0.0001%の恋
営業部

橘亜子

 仕事を終えた私は日本橋にあるオフィスビルを出て駅に向かって歩いていた。

 時刻は8時半。早くもないが遅くもないこの時間、街はすっかり夜の顔へと様変わりし、平日とはいえそれなりの賑わいをみせている。

 仕事終わりに一杯飲んで行こうと店を物色している人々を横目に見ながら、私は家に帰るためまっすぐ駅を目指す。

 ちょっと大人の雰囲気を味わいたくて1人でバーに通ったりしてみた時期もあったし、恋人が欲しくて意欲的に出会いを求めた時期もあったが、今は仕事の方が楽しいと感じていた。そんな時間があるなら仕事に役立つ資格の勉強でもしていた方がいい‥‥

 橘亜子(たちばなあこ)、28歳。

 そんな『仕事ができるいい女風の私』‥‥は仮の姿。仕事は確かに楽しいが、その主な理由はある男性にある。

 田中光希(たなかみつき)

 『株式会社コクーンシステムズ』というIT系のコンサルタント会社を経営している田中さんは、2ヶ月前からわが社のDXに関わる仕事をサポートしてくれている人物だ。

 35歳で独身。嘘か本当か、現在恋人もいないらしい‥‥というところまでは情報収集を終えているが、それ以上は何も出てこない。

 まだ20代といっても通用しそうな程キラキラしい田中さんは、それでもやはり35歳。ふと大人の男の色気を出してくるから堪らない。絶対に現在進行形でもてているはずだ。私が田中さんにメロメロなのがいい証拠だろう。

 つまり何が言いたいのか‥‥田中さんのスペックがあまりにも高過ぎて、私なんかじゃ手も足も出せないのである。

 プロジェクトが立ち上がって最初のキックオフミーティングの後、主要メンバーを集めて飲みの席が用意されていた。人数は多かったが、外部の人間である田中さんの脇には、部長の指示で女性の私が接待役として配置されたのだ。

 時代錯誤もいいところだが、昔ながらの製造業であるうちの会社には、根強くそういう雰囲気が残っているのだからしょうがない。ていうか、私的には最高の配置だ。女性の私が喜んでいるから、コンプライアンス的には多分セーフだろう。

 ‥‥で、だ。

 神席を手に入れた私がグイグイいけたかといえば、もう全然無理だった。自分でもビックリする程、何もできなかった。一生懸命お酌はしたし、サラダも取り分けたよ。でもそれだけ。

 田中さんから年齢や恋人の有無等の情報を引き出してくれたのは、件のセクハラ部長。本当にいつか懲戒処分されるから気を付けた方がいいとは思うが、この時ばかりは陰ながら部長を応援せざるを得なかった。

 だが、セクハラ部長より田中さんの方が数枚上手だった。酔った部長が繰り出すプライベートに関する質問の数々をのらりくらりとかわすその手管たるや、私なんかが太刀打ちできるはずもなく‥‥

 戦わずして私の負けが確定した瞬間だった。
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