引きこもり令嬢は皇妃になんてなりたくない!~強面皇帝の溺愛が駄々漏れで困ります~3
皇帝夫妻が揃っての外国旅行となると、新婚旅行とはいえ外交も絡めて場所が選ばれるだろう。
それでも、ジルヴェストがエレスティアのことを考えて選んでくれるだろうということはわかる。
だからエレスティアは、どの国になるのだろうと彼からの相談を楽しみいっぱいで待つことに決めていたのだが――。
旅先探しは、まるで事情を察知でもしたかのような一通の手紙で終えることとなった。
【新婚旅行がまだなら、私のシェレスタ王国に来るはどうだい?】
そんな提案が書かれたワンドルフ女大公からの手紙が届いたのだ。
先日まで、彼女は国賓としてこの国にしばし滞在していた。
その際に交流を深めることができたエレスティアと、その夫であるジルヴェストを共に自分の国に招待したいのだとか。
その手紙を、エレスティアは呼ばれた皇帝の執務室で見た。
「皇帝が二の次になっとる……なんと大胆な手紙……」
「これ、皇妃様は気づくだろうか……?」
「わからん、ワシは皇帝から女大公のスパイが皇国内にいないか調査を依頼された……仕事が増えて余計に気が重い……」
皇帝の執務室に集まっていた国の偉い方々が口々にぼやくが、その一方で手紙を読むエレスティアの表情は、次第に緩んでいく。
「以前招待してくれたお返しがしたいだなんて……こちらの方がお返しすべきですのに、ワンドルフ女大公様らしいですね」
手紙によると、国をあげて歓迎する構えだという。
彼女ならやりかねないなと、エレスティアはふふっと笑みをこぼす。
シェレスタ王国の豪胆な女領主にして、男装姿の麗人であるワンドルフ女大公。華やかな場がとても似合う人なのは、まだ記憶に新しい。
バリッシャー砂漠の件があったファウグスト国のことでは、彼女のおかげで事がスムーズに運んだ。
ファウグスト国王に伝言だけ残して立ち去るなんて、エレスティアはかっこいい女性だと思ったのだった。
あのあとお礼の手紙は送っていたが、彼女には直接会ってお礼が言いたいとずっと思っていた。
「えーと……それでは皇妃様は、この案に賛成ということですね?」
「ワンドルフ女大公様じきじきのお誘いですもの」
外交大臣の確認に、エレスティアは便箋から顔を上げてにこやかに答える。
すると彼も含め、揃ってここで彼女の返答を待っていた宰相たちが、かなり気にした様子で視線を移動する。
そこにはジルヴェストの姿があった。なぜか、いっそう眉を寄せている。
「ジルヴェスト様? もしかして、いけませんでしたか?」
エレスティアがしゅんとした瞬間、彼がすばやく執務席から立ち上がった。
アインスをはじめとする護衛騎士たちが視線で追いかける中、ジルヴェストが足早に移動し、エレスティアの片手を両手で包み込んだ。
「そんなことはない」
「そ、そうでございましたか」
以前、彼がワンドルフ女大公に嫉妬したことは覚えている。
この提案は個人の感情を抜きにしても重要なものだ。
断らない方が皇国のためにもなる。以前よりは少し落ち着いたようだし、彼とワンドルフ女大公が仲よくなるいいきっかけにもなるのではないかとエレスティアは思うのだ。
だが、ふと、エレスティアは室内が静かなことが気になった。
「……もしかして、皆様の中にはよくないと考えているご意見がありましたか?」
外交情報も一通り頭に入れ直したのだが、それは少し古いものだっただろうかと心配になって室内の者たちへ目を向ける。
宰相が「いえいえっ」と大急ぎで答えてきた。
「我々も大賛成です。手紙に提示されていたのは、断るのがもったいないほどの待遇で、両国の友好関係を示すのにも絶好ですし――ひぇっ」
