルヴェストを一人残し、急逝した。
 そう思い返していたエレスティアの頭の上で飛んでいたピィちゃんが、彼の心獣の方へと飛んでいく。
「んんっ――エレスティアは、俺に抱きしめられたいのかな?」
 ぎこちない(せき)払いと共に、彼がちらちらと(せわ)しなく視線を送ってくる。
 その瞳は、期待の輝きが宿っているように見えた。
 犬の耳と尻尾が生えているように見えるのは、引き続き彼の心獣が垂れ流しにしている心の声が聞こえ続けているせいだろう。
『もう一度聞きたいな、言ってくれるかな? 残りの仕事もとてもがんばれるぞ!』
「…………」
 クールな見た目とは違い、彼の心の中は大変騒がしい。
 でも――と思って、エレスティアは笑みをこぼした。
(とても、かわいい人だわ)
 怖いと思っていた皇帝が、実のところ怖くないとわかった出来事の一つでもあった。
 彼は、前皇帝夫婦が急にいなくなってしまった国民たちの不安を払拭しなければならなかった。その苦労は前世、姫だったエレスティアにも想像できた。
 皇帝として国を導かなければならない責任感。
 それが彼を感情面で不器用にした。自分と結婚したことで彼が感情を少しでも取り戻せていっているのなら――嬉しいことではある。
「はい、……私はジルヴェスト様に、抱いていただきたいです」
 その瞬間、ジルヴェストが空を見た。
 エレスティアは、言葉では追いつかない彼の膨大な感情が映像となって心獣から流れ込んでくるのを感じた。
 一瞬、何やら薄暗い部屋とベッドが――。
「きゃっ」
 だがそれは、ジルヴェストに抱きしめられたことで霧散した。
「エレスティア! かわいい俺のエレスティアっ。君が言葉の使い方をうっかり間違えたのはわかるが、今のは、強烈すぎる」
 何が、どう強烈だったのか。
 苦しいくらい彼の胸に押しつけられたエレスティアは、頭の上にいっぱい疑問符を浮かべる。
 そもそも今は、どきどきして考えるどころではない。
 皇帝として身なりを整えたその衣装越しにも、引き締まった男性の体を感じられた。彼の胸がどきどきと鳴っているのも聞こえる。
(ジルヴェスト様も、緊張されて……?)
 彼の心獣の存在を思うと、余計に胸がどぎまぎするのも事実だ。
 こうしている時に、彼から男性なりの感想などを聞かされたら、エレスティアこそ心臓がどうにかなってしまうだろう。
 と、彼の抱く腕の力が増した。
「キスをしても?」
 首元に埋められた彼の唇から、吐息交じりの声が聞こえて心拍が急速に上がる。
 心の声は、心獣から聞こえてこない。
 つまりは、本音だ。
(彼の口から直接聞くと威力がすごいわ)
 自分の心臓がどっどっと大きな音を立てているのがわかる。
 こういう時はさりげなく奪ってしまってもかまわないのだろうが、そうはしない彼の優しい気遣いも、エレスティアの胸をきゅんきゅんさせる。
「は、い……」
 答えると、ジルヴェストが腕の力を弱めて目を合わせる。
 熱のこもった視線に胸がときめいた時には、彼の美しい顔が、エレスティアの上へと落ちてきていた。
 ここにいるのは二人の大きな心獣と小さな心獣だけ。じーっと見つめてくる彼の心獣を気にしつつ、エレスティアはジルヴェストからのキスを受け入れる。
「ン……ん、ぅ……」
 優しくついばまれて体の緊張がほどけていく。
 そうするとジルヴェストが両肩を掴み、キスを深めた。
