幸薄い少女は、常世の君にこころゆくまで焦がされる
お風呂
咲良が入浴を許されているのは、宮野家の者が全員入ったあとの一番最後だ。
毎日入れるわけでもなく、タイミングを逃してしまうこともよくあった。
原因はほぼレイコだ。
彼女が深夜まで長風呂してるせいで咲良が入る時間がなくなることはしょっちゅうだ。咲良が入ってないことを知ってるはずなのに、意地悪して風呂の湯が抜かれることも頻繁にあった。
咲良が風呂場に行くと、入れ違いで出てきたのは継母だった。彼女は何か言いたげに咲良の顔を見てから通り過ぎた。
嫌味の一つでも言われるのかと思ったが、とくに何もなく、ということもやはりありえなかった。
背中に継母の冷たい言葉が突き刺さる。
「あんた、高校出たらどうするんだい」
「え、いや……別に」
「ふーん、まあなんでもいいけど、身の振り方は考えておくんだね。高校出たら大人なんだから、独り立ちだよ」
宮野家の者は咲良の将来のことなど知る由もない。高校を卒業したら咲良は家から出ていくことになっていた。
咲良としてもそれは願ったりなのだが、とくに行く当てはない。
それが咲良の運命だった。
大学入学費用などは出してもらえるわけもなく、就職をするしかないが別にやりたいこともない。どこか遠く離れた町、咲良のことを知る者など誰もいない場所へ行きたいと、漠然と思い描くだけだった。
風呂から上がった咲良は、お風呂のお湯を洗面器に入れて蔵へと運んだ。大胆な行動だが、風呂のある離れから蔵までは一番近く、母屋からは見えないため見つかる心配は少ない。
ふと話し声がして、中庭を見ると人影が見えた。レイコだった。携帯で電話をしながら門の方へ歩いている。どこかへ出かけるみたいだ。こんな夜中にどこへいくんだろう。宮野家では夜の外出は禁止されているはずだが。継母も知らないのだろうか。
気になったが今は琥珀のことで頭がいっぱいだった。
「琥珀さん、お風呂は無理だから、これで」
咲良はタオルをお湯につけてしぼった。
「ちょっとごめんね」
琥珀のそばにひざまづき、帯を緩めようとした。その時──。
「待て、咲良。何をする!?」
慌てて咲良の手首をつかんでくる琥珀にびっくりして、タオルを落としてしまう。手を引こうとしても離してくれなかった。
「えと、身体を拭いてあげようかと」
「そ、そんなことは自分でやる!」
琥珀の顔はみるみる赤くなる。自分が何をしようとしていたのか理解して咲良も赤面してしまう。
「あ、ごめんなさい!」
慌てて琥珀から離れようとするが、彼は咲良の手を離そうとしない。どうしたのかと琥珀の顔をうかがうと、その透きとおった瞳に射貫かれる。
こうして琥珀と対面していると、あまりの距離の近さに咲良は動揺した。
女友達すらいない咲良は、男性と触れあったことなどもちろんない。手首をずっとつかまれたまま、男と至近距離にいる。自分の置かれている状況を冷静に考えると心が騒がしくなってきた。
「髪を洗ったのか。いい香りだな」
琥珀は匂いをたしかめるように瞼をゆっくりと閉じる。自分の身体に関心を持たれているのだと理解して、咲良の視線は宙を泳ぐ。
「咲良の髪は、とても美しいな」
琥珀はもう片方の手を咲良の髪に伸ばしてくる。しかし、途中で手を止めた。
「触っても、いいか」
手首をつかまれている状況では逃げることもできないためこの確認は不要のはずだが、気づかってくれたのだと思った。
咲良は無言で頭を少しかたむけた。
「やはり綺麗だ」
さらさらと耳元で髪がなびく音に酔いしれた。美容院に行ったこともなく、咲良はずっとセルフカットしていたため、誰かに髪を触られる経験などなかった。
琥珀の髪の毛も間近で見るとすごく綺麗だ。光沢のある黒い猫っ毛は思わず撫でたくなる。
彼の黄色い瞳は見る角度によって異なる輝きを放っている。咲良が自分を見ていることに気が付いて、その目が大きく見開かれていく。
「どうした」
琥珀の顔に見とれていたところに声をかけられて、自分がどんな顔をしていたのか考えて咲良はあわてふためいた。
「な、なんでも、ない」
「照れてるのか?」
「照れてないよ!」
「ふふ、可愛いやつめ」
可愛いだなんて、琥珀の艶っぽい声でそんな冗談を言われては、咲良はドギマギしてしまう。すると、彼は咲良に触れていた両手をふいにひっこめた。
「ふ、これ以上咲良に触れていると、気がおかしくなってしまいそうだ」
それは咲良も同じ気分だった。しかし、正直なところ彼の体温が名残惜しくもあった。
琥珀はタオルを拾うと自分の身体を拭き始めた。
「むこう向いてていいぞ」
咲良は言われた通り、琥珀に背を向けた。