ジルヴェストを見た宰相の反応を見る前に、エレスティアは先の返答を受けて、安心して手紙に目を戻していた。
「よかった。文書だけのお礼では、失礼な相手ですもの。国王の確認印まで押されて正式発行されていますから断る方が失礼になりますし」
ワンドルフ女大公は、大国であるシェレスタ王国の国王の側近であり、三分の一の政治力と軍事力を動かすことのできる権力者だ。
国内だけでなく、他国にも強大な権力と実力を示して名が知られている。
それだけの領地を持った女領主を、エレスティアは他に知らない。
この新婚旅行は、エレスティアにとってはバリッシャー砂漠の件で対面したファウグスト国王に続いての、他国の要人との正式な外交デビューともなる。
その一番目が大国というのも、幸先のいいすべり出しともいえるだろう。
国をあげての歓迎といった条件も、外交面を考えてもかなりいい。
エレスティアとしては、見知った人がいる外国というのも安心感があった。
「ワンドルフ女大公様に、直接お礼が言えるのも嬉しいわ」
殿方みたいな話し方や態度でぐいぐい来るのには困らされたが、また会えるのだと思うと笑みが浮かぶ。
彼女はピィちゃんをなんとも愛らしいと褒め、エレスティアにぴったりだと言ってくれた人でもある。女性たちの社交の場でも、彼女には救われた。
「おぉ、皇妃様の一言で、皇帝陛下の冷気が倍増ですな……」
「嫉妬満々ではありませぬか……」
「水を差された気分なのだろうな……」
ああ、わかる、と皇帝と皇妃を見守る全員が口を揃えた。
「ジルヴェスト様も、シェレスタ王国を訪問されたことがあるのですよね?」
「ん? ああ、もちろんあるが」
「私も、ジルヴェスト様が訪れた国に行ってみたいです」
奇妙な間を置き、彼がにっこりと微笑む。
「エレスティアが望むところが一番だ。行き先はシェレスタ王国にしよう」
宰相たちがころっと一変した彼をまじまじと見た。アインスが「嫉妬を抑え込んだ笑顔」と、苦労を予感したような声でつぶやいていた。
新婚旅行の準備が進むことになった。
出立は二週間後に確定した。
あちらの国はこことは季節がズレており、一足早く初夏の社交シーズンに入ったという。心獣に乗って各国の上空型の転移魔法装置を通過すれば、短時間で過ごしやすい気候の大地へと到達するようだ。
ちなみに出立したその日のうちに入国できるのは、移動最速を誇る〝心獣〟のみだ。
魔法の杖といった魔法道具や、自身の転移魔法に頼っている者たちからすれば、目をむく〝非常識な〟皇国の常識だった。
手紙の返事を魔法で受け取ったワンドルフ女大公も、知らされた出立日と到着日が同じであることに『さすが!』と感心していた。
だが褒められたというのに、どこか圧を感じさせる笑みでその手紙を見ていたのはジルヴェストだ。
「どうされたのかしら?」
「さ、さあ、わたくしには今はなんとも……」
王の間から先に退出したエレスティアは、ピィちゃんと共に出入り口のそばで待ってくれていたアイリーシャにこそっと尋ねた。視線ごとはぐらかされたうえ、移動の護衛としてついたアインスもそこには答えない姿勢を取ってくる。
「皇妃、お手紙の返事をされたら仕立て屋との打ち合わせです」
アインスはそう言って話をすり替えてきた。
とはいえ、そうだったと思い出されたエレスティアは、きちんとそれに間に合わせる予定でいたので、まず自分に与えられた執務室へと向かった。
そこには皇妃宛てに多くの手紙がまた届いていた。
大抵はパーティーの招待状や、ご機嫌取りの挨拶がほとんどだ。
アインスとアイリーシャは邪魔しないよう黙ってエレスティアを補佐する。そして二人は、エレスティアが手早くそれらを処理するのを感心して眺めていた。
