七龍国物語〜冷涼な青龍さまも嫁御寮には甘く情熱的〜
「きゃあ!!」

 身体が宙に浮いて、土埃と水飛沫が目に入る。そんな海音を蛍流が引き寄せ、腰に腕を回して庇ってくれる。

「くっ……!!」
「……っ!!」

 目を開けたくても、舞い散る砂や水で反射的に瞑ってしまう。掌と身体を通して伝わる蛍流の体温だけが海音を導き、恐怖を和らげてくれた。
 風音にかき消されないように、蛍流が大声で疾呼する。

「どうしてっ! こんな無茶をした……っ! あの時、おれを置いて逃げていれば、お前だけでも助かったかもしれないのにっ!!」
「決めたからです。この先、何が起こったとしても、もう蛍流さんから離れないって……っ!!」

 吹きすさぶ烈風に乗ってパラパラと細かい土や木の葉が落ちてくる中、海音は空いている腕を蛍流の腰に回す。このまま激流に落ちたとしても二度と離れ離れにならないように、この先に待ち受けるいかなる運命をも共に出来るように。
 そんな海音を守るように腕の中に閉じ込めた蛍流は、自ら迫る大地に背を向けると天に向かって叫んだのだった。
 
「頼む、青龍! おれはどうなってもいい! でも海音だけはっ……彼女だけでも救ってくれっ!!」

 はち切れんばかりに声を荒げた蛍流の切望が耳を打つ。蛍流の手を握る手に力を込めた瞬間、海音の中に在りし日の思い出が洪水のように溢れて蘇る。

 残された命の刻限を報せるように一定の間隔で鳴り続ける心電図、無機質な暗い病院内を忙しなく行き来する足音、担当医と連絡を取る看護師の緊迫した声と母の名を呼ぶ父の涙声。
 耳を塞いでも頭の中では不気味な電子音が鳴り止まない。父が買ってくれた自動販売機のジュースはほとんど味がせず、返しそびれたお釣りの十円玉だけがポケットの中で妙に存在感を示していた。
 どこに行っても身体に纏わりついた恐怖は取れず、ともすれば死神が耳元で囁いているような気さえしてくる。
 今夜、お前の母を連れて行く、と――。
 気が付いた時には病院から飛び出していた。いくら走っても一度総毛立った心は落ち着かない。息継ぎさえ出来なくなって、やがて道端に蹲って咳き込む。
 ボロボロと零れた涙が渇いたアスファルトに吸い込まれて、やがて海音は籠もり声を上げながら泣き出す。「お母さん」と――。
 そのまま蹲っているわけにもいかず、とぼとぼと啜り泣きながら歩き出した海音の背に、どこか戸惑い気味の優しい白声が掛けられる。
 
 ――きみ、どうして泣いているの? 迷子?
 
 右目下の小さな泣き黒子が印象的な可愛らしい顔立ちをした身なりの良い同年代の男の子は、涙で濡れる海音の手を取ると先導するように先を歩き出す。その頼りがいのある背中と温かな掌に安堵を覚えて再び泣きじゃくっていると、やがて古びた神社に辿り着く。
 母の無事を願って男の子と一緒にポケットの十年玉を賽銭箱に入れた後、しばらく呆けてしまったのか気付いた時にはどこかの民家の玄関先に座っていた。
 
 ――ねぇ、落ち着いた? もう怖くない?
 
 その声で隣を向けば、男の子は柔和な笑みを浮かべていた。海音がぎこちないながらも小さく頷けば、男の子は「良かった」と詰めていた息を吐き出したのだった。
 
 ――もうすぐ、ぼくのおうちの人が迎えに来てくれるから。そうしたらお母さんが入院している病院に帰れるからね。
 
 病院、という単語にまたしても言い知れない恐ろしさが内側からせり上がってくる。胃が石のように固く感じられて、嫌な汗が止まらない。
 目前に迫る大好きな母との別れを受け入れたくなかった。もっと母と同じ時間を過ごしたかった。これまでと同じようにこれからも――。
 急に海音が黙ってしまったからか、男の子は握っている手を包んでくれる。「大丈夫だよ」と不安がる海音の気持ちを察したのか、敢えて明るい調子で話し出す。
 
 ――だって、神様にお願いしたもん。きみのお母さんが元気になりますようにって、ぼくも一緒に。神様はきっと叶えてくれるよ。

 海音が「そうかな……?」と自信なさげに返せば、男の子は大きく頷いてくれる。

 ――清水が……ぼくの家族が言っていたんだけどね。神様は良い子にしている人間の願い事から叶えてくれるんだって。お母さんのために、神様にお願いしたきみの願い事を神様は叶えてくれるよ。だからさ、笑ってよ。お母さんにそんな悲しい顔を見せたらだめだよ。そんな顔をしていたら、お母さんも元気になれないよ。
 
 男の子に言われて顔を上げたものの、どんな顔で笑っていたのか思い出せなくなっていた。つい数時間前まで学校で友達と他愛のない話で笑っていたはずだったのに。
 それでも海音が笑うのを今か今かと待ち侘びている男の子に、固まった口元を動かして歪な笑顔を作ってみせたものの、「なんかちがうような気がする……」と残念そうに肩を落とされてしまう。

 ――今日はたくさん泣いたから難しいかもしれないけど、でも明日か明後日になったらきっとまた笑えるよね。毎日泣いていたら、きみが流した涙の海でみんな沈んじゃうよ。

 もしかしたら笑わせるつもりで泣き続ける海音のことを涙の海と例えたのかもしれないが、意味を理解しかねた海音がきょとんとして首を傾げてしまうと男の子は苦笑してしまう。恥ずかしそうに頬を赤くして頭を掻いた後、やがて左手の小指を立てて海音に向けてきたのだった。

 ――約束だよ。今日はたくさん悲しいことで泣いたから、明日は今日泣いたことを忘れるくらいに楽しいことでたくさん笑うって。明日はムリでも、明後日や明々後日、何日、何週間、何か月後には笑おうね。ぼくね、きみが笑っているところを見たいんだ。だってぼくはきみが泣いている顔しか知らないから。

 思い返せば、男の子に声を掛けられた時には、海音はすでに泣いていた。男の子に手を引かれて歩いている時も、そして今もまた泣きそうになっている。
 この男の子は見ず知らずの海音にこんなにも優しくしてくれたというのに、海音はめそめそ泣いてばかりで病院への帰り道を探すことさえしていない。
 それなら男の子の頼みを約束することでお礼をしたい。今日は出来ないけれども笑えるようになったら、また会ってお礼を伝えられるように。
 海音は頷いて震える小指を差し出すと、やがて男の子の小指と絡める。

 ――これはぼくとの約束。今日たくさん泣いたら、明日はたくさん笑うって。そして……また会えますように。

 最後に再会を誓って声を揃えると、そうして誰もが知っている定番の約束の言葉を唱える。男の子が目を細めた拍子に右目下の黒子が動いて、ほんのりと頬が赤く染まったかと思うと、その笑みが今の蛍流と重なって胸の中に温かいものが広がっていく。
 どうして今まで気付かなかったのかと、疑いたくなってしまう。この時に交わした約束は、遠く世界を越えてこの山で再会した時に果たされていたというのに。
 やがて外から車のエンジン音が聞こえてくると、どちらともなく結んでいた小指を離したのだった――。


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