【第一部・完結】七龍国物語〜冷涼な青龍さまも嫁御寮には甘く情熱的〜
部屋の文机に必要な道具を用意した海音は、あらかじめ袖が邪魔にならないようにたすき掛けをすると、座布団の上で正座をして背筋を真っ直ぐに伸ばす。これも普段蛍流が書いている姿を、なんとなく横目で見て覚えたものだ。
綺麗な文字を書くには姿勢から。次いで自分にとって書きやすい道具の選択。この辺りは元の世界でも聞いたことがある。
そして肝心なのは筆の持ち方。書道の授業で習った時は、筆を立てるように持って、肘を上げることだと教えられた覚えがある。実際に蛍流もこの二つを守っていた。その時の蛍流の様子を思い出しつつ、海音も同じように筆を持ち直して肘を上げる。
黒々とした墨汁に白い筆先を浸すと、小学生の書道の時間を思い出しながら、試しに「青」と大きく一文字だけ書いてみる。しかし――。
「あれっ? 上の方が潰れちゃった……」
横線が並ぶ「青」の文字のうち、上部に当たる三本の横線が太くなったからか、隙間が無くなって見栄えが悪くなってしまう。海音が書いた横線から滲んだ墨が下に引いた線と重なってしまったというのもあるだろう。どことなく三本の線がくっついてしまったように見える。
「今度こそ!」
そう息巻いて同じように「青」の文字を書いたものの、やはり最初に書いた文字と似たり寄ったりになってしまう。
そもそも蛍流が書く文字は、墨汁が滲んでいない。海音の書き方が悪いのか、それとも筆の使い方に問題があるのか。
そこで今度はもっと初歩的なところで、平仮名の「の」の文字を書くことにする。平仮名なら中心からバランスが取りやすいだろうと考えてのことだ。特に「の」の一文字については、一筆書きが出来るという点も書道の練習としてお誂え向き。
新しい紙を真ん中から半分に折って中心線を作ると、また墨汁を付けて筆を持ち直す。
「流石に平仮名ぐらいは綺麗に書けるでしょう」
せめて蛍流と同じとまではいかなくても、匹敵するような平仮名を書きたい。そんなことを考えつつ、海音は筆を走らせる。
それからしばらくは無心になって書いていたが、やがて硯に筆を置くと天井を仰いでしまう。
「ダメだ~! なんで! どうして!? 普段書き慣れている平仮名でさえ、こんなに汚いの!?」
文机の傍らには大量に重ねられた「の」の一文字だけが大きく書かれた紙の束。それも文字が滲んで歪んだものばかり。左右でアンバランスなのも気になる。両手で頭を押さえながら、海音は仰向けに倒れたのだった。
(こんなことで、この世界でやっていけるのかな……)
すっかり自信を喪失して、畳の上に寝そべって天井の木目を見ていると、不意に襖の前で足音が止まる。
「海音? 奇声なんて上げて、どうした?」
「えっ!? 蛍流さんっ!?」
行儀が悪いと思いつつも目線だけを襖に向ければ、顔を覗かせた蛍流と目が合う。しかしその瞬間、どこか気まずそうに顔を逸らされてしまう。
頬を赤く染める蛍流を不思議に思いつつ、身体を起こしながら自分の身体を見下ろすと、着物の裾が捲れて足袋を履いた素足が丸見えになっていたのだった。
「す、すみません。はしたない格好で……っ!」
「いっ、いや。おれも勝手に覗いたから……!」
お互いに消え入りそうな声で謝ったものの、海音は今にも顔から火が出そうであった。裾と帯を調整して乱れた着物を整えていると、落ちていた紙を拾い上げた蛍流に「これは?」と尋ねられる。
「なにやら、個性的な筆致で『青』の一文字が書かれているようだが……」
「……それは私が練習用に書いた文字です。他にやることが無くなって時間が余ったので、書き取りの練習でもしようかと思いまして……。蛍流さんこそ、話し合いは終ったんですか?」