(あっ、あったわ)
最後に大事に取っておいたのは、エンブリアナ皇国との国交代表者となった隣国ファウグスト王国の第四王子、エルヴィオ・ファウグストからの手紙だ。
彼の国にあるバリッシャーは長年砂漠だったが、エレスティアの魔法により、大昔と同じく雨が降る大地に戻った。
そもそもエレスティアが隣国の問題を解決するきっかけとなったのが、ルビー色の髪と目をしたその国の王子様だ。
その一件から、エルヴィオだけでなく、彼の父である国王や、他の王子王女たちも頻繁に手紙を送ってくるようになった。
大魔法つながりで自分たちの国のことを教えようと、季節ごとの空気感や風景について綴られた手紙は、まるで書物を読んでいるかのようで、読書好きな彼女をわくわくと楽しませている。
「――返事はこれでいいわね。こちらもお願いしますね」
個人から個人への手紙だ。エレスティアは自分で大事に封筒へ入れて仕上げ、侍女に手渡す。
「確かに、文官へとお渡しいたします」
受け取った侍女が、微笑みながらも少しだけ心配そうにする。
(まただわ)
エルヴィオも含め、エレスティア宛てに届くファウグスト王国からの親身な手紙は、いつも侍女たちの表情を少しだけ曇らせる。
「何か私、不安にさせてしまっていますか?」
「あ、いいえっ、そんなことはございませんわ」
侍女たちが揃って否定する。
「ですが、皆様なんだか心配そうです」
「懇意になりたいと言わんばかりの皇妃様宛ての手紙ですので……皇妃様のお力のすごさを察している国民たちは、隣国があなた様を欲しているのではないかと心配されているというか……」
まさかと思ってエレスティアは笑い飛ばした。
彼らの国は、エレスティアが持つ大魔法『絶対命令』を過去に持っていた唯一の偉人、古代王ゾルジアの出身地だといわれている。
同国にあるバリッシャーは大昔、砂丘のオアシスだったが、激怒した古代王の大魔法によって一瞬で滅びてしまった。
そして雨も降らなくなり砂漠と化した。
それ以来そこは【呪われた土地】と言われてきた。
何が起こったのか歴史にも記録されていないが、雨が降らない事実は、彼らにとって長い悲しみと苦しみでもあっただろうと理解できる。
そんな中、古代王ゾルジアが持つ大魔法が長い時を経てエレスティアの中によみがえり、雨を降らせたのだ。
砂漠の呪いが解けたので、ファウグスト王国の国民は彼女に同胞のような親近感を抱いているのだろう。
「さっ、終わりましたら続いてはドレスですわ!」
助けを求めるような侍女たちの視線を受けて、アイリーシャが前に出て言った。皆ほっとすると、一人の侍女が「手紙を文官へ渡してまいります」と言い、退出していく。
「早速ご移動ください、エレスティア様」
公式の場以外では、アイリーシャは引き続き名前で呼んでくれていた。エレスティアも嬉しくなって立ち上がる。
「そうですね。ピィちゃんのこと、見てくださっていてありがとうございます」
「ふふ、いいえ。お菓子をあげていれば、ひとまず大事な書面に悪戯をしてしまうことがないとわかったのは大きな一歩ですわ」
「心獣なのにまるで猫のしつけのようですね」
アインスが、アイリーシャがエレスティアへ両手で差し出したピィちゃん――ではなくアイリーシャの横顔へ目を向ける。
「つきっきりではないとわからないことですよね」
「あら、何が言いたいのかしら」
爽やかな笑顔を貼りつけたアイリーシャが振り返り、彼女とアインスの視線がぶつかった。その瞬間、そばに控えていた侍女たちの笑顔がこわばり、緊張した空気を漂わせる。
「訓練指導役の身で、でしゃばらないでくださいませんかね。正直私は迷惑しています」