「んっ」
 次第に、互いの唇が()れていくのがわかる。
『吐息がかわいい、何もかもかわいい、全部柔らかい――』
 心獣から聞こえる声に、エレスティアはどきどきが止まらない。
 何度目かの甘い合図のように上唇をはまれる。誘われるみたいに彼女が唇を開けると、優しく熱が差し込まれた。
「ん、ふ……んぁっ、は……っ」
 後頭部に大きな手が回り、逃げる舌を追いかけられる。
「エレスティア」
 人には絶対に見せられない情熱的なキスをしてくる彼に、咥内を官能的にいじられて体の奥が甘くじんと(うず)く。
 彼がキスするだけでも尋ねてしまう理由は、エレスティアもなんとなく察していた。
 それは結婚式があった日の初夜で、自分があまりにも(おび)えていたせいだろう。
 彼は、それを気にしている。
(もうあなたには怯えていないと、伝わっていきますように……)
 そんな思いで、恥ずかしいけれどエレスティアも舌を伸ばす。
「あっ、ン」
 ちゅっと舌根を吸い上げられ、体からぞくんっと力が抜けた時にジルヴェストが慌てて支えた。
「すまない、つい……」
 つい、のあとに何が続くのか気になった。
 だが、待っても彼の心の声は聞こえてこなかった。
 いつの間にか心獣たちがそばを離れている。安全だと思って近くを歩きに行ったのだろうか。心獣は気まぐれだ。
(でも、どうして力が入らないのかしら)
 前世では(ねや)関係で痛いことしか記憶にないエレスティアは、とろんとした瞳で、不思議そうにジルヴェストを見上げる。
「あー、その……答えはいつか教える」
 質問を察したのか、彼が悩ましい表情で視線を逃がした。
「そ、そろそろ行こうか」
「は、はい」
 言いながら肩を抱かれた。そんな姿勢で改めて視線を合わせると、エレスティアは彼と揃って気恥ずかしさを覚える。
 彼は公務の合間だ。長居はできない。
 頬がほかほかする感覚を覚えつつ、ジルヴェストの歩みに合わせて足を前に出す。
(少しお時間を共にできただけで、幸せだもの……)
 彼が彼女の肩を抱き、手を取る。そんな二人の姿は仲睦まじい夫婦そのものだ。包み込まれるような(ぬく)もりにエレスティアの胸は高鳴り続けている。
 この庭園を抜けたら宮殿に上がれる道があるから、きっと彼とはそこまでなのだろう。
(そこまでご一緒できるのなら)
 密かに、そっと夫の胸元に寄り添う。
 エレスティアは上にある二階の渡り廊下にふっと目がいって、思い出した。それは宮殿と東棟を結ぶものだ。
(そういえば、さっき、話さなければいけないことがあると言っていたわ)
 心の中での声だが、確かに聞いた。
 人払いもして場を整えていた。何か大切な話なら、それとなく自分が引き出すべきだとエレスティアは思う。
「先程は私のお話ばかりで申し訳ございませんでした。何か、お仕事で私も協力できることなどありませんか?」
 それとなく話を振りつつ見上げると、なぜだかジルヴェストが動揺したように顔を背ける。
「ジルヴェスト様?」
「すまない、君があまりにもかわい――んんっ。そうだった、実は話があってな」
 彼はようやく思い出したのか、足を止め、エレスティアと向き合う。
「実は、し……」
「し?」
 なぜだか彼が声も出ないまま口をぱくぱくとし、それから見事に黙り込んでしまった。
(もしかして、そうとう大事な話だったのかしら……?)
