幸薄い少女は、常世の君にこころゆくまで焦がされる
月夜
「少し、外の空気が吸いたいな」
食事が終わって一息ついていると、琥珀がぽろりとそうこぼした。ずっと蔵の中にいるから息が詰まるのも無理はない。
「そっか。気づかなくてごめん」
蔵の二階部分には一応彩光用の窓がある。室内は灯りがつくため、開けることはめったになかった。夜だと虫が入ってきたりするからだ。
窓といってもガラスではなく木でできた格子がはまっているだけなので目の粗い網戸のようなものだ。
咲良は漆喰で塗り固められた観音開きの分厚い扉を両手で開いた。
「外に聞こえるといけないから、小さい声でしゃべってね」
「ああ」
窓を開けると、夜風が顔にあたり気持ちよかった。
「虫入ってくるから電気消すね」
真っ暗な部屋に月明りが差し込み、二人の顔を照らしていた。
「今夜は月が出ているのか。久しぶりに見たいな」
今は十時を少しまわったところ、使用人たちも帰ってるころだ。残ってるのは住み込みの原田だけだろう。誰かに見つかる心配は少なそうだ。
「琥珀さん、ちょっと外に出てみる?」
咲良の問いかけに、琥珀は最高の笑顔をみせる。そういえば名前を呼び捨てで呼んでほしいと言われていたのに結局呼べていなかった。
「咲良、見ろ。今夜は月がよく出てる」
「わあぁ!」
「現世の月も麗しいな」
屋敷の庭に人影がいないことを確認してから、二人で外へ出た。今宵は満月ではないが、母屋の屋根にかかる月明りがほんのりと闇夜を照らしている。
「咲良、あれは何の木だ」
琥珀は宮野家の庭にある一本の大きな木を指差した。
「あっ」と思わず声が漏れる。
「あれは、桜の木です」
「おお、あれが、桜か! 聞いたことがある。現世には春になると咲く退紅色の花があると」
「常世には桜はないのですか?」
「そうなのだ。そうかそうか、あれが桜か。咲良と同じ名前の花だ。きっと綺麗なんだろうな。いつか見てみたいものだ」
「はい……」
咲良はそっと返事をした。
「咲良、あの屋根の上にいかないか? 眺めがよさそうだ」
琥珀は蔵の屋根を指差した。たしかに二階建ての蔵の屋根に登れば月夜をいっそう楽しめそうではある。
「え? うん。でもあそこは登れな──」
琥珀は咲良のそばによると、両手で体を抱え込んだ。そして、涼しい顔で軽々と咲良の身体を持ち上げたのだ。
いわゆるお姫様抱っこの状態になり、目の前にいきなり琥珀の美しい顔がせまる。咲良はどうしていいかわからず、思わず両手で自分の顔を覆った。
「少し、揺れるぞ」
琥珀は艶のある表情でそう告げると、「はっ」と小さく声を上げ、空高く跳躍した。
一瞬の出来事に呼吸をするのを忘れた。気が付くと二人は蔵の屋根の上に立っていた。
ゆっくりと咲良を屋根に下ろす琥珀。
屋根に飛び移るなんて、いったいなにをどうやったのか、わからないがあやかしの不思議な力によるものなのだろう。
「琥珀さんてやっぱり、あやかしなんだね」
口にした後で、咲良はハッとした。今の言い方ではなんだか琥珀を化け物のように思っているようにも聞こえてしまう。
案の定、琥珀は視線を落として頬をゆがめていた。
「ご、ごめん! 変な意味じゃなくて、すごいなって思っただけなの! 私けっこう重いはずなのに軽々と飛んでたから」
「わかっている。そんなことより見ろ、咲良。月がわずかに近くなったぞ」
「わあぁ……」
思わず声が漏れる。
二階建ての屋根の上。そこからの景色は見たこともないものだった。
周囲の田園や山々が、月明りに照らされて濃い緑色に映し出されている。いつも自分が暮らしている場所がまるで違う世界のように見える。
「なかなか自然の多い場所じゃないか。いい眺めだな、咲良」
「うん、でも常世も綺麗なところなんだろうね」
「そうだな。常世は現世よりも自然が豊富だ。しかし、現世もなかなかのものだ。まあ、これほどまでに幻想的に見えるのは──」
琥珀はそこで言葉を切った。
「咲良が隣にいるからだろうな」
面と向かってそんなことを言われては、ついついてうつむいてしまう。本当はもっと顔を見ていたいのに。
「咲良、俺のこと、琥珀って呼んでみせてくれないか?」
「──!」
突然の琥珀の提案に咲良は戸惑った。男の人の名前を呼び捨てなんて、やはりむずがゆくなってしまう。
「ダメか……?」
ダメなもんか、と咲良は首をぶんぶんと横に振るが、いざ言おうとすると少し勇気がいることでもある。
咲良は意を決して口にしてみた。
「こ、こはく……琥珀!」
「ふふ、ありがとう。なんだか咲良の特別になれた気がして、うれしいぞ」
特別──。
誰かの特別なんて考えたこともなかった。自分の生まれ育った環境がそれを許さなかったし、自分の人生には縁のないことだとあきらめていた。
でも琥珀は咲良のことを特別だと言ってくれた。それにあやかしの一族の長であるはずの彼は、ただの人間の小娘でしかない咲良を対等に扱ってくれる。
だからこそ咲良もそれに対して真摯に応じなければいけないと思った。あやかしだからと変に気を使うことが、逆に琥珀を傷つけてしまってないだろうかと、その夜咲良は自問自答した。