アインスがきっぱりと告げた。
あからさまにその細められた目も口調も刺がある。皇妃の執務終了を受け、外から扉を開けた騎士たちも固まっている。
「あら、わたくしもほぼ護衛騎士みたいなものですわ」
「開き直らないでくださいませんかね。後宮にも出入りされて、迷惑です」
アインスのこめかみに青筋が小さく浮かぶものの、アイリーシャはまったく相手にせず、かえって胸元の金色のバッジを見せつけた。
「皇帝陛下から許可は得ていますもの」
アイリーシャは先日の鳳凰化の特訓指導を経て、ジルヴェストの許しを得、護衛騎士とほぼ同じ権限で皇妃のもとへ自由に出入りができるようになった。
彼女は時間があれば後宮に立ち寄り、短い休憩のお茶の相手もしてくれている。
こうして今いるのも、実はまったく予定にない行動だ。
「その日程表、わたくしにも共有してくださいな」
「嫌です」
「わたくしの方がスケジュール管理は完璧ですわ! 一部、軍事関連のことで父と共に皇帝陛下と仕事をしていますし」
「その優秀さは存じ上げておりますが、エレスティア様がおかわいそうなので」
「どういう意味ですの!?」
やはり二人は仲が悪いのではと、侍女たちが小さく言葉を交わす。
アイリーシャは、とにかく気が強い。
先日後宮に突撃してきた際に、皇帝から与えられた特注のバッジを、わざわざ喧嘩を吹っかけるみたいに堂々とアインスへ見せつけていた。
『ほーっほほほ! ほぼ護衛騎士みたいなものですわ!』
『そんな、ない胸を突き出して主張されても効果ありませんが』
なんてアインスも珍しく文句を交え言い返していた。
後宮にいる皇妃つきの侍女たちも、二人の仲の悪さを少し心配していた。宮殿内でもしきりにそう噂されているとか。
だが、たぶん仲は悪くないとエレスティアは思うのだ。
ピィちゃんの鳳凰化の成功も、二人のコンビネーションのおかげだ。
二人が皇妃である自分を引き続き『エレスティア様』と呼び、手を差し述べてくれることにも救われている。
「ふふ、ひとまずは移動しましょうか」
エレスティアはピィちゃんを肩にのせ、二人の間に割って入る。それぞれの手を取って誘ったら、二人は面白いくらいおとなしくなった。
「……エレスティア様、私は男ですのでそうされるのはどうかと」
「わたくしは嬉しいのですが、その、心の準備が」
まるで乙女のように恥じらい、アイリーシャが発言する。アインスがそう言った彼女へ『あ?』と言いたげな顔を向けていた。
また喧嘩になったら他の者たちを困らせることは予測できる。
「私、アイリーシャ様がいてくださって助かっていますよ。ありがとうございます」
ひとまずエレスティアは二人を執務室の外へと導きながら、アインスの視線をアイリーシャから引き離すつもりで彼女に話を振った。後ろから侍女たちも続く。
「正面からお礼を言われるのはこそばゆいですが……ええっ、わたくしだってあきらめていませんとも! わたくしは野心があるのです。これで満足はしません。目指すは、貴族初の女性専属護衛騎士です!」
「え」
それはどうだろう、と思ってエレスティアは相槌に窮する。
先日、彼女の父であるロックハルツ伯爵とはジルヴェストの執務室で会った。
『あの子が一人の女性として嫁ぐことが願いですが……、先日もドレスより剣を欲しがられまして……頭が痛い……』
そう彼が漏らし、居合わせた他の将軍たちが同情して励ましていたのを見た。
「ロックハルツ伯爵のお力を借りるのは、やめていただきましょうか」
アインスがすばやく言った。
「あら。わたくし、使えるものは使いますわ」
まさか本気で、虎視眈々と女性護衛騎士の計画が進められているのだろうか。