 エレスティアは緊張した。ジルヴェストはかなり悩ましそうに顔を上に向け、「あー」「その」と珍しく口ごもっている。
 皇国内で何か大きな問題がなかったか、エレスティアは急ぎ思い返す。
 直近で自然災害の申告も入ってきていない。外交も円滑だと、先日の大会議でも報告を受けたばかりだ。
(新たに国交が結ばれ、友好関係が深まったファウグスト王国のことも、私の方では引き続き第四王子とは仲よくしておいて損はないと、各大臣からも意見を聞いたばかりだし――)
 そもそも第四王子との手紙のやり取りを心配する声が、どうして一部の貴族から出たのかまったく見当がつかないでいる。
 それが貴族会議の議題に出た時には、エレスティアは想定外すぎてきょとんとしてしまったのだった。
(でも、それもこれも違うとしたら、いったいジルヴェスト様にはどんな悩みが――)
 数秒の間に考え、エレスティアがさらに深く思案に入った時だった。
「ぶわっはははははは!」
 二階の渡り廊下から大きな笑い声が聞こえた。
 気のせいでなければバリウス公爵の声だ。
 父の友人にして、親愛なる『おじ様』である大貴族、エドリーク・ドゥ・バリウス公爵。噴き出した声は「ぶひゃひゃひゃ」と続き、まるで腹を抱え笑い転げているかのようだ。
 しかしこれまでバリウス公爵が笑い転げる姿など見たこともない。あまりにも意外でびっくりし、二階の渡り廊下の方を見ようとしたら、ジルヴェストがエレスティアの両肩を掴んで自分に向き合わせた。
「エレスティア」
「は、はい」
 見つめる彼の表情は真剣で、ついエレスティアも気を引きしめる。
「新婚旅行を考えている」
 エレスティアは、その打ち明けに目をぱちくりとした。
 告げたジルヴェストの口元が、直後にひくつく。
「……バリウス公爵のせいで、締りのない打ち明けになった。最悪だ」
「旅行ですか?」
「ああ、そうだ。そろそろ俺たちの新婚旅行はどうかと思っ――」
「よいのですか!?」
 エレスティアは前のめりになって夫の腕を取り、若草色の目を輝かせた。
 彼女は今、エンブリアナ皇国内において〝重要人物〟になっている、そうだ。だからしばらくは外に出られないだろうと思っていた。
「君はいいのか? かなり大人数での移動と長期滞在になるが」
 ジルヴェストが、意外そうにエレスティアを見る。
「私が引きこもりだったことを考慮してくださっているのですか?」
「そうだ。家族とも領地と王都の間以外の移動は、ほとんどなかったと聞いた」
「そうです。でも、かまいません、嬉しいです」
「嬉しい?」
「はい。私、ジルヴェスト様と一緒にどこかへ行けるのが嬉しいのです」
 彼が、そのブルーの目をゆるゆると見開く。
「……俺と?」
「はい。だって、ずっとジルヴェスト様のそばにいてよいのですよね?」
 公務は別々が多い。
 本来なら一人でこなしてこそ当然の立場ではある。
 だが、エレスティアはできる公務が増えるに従って、ジルヴェストと一緒にいられない時間を寂しく感じるようになっていた。
 夫婦として共寝もしているが、未知の魔力の件もあって、ジルヴェストと身は結んでいない。
 それが彼女を恋人同士のような気分にもさせているのだろう。
 ジルヴェストの口から旅行と聞いた途端、エレスティアの胸は、恋人から旅行の提案をされた時のように弾んだ。
「ジルヴェスト様としばらくずっと過ごせるのも初めてですねっ。本で読んでいた外国の土地に、あなたと一緒に訪ねるのが楽しみです」
 エレスティアは引きこもっていたから、外国を旅行するのは初めてだ。
「どちらへ行かれるのかは、もう目処(めど)が立っているのですか?」
 どこかほうけていたジルヴェストが、ハッとする。
「あ、いや、その、君の意見を聞きながら決めていこうと思っていたところで……」
「まぁっ、嬉しいです」
 エレスティアは両手を合わせた。にこにこして見つめていたら、ジルヴェストが口元を片手で覆い、視線を横に逃がしてしまう。
「あら? いったいどうされましたの?」
 ジルヴェストが、何やらぷるぷると震えている。
「……君が、あまりにもかわいいことを言うからだ」
 ようやく答えたかと思ったら、言葉を切り出すと共に彼の横顔があっという間に赤く染まっていった。
「ずっと一緒にいたいと、君がそう望んでくれていたと受け取って無性に心が弾んでしまった」
「あ」
 まさに、その通りだ。
 そうエレスティアが自覚したのと、ジルヴェストが確認すべく言葉を発したのは同時だった。
 彼の視線を受けて、エレスティアもまた耳の先まで真っ赤になる。嬉しさのあまり自分の方こそ心の声がダダ漏れになってしまった。
「……その、だな」
「……はい」
 恥ずかしくて、視線を上げられない。
「そういうことであるのなら、新婚旅行の話を進めてもかまわないか?」
「も、もちろんです」
 互いに赤面で、ぎこちなくそう話をつけた。
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