「先程、話が終わって、玄関口まで送ってきたところだ。着替えに戻る途中でお前の大声が聞こえて来たので、様子を見に立ち寄った」
「ところで、いつの間にか洋装に着替えたんですね。さっきまでは和装でしたよね」
いつ着替えたのか、今の蛍流は以前にも見かけた洋装姿だった。汚れの一つも無い白いドレスシャツの肩には、濃紺色の羽織まで掛けている。炊事場で下準備をしていた時はいつもの和装だったので、来客が来た際に着替えたのだろうか。
「ああ。来客の応対をする時は、なるべく洋服に召し変えるようにしている。普段の恰好でもいいと思うが、寛ぐ時と同じ服装だとなかなか気が引き締まらなくてな」
「洋装は仕事着ってことですか。着替えることで気持ちを切り替えられるなんて、真面目ですね……」
「建て前上はな。本当はたまに洋装を着ないと、着方を忘れてしまうだけだ。一度、着物に慣れてしまうと、細かい装飾品の多い洋装が面倒になってしまった。お前とは逆だな」
「そうでしょうか。私も着物生活に慣れてきたので、洋服の着方を忘れてしまいそうです……」
この世界に来てからというもの、毎日着物を着て生活を送っていたからか、すっかり着物生活に慣れて、着付けのスピードも早くなった。歩き方や座り方はまだぎこちないものの、この世界に来たばかりの頃に比べたら、大分こなれてきた気さえする。
この世界に来た時に着ていたワンピースや靴などの洋服類は、嫁入り道具と一緒に持ち逃げされてしまった。唯一懐に入れていたスマートフォンと財布だけは手元に残ったが、この世界ではどちらも使い道が無いので、今は文机の引き出しに入れて保管をしている。
「それなら、今度雲嵐殿に婦人向けの洋服を手に入れられるか尋ねてみよう。それで手習いをしていて、何故奇声を上げることになるのだ?」
「うるさくしてすみません。どうしても文字が綺麗に書けなくて……。漢字だけじゃなくて、平仮名まで下手な自分にうんざりしたところです」
「下手? 他のも見せてみろ」
文机に重ねていた「の」の一文字が大きく書かれた紙の束を渡せば、「なるほどなあ……」と苦笑されてしまう。
綺麗な文字を書くには姿勢から。次いで自分にとって書きやすい道具の選択。この辺りは元の世界でも聞いたことがある。
そして肝心なのは筆の持ち方。書道の授業で習った時は、筆を立てるように持って、肘を上げることだと教えられた覚えがある。実際に蛍流もこの二つを守っていた。その時の蛍流の様子を思い出しつつ、海音も同じように筆を持ち直して肘を上げる。
黒々とした墨汁に白い筆先を浸すと、小学生の書道の時間を思い出しながら、試しに「青」と大きく一文字だけ書いてみる。しかし――。
「あれっ? 上の方が潰れちゃった……」
横線が並ぶ「青」の文字のうち、上部に当たる三本の横線が太くなったからか、隙間が無くなって見栄えが悪くなってしまう。海音が書いた横線から滲んだ墨が下に引いた線と重なってしまったというのもあるだろう。どことなく三本の線がくっついてしまったように見える。
「今度こそ!」
そう息巻いて同じように「青」の文字を書いたものの、やはり最初に書いた文字と似たり寄ったりになってしまう。
そもそも蛍流が書く文字は、墨汁が滲んでいない。海音の書き方が悪いのか、それとも筆の使い方に問題があるのか。
そこで今度はもっと初歩的なところで、平仮名の「の」の文字を書くことにする。平仮名なら中心からバランスが取りやすいだろうと考えてのことだ。特に「の」の一文字については、一筆書きが出来るという点も書道の練習としてお誂え向き。
新しい紙を真ん中から半分に折って中心線を作ると、また墨汁を付けて筆を持ち直す。
「流石に平仮名ぐらいは綺麗に書けるでしょう」
せめて蛍流と同じとまではいかなくても、匹敵するような平仮名を書きたい。そんなことを考えつつ、海音は筆を走らせる。