そのやり取りを聞いてエレスティアは心配になった。その肩でピィちゃんがのんきに「ぴぃっ」と楽しそうに鳴いた。
それでも、ジルヴェストがエレスティアのことを考えて選んでくれるだろうということはわかる。
だからエレスティアは、どの国になるのだろうと彼からの相談を楽しみいっぱいで待つことに決めていたのだが――。
旅先探しは、まるで事情を察知でもしたかのような一通の手紙で終えることとなった。
【新婚旅行がまだなら、私のシェレスタ王国に来るはどうだい?】
そんな提案が書かれたワンドルフ女大公からの手紙が届いたのだ。
先日まで、彼女は国賓としてこの国にしばし滞在していた。
その際に交流を深めることができたエレスティアと、その夫であるジルヴェストを共に自分の国に招待したいのだとか。
その手紙を、エレスティアは呼ばれた皇帝の執務室で見た。
「皇帝が二の次になっとる……なんと大胆な手紙……」
「これ、皇妃様は気づくだろうか……?」
「わからん、ワシは皇帝から女大公のスパイが皇国内にいないか調査を依頼された……仕事が増えて余計に気が重い……」
皇帝の執務室に集まっていた国の偉い方々が口々にぼやくが、その一方で手紙を読むエレスティアの表情は、次第に緩んでいく。
「以前招待してくれたお返しがしたいだなんて……こちらの方がお返しすべきですのに、ワンドルフ女大公様らしいですね」
手紙によると、国をあげて歓迎する構えだという。
彼女ならやりかねないなと、エレスティアはふふっと笑みをこぼす。
シェレスタ王国の豪胆な女領主にして、男装姿の麗人であるワンドルフ女大公。華やかな場がとても似合う人なのは、まだ記憶に新しい。
バリッシャー砂漠の件があったファウグスト国のことでは、彼女のおかげで事がスムーズに運んだ。
ファウグスト国王に伝言だけ残して立ち去るなんて、エレスティアはかっこいい女性だと思ったのだった。
あのあとお礼の手紙は送っていたが、彼女には直接会ってお礼が言いたいとずっと思っていた。
「えーと……それでは皇妃様は、この案に賛成ということですね?」
「ワンドルフ女大公様じきじきのお誘いですもの」
外交大臣の確認に、エレスティアは便箋から顔を上げてにこやかに答える。
すると彼も含め、揃ってここで彼女の返答を待っていた宰相たちが、かなり気にした様子で視線を移動する。
そこにはジルヴェストの姿があった。なぜか、いっそう眉を寄せている。
「ジルヴェスト様? もしかして、いけませんでしたか?」
エレスティアがしゅんとした瞬間、彼がすばやく執務席から立ち上がった。
アインスをはじめとする護衛騎士たちが視線で追いかける中、ジルヴェストが足早に移動し、エレスティアの片手を両手で包み込んだ。
「そんなことはない」
「そ、そうでございましたか」
以前、彼がワンドルフ女大公に嫉妬したことは覚えている。
この提案は個人の感情を抜きにしても重要なものだ。
断らない方が皇国のためにもなる。以前よりは少し落ち着いたようだし、彼とワンドルフ女大公が仲よくなるいいきっかけにもなるのではないかとエレスティアは思うのだ。
だが、ふと、エレスティアは室内が静かなことが気になった。
「……もしかして、皆様の中にはよくないと考えているご意見がありましたか?」
外交情報も一通り頭に入れ直したのだが、それは少し古いものだっただろうかと心配になって室内の者たちへ目を向ける。
宰相が「いえいえっ」と大急ぎで答えてきた。
「我々も大賛成です。手紙に提示されていたのは、断るのがもったいないほどの待遇で、両国の友好関係を示すのにも絶好ですし――ひぇっ」
ジルヴェストを見た宰相の反応を見る前に、エレスティアは先の返答を受けて、安心して手紙に目を戻していた。
「よかった。文書だけのお礼では、失礼な相手ですもの。国王の確認印まで押されて正式発行されていますから断る方が失礼になりますし」
ワンドルフ女大公は、大国であるシェレスタ王国の国王の側近であり、三分の一の政治力と軍事力を動かすことのできる権力者だ。
国内だけでなく、他国にも強大な権力と実力を示して名が知られている。
それだけの領地を持った女領主を、エレスティアは他に知らない。
この新婚旅行は、エレスティアにとってはバリッシャー砂漠の件で対面したファウグスト国王に続いての、他国の要人との正式な外交デビューともなる。
その一番目が大国というのも、幸先のいいすべり出しともいえるだろう。
国をあげての歓迎といった条件も、外交面を考えてもかなりいい。
エレスティアとしては、見知った人がいる外国というのも安心感があった。
「ワンドルフ女大公様に、直接お礼が言えるのも嬉しいわ」
殿方みたいな話し方や態度でぐいぐい来るのには困らされたが、また会えるのだと思うと笑みが浮かぶ。
彼女はピィちゃんをなんとも愛らしいと褒め、エレスティアにぴったりだと言ってくれた人でもある。女性たちの社交の場でも、彼女には救われた。
「おぉ、皇妃様の一言で、皇帝陛下の冷気が倍増ですな……」
「嫉妬満々ではありませぬか……」
「水を差された気分なのだろうな……」
ああ、わかる、と皇帝と皇妃を見守る全員が口を揃えた。
「ジルヴェスト様も、シェレスタ王国を訪問されたことがあるのですよね?」
「ん? ああ、もちろんあるが」
「私も、ジルヴェスト様が訪れた国に行ってみたいです」
奇妙な間を置き、彼がにっこりと微笑む。
「エレスティアが望むところが一番だ。行き先はシェレスタ王国にしよう」
宰相たちがころっと一変した彼をまじまじと見た。アインスが「嫉妬を抑え込んだ笑顔」と、苦労を予感したような声でつぶやいていた。
新婚旅行の準備が進むことになった。
出立は二週間後に確定した。
あちらの国はこことは季節がズレており、一足早く初夏の社交シーズンに入ったという。心獣に乗って各国の上空型の転移魔法装置を通過すれば、短時間で過ごしやすい気候の大地へと到達するようだ。
ちなみに出立したその日のうちに入国できるのは、移動最速を誇る〝心獣〟のみだ。
魔法の杖といった魔法道具や、自身の転移魔法に頼っている者たちからすれば、目をむく〝非常識な〟皇国の常識だった。
手紙の返事を魔法で受け取ったワンドルフ女大公も、知らされた出立日と到着日が同じであることに『さすが!』と感心していた。
だが褒められたというのに、どこか圧を感じさせる笑みでその手紙を見ていたのはジルヴェストだ。
「どうされたのかしら?」
「さ、さあ、わたくしには今はなんとも……」
王の間から先に退出したエレスティアは、ピィちゃんと共に出入り口のそばで待ってくれていたアイリーシャにこそっと尋ねた。視線ごとはぐらかされたうえ、移動の護衛としてついたアインスもそこには答えない姿勢を取ってくる。
「皇妃、お手紙の返事をされたら仕立て屋との打ち合わせです」
アインスはそう言って話をすり替えてきた。
とはいえ、そうだったと思い出されたエレスティアは、きちんとそれに間に合わせる予定でいたので、まず自分に与えられた執務室へと向かった。
そこには皇妃宛てに多くの手紙がまた届いていた。
大抵はパーティーの招待状や、ご機嫌取りの挨拶がほとんどだ。
アインスとアイリーシャは邪魔しないよう黙ってエレスティアを補佐する。そして二人は、エレスティアが手早くそれらを処理するのを感心して眺めていた。
(あっ、あったわ)