それからしばらくは無心になって書いていたが、やがて硯に筆を置くと天井を仰いでしまう。
「ダメだ~! なんで! どうして!? 普段書き慣れている平仮名でさえ、こんなに汚いの!?」
文机の傍らには大量に重ねられた「の」の一文字だけが大きく書かれた紙の束。それも文字が滲んで歪んだものばかり。左右でアンバランスなのも気になる。両手で頭を押さえながら、海音は仰向けに倒れたのだった。
(こんなことで、この世界でやっていけるのかな……)
すっかり自信を喪失して、畳の上に寝そべって天井の木目を見ていると、不意に襖の前で足音が止まる。
「海音? 奇声なんて上げて、どうした?」
「えっ!? 蛍流さんっ!?」
行儀が悪いと思いつつも目線だけを襖に向ければ、顔を覗かせた蛍流と目が合う。しかしその瞬間、どこか気まずそうに顔を逸らされてしまう。
頬を赤く染める蛍流を不思議に思いつつ、身体を起こしながら自分の身体を見下ろすと、着物の裾が捲れて足袋を履いた素足が丸見えになっていたのだった。
「す、すみません。はしたない格好で……っ!」
「いっ、いや。おれも勝手に覗いたから……!」
お互いに消え入りそうな声で謝ったものの、海音は今にも顔から火が出そうであった。裾と帯を調整して乱れた着物を整えていると、落ちていた紙を拾い上げた蛍流に「これは?」と尋ねられる。
「なにやら、個性的な筆致で『青』の一文字が書かれているようだが……」
「……それは私が練習用に書いた文字です。他にやることが無くなって時間が余ったので、書き取りの練習でもしようかと思いまして……。蛍流さんこそ、話し合いは終ったんですか?」
「先程、話が終わって、玄関口まで送ってきたところだ。着替えに戻る途中でお前の大声が聞こえて来たので、様子を見に立ち寄った」
「ところで、いつの間にか洋装に着替えたんですね。さっきまでは和装でしたよね」
いつ着替えたのか、今の蛍流は以前にも見かけた洋装姿だった。汚れの一つも無い白いドレスシャツの肩には、濃紺色の羽織まで掛けている。炊事場で下準備をしていた時はいつもの和装だったので、来客が来た際に着替えたのだろうか。
「ああ。来客の応対をする時は、なるべく洋服に召し変えるようにしている。普段の恰好でもいいと思うが、寛ぐ時と同じ服装だとなかなか気が引き締まらなくてな」
「洋装は仕事着ってことですか。着替えることで気持ちを切り替えられるなんて、真面目ですね……」
「建て前上はな。本当はたまに洋装を着ないと、着方を忘れてしまうだけだ。一度、着物に慣れてしまうと、細かい装飾品の多い洋装が面倒になってしまった。お前とは逆だな」
「そうでしょうか。私も着物生活に慣れてきたので、洋服の着方を忘れてしまいそうです……」
この世界に来てからというもの、毎日着物を着て生活を送っていたからか、すっかり着物生活に慣れて、着付けのスピードも早くなった。歩き方や座り方はまだぎこちないものの、この世界に来たばかりの頃に比べたら、大分こなれてきた気さえする。
この世界に来た時に着ていたワンピースや靴などの洋服類は、嫁入り道具と一緒に持ち逃げされてしまった。唯一懐に入れていたスマートフォンと財布だけは手元に残ったが、この世界ではどちらも使い道が無いので、今は文机の引き出しに入れて保管をしている。
「それなら、今度雲嵐殿に婦人向けの洋服を手に入れられるか尋ねてみよう。それで手習いをしていて、何故奇声を上げることになるのだ?」
「うるさくしてすみません。どうしても文字が綺麗に書けなくて……。漢字だけじゃなくて、平仮名まで下手な自分にうんざりしたところです」
「下手? 他のも見せてみろ」
文机に重ねていた「の」の一文字が大きく書かれた紙の束を渡せば、「なるほどなあ……」と苦笑されてしまう。