最後に大事に取っておいたのは、エンブリアナ皇国との国交代表者となった隣国ファウグスト王国の第四王子、エルヴィオ・ファウグストからの手紙だ。
彼の国にあるバリッシャーは長年砂漠だったが、エレスティアの魔法により、大昔と同じく雨が降る大地に戻った。
そもそもエレスティアが隣国の問題を解決するきっかけとなったのが、ルビー色の髪と目をしたその国の王子様だ。
その一件から、エルヴィオだけでなく、彼の父である国王や、他の王子王女たちも頻繁に手紙を送ってくるようになった。
大魔法つながりで自分たちの国のことを教えようと、季節ごとの空気感や風景について綴られた手紙は、まるで書物を読んでいるかのようで、読書好きな彼女をわくわくと楽しませている。
「――返事はこれでいいわね。こちらもお願いしますね」
個人から個人への手紙だ。エレスティアは自分で大事に封筒へ入れて仕上げ、侍女に手渡す。
「確かに、文官へとお渡しいたします」
受け取った侍女が、微笑みながらも少しだけ心配そうにする。
(まただわ)
エルヴィオも含め、エレスティア宛てに届くファウグスト王国からの親身な手紙は、いつも侍女たちの表情を少しだけ曇らせる。
「何か私、不安にさせてしまっていますか?」
「あ、いいえっ、そんなことはございませんわ」
侍女たちが揃って否定する。
「ですが、皆様なんだか心配そうです」
「懇意になりたいと言わんばかりの皇妃様宛ての手紙ですので……皇妃様のお力のすごさを察している国民たちは、隣国があなた様を欲しているのではないかと心配されているというか……」
まさかと思ってエレスティアは笑い飛ばした。
彼らの国は、エレスティアが持つ大魔法『絶対命令』を過去に持っていた唯一の偉人、古代王ゾルジアの出身地だといわれている。
同国にあるバリッシャーは大昔、砂丘のオアシスだったが、激怒した古代王の大魔法によって一瞬で滅びてしまった。
そして雨も降らなくなり砂漠と化した。
それ以来そこは【呪われた土地】と言われてきた。
何が起こったのか歴史にも記録されていないが、雨が降らない事実は、彼らにとって長い悲しみと苦しみでもあっただろうと理解できる。
そんな中、古代王ゾルジアが持つ大魔法が長い時を経てエレスティアの中によみがえり、雨を降らせたのだ。
砂漠の呪いが解けたので、ファウグスト王国の国民は彼女に同胞のような親近感を抱いているのだろう。
「さっ、終わりましたら続いてはドレスですわ!」
助けを求めるような侍女たちの視線を受けて、アイリーシャが前に出て言った。皆ほっとすると、一人の侍女が「手紙を文官へ渡してまいります」と言い、退出していく。
「早速ご移動ください、エレスティア様」
公式の場以外では、アイリーシャは引き続き名前で呼んでくれていた。エレスティアも嬉しくなって立ち上がる。
「そうですね。ピィちゃんのこと、見てくださっていてありがとうございます」
「ふふ、いいえ。お菓子をあげていれば、ひとまず大事な書面に悪戯をしてしまうことがないとわかったのは大きな一歩ですわ」
「心獣なのにまるで猫のしつけのようですね」
アインスが、アイリーシャがエレスティアへ両手で差し出したピィちゃん――ではなくアイリーシャの横顔へ目を向ける。
「つきっきりではないとわからないことですよね」
「あら、何が言いたいのかしら」
爽やかな笑顔を貼りつけたアイリーシャが振り返り、彼女とアインスの視線がぶつかった。その瞬間、そばに控えていた侍女たちの笑顔がこわばり、緊張した空気を漂わせる。
「訓練指導役の身で、でしゃばらないでくださいませんかね。正直私は迷惑しています」
アインスがきっぱりと告げた。
あからさまにその細められた目も口調も刺がある。皇妃の執務終了を受け、外から扉を開けた騎士たちも固まっている。
「あら、わたくしもほぼ護衛騎士みたいなものですわ」
「開き直らないでくださいませんかね。後宮にも出入りされて、迷惑です」
アインスのこめかみに青筋が小さく浮かぶものの、アイリーシャはまったく相手にせず、かえって胸元の金色のバッジを見せつけた。
「皇帝陛下から許可は得ていますもの」
アイリーシャは先日の鳳凰化の特訓指導を経て、ジルヴェストの許しを得、護衛騎士とほぼ同じ権限で皇妃のもとへ自由に出入りができるようになった。
彼女は時間があれば後宮に立ち寄り、短い休憩のお茶の相手もしてくれている。
こうして今いるのも、実はまったく予定にない行動だ。
「その日程表、わたくしにも共有してくださいな」
「嫌です」
「わたくしの方がスケジュール管理は完璧ですわ! 一部、軍事関連のことで父と共に皇帝陛下と仕事をしていますし」
「その優秀さは存じ上げておりますが、エレスティア様がおかわいそうなので」
「どういう意味ですの!?」
やはり二人は仲が悪いのではと、侍女たちが小さく言葉を交わす。
アイリーシャは、とにかく気が強い。
先日後宮に突撃してきた際に、皇帝から与えられた特注のバッジを、わざわざ喧嘩を吹っかけるみたいに堂々とアインスへ見せつけていた。
『ほーっほほほ! ほぼ護衛騎士みたいなものですわ!』
『そんな、ない胸を突き出して主張されても効果ありませんが』
なんてアインスも珍しく文句を交え言い返していた。
後宮にいる皇妃つきの侍女たちも、二人の仲の悪さを少し心配していた。宮殿内でもしきりにそう噂されているとか。
だが、たぶん仲は悪くないとエレスティアは思うのだ。
ピィちゃんの鳳凰化の成功も、二人のコンビネーションのおかげだ。
二人が皇妃である自分を引き続き『エレスティア様』と呼び、手を差し述べてくれることにも救われている。
「ふふ、ひとまずは移動しましょうか」
エレスティアはピィちゃんを肩にのせ、二人の間に割って入る。それぞれの手を取って誘ったら、二人は面白いくらいおとなしくなった。
「……エレスティア様、私は男ですのでそうされるのはどうかと」
「わたくしは嬉しいのですが、その、心の準備が」
まるで乙女のように恥じらい、アイリーシャが発言する。アインスがそう言った彼女へ『あ?』と言いたげな顔を向けていた。
また喧嘩になったら他の者たちを困らせることは予測できる。
「私、アイリーシャ様がいてくださって助かっていますよ。ありがとうございます」
ひとまずエレスティアは二人を執務室の外へと導きながら、アインスの視線をアイリーシャから引き離すつもりで彼女に話を振った。後ろから侍女たちも続く。
「正面からお礼を言われるのはこそばゆいですが……ええっ、わたくしだってあきらめていませんとも! わたくしは野心があるのです。これで満足はしません。目指すは、貴族初の女性専属護衛騎士です!」
「え」
それはどうだろう、と思ってエレスティアは相槌に窮する。
先日、彼女の父であるロックハルツ伯爵とはジルヴェストの執務室で会った。
『あの子が一人の女性として嫁ぐことが願いですが……、先日もドレスより剣を欲しがられまして……頭が痛い……』
そう彼が漏らし、居合わせた他の将軍たちが同情して励ましていたのを見た。
「ロックハルツ伯爵のお力を借りるのは、やめていただきましょうか」
アインスがすばやく言った。
「あら。わたくし、使えるものは使いますわ」
まさか本気で、虎視眈々と女性護衛騎士の計画が進められているのだろうか。
そのやり取りを聞いてエレスティアは心配になった。その肩でピィちゃんがのんきに「ぴぃっ」と楽しそうに鳴いた。