七龍国物語〜冷涼な青龍さまも嫁御寮には甘く情熱的〜
 そうして浅葱色の光が周囲を包み込み、耳をつんざく激しい咆哮が渓谷に反響する。身の毛がよだつような激痛を伴った声に縮み上がってしまうと、海音を庇うように蛍流が抱き締めてくれた。そんな浅葱色の光を浴びた蛍流の身体からは急速に鱗が消えていったが、対して海音の身体は鱗が増えていった。
 手足、背中、腹部、頬と身体の内側から殴られているかのように、全身がボコボコと痛む。歯を食いしばって痛みを堪えながら、無機質な鱗と化していく自分を嘆く。
 蛍流は形代として認められたが、自分は伴侶として認められなかったということだろうか。海音の覚悟が足りなかったのか、それとも一度でも不適合の烙印を押された人間を七龍は認容しないのか。

(でも、これでいいか……)

 蛍流と昌真は救われた。二人が愛するこの世界も。そして十年前に交わした少年との約束も――蛍流との約束も果たせた。海音は満ち足りた気持ちになる。
 膝から力が抜けて、繋いでいた掌もするりと滑り落ちる。目を閉じれば、亡き母親や元の世界に残してきた父親との思い出が蘇ってきた。
 母親の入院先でお世話になった看護師や学校の友人たち、この世界に来てから出会った人たちや昌真も。これが走馬灯と呼ばれるものだろうか。身体中が温もりに包まれる。
 海音と父親に看取られた母親も最期はこんな気持ちになったのだろうか。在りし日を回想しつつ、多幸感と満足感に包まれながら意識を手放したのか。とうとう夢現の中で蛍流の幻聴まで聞こえてくる。

(蛍流さん……)

 最後に蛍流の顔が浮かんでくると、自然と頬が緩んで笑みを形作る。遠くで耳心地の良い蛍流の迦陵頻伽の声が動揺と不安で震えていた。海音の身体を強く抱き締めながら、「海音! 海音っ!!」と今にも泣き出しそうになりながら早口で繰り返しているようだった。
 こんな顔をさせるために、最後まで蛍流と一緒にいると宣言したつもりじゃ無かったのに。声を出す気力も残っていなかった海音は心の中で謝罪を繰り返す。

(ごめんなさい。最期まで迷惑を掛けて……ごめんなさい……)

 視界が黒に染まっていき、自分の名前を繰り返す鶯舌がだんだん遠のいていく。母親が亡くなる直前に聞いたことがあった。命が閉じる瞬間、最期に残る五感は聴覚だと。
 身体が動かなくなり、声も出せなくなり、やがて何も見えなくなっても、音だけは聞こえている。
 だから最後に感謝の言葉を伝えて、残された時間を悔いの無いように過ごして欲しいと。感謝を伝えたいのは海音の方なのに、夢と同じように喉が張り付いてしまったのか全く動かない。
 それでも夢との大きな違いは、まだ辛うじて呼吸が出来るところだろう。それなら声を出せなくても、唇くらいは動かせるはず。蛍流が理解してくれるかは別として。
 そんなことを薄れていく意識の中で考えながら、海音がわずかに唇を開けた刹那、蛍流が自分の唇を海音の唇に押し当ててくる。人工呼吸をされているのか、海音の中で吐息が絡み合い、そして一つになる。
 蛍流が与えてくれる温もりが冷え切った海音の身体を包むように温め出したかと思うと、胸の奥深くでドクンと何かが脈打ち始める。

 ――生きたい。

 泡のように身体の奥底から湧き上がったその一言が静かに、そして激しく噴き出そうとする。

 ――蛍流さんと、生きたい。

 泡沫が数を増し、ブクブクと音を立てながら勢いを増していく。
 命に終わりを告げ、黄泉へと旅立とうとしていた海音に逆らうように、生への渇望が身体中を巡り出す。

 ――蛍流さんと生きたい……っ!

 その瞬間、海音の体内で何かが弾けたかと思うと、身体を蝕んでいた痛みが消えて、鱗の侵食も止まる。
 凍りついたかのように固まっていた身体が軽くなり、次いで手足にも力を入れられるようになる。重かったはずの瞼も開けられたのだった。
 何が起こったのか分からないまま、焦点の定まらない目で呆然と空を見つめていると、突然張り付いていた喉に大量の空気が入ってくる。
 息苦しくなった海音は蛍流を突き飛ばすと繰り返し咳き込んだのだった。

「海音っ! 良かった。間に合って……」
「ほたるさん……?」

 喉を押さえながら掠れ声で呟けば、蛍流が「良かった……」と呟きながら強く抱擁してくれる。

「おれの身体から流れてしまった余剰分の青龍の神気を吸い取ったのだ。神気に耐えられなくなったお前の身体が今にも砕けかけていたから……」
「じゃあ、私はまだ生きているんですね……」
「当然だ。おれたちは一蓮托生を誓い合った仲であり、お前は青龍であるおれの伴侶だ。お前以外が伴侶になることなど、あってたまるものか。天地がひっくり返っても認めん。それにおれはまだお前に伝えなければならない言葉があるというのに……」
「伝えたいことですか? いったい何を……」

 一度は海音を離した蛍流だったが、やがてどこか照れくさそうにしつつも海音の目をじっと見据えたまま顔を近づけてくる。両手で海音の頬を包みながら、内緒話をするように吐息が掛かる距離まで顔を寄せると、ゆっくりと言葉を紡いだのだった。

「これからは伴侶として共に生きて欲しい。久遠の愛をお前に捧げよう――愛している、海音」

 その言葉と共に再び海音の唇と蛍流の唇が重なる。今度は味わうように深く長く、愛し合う男女のように静かに熱く。
 そんな蛍流の艶やかな唇の感触に触れたことで、ようやく生きていることを実感した海音が身を委ねて目を閉じた瞬間、目からは一粒の涙が零れる。そんな二人を祝福するように一陣の光風が辺りを吹き荒び、その風に煽られた海音の身体から浅葱色の鱗がポロポロと剥がれだす。
 海音の身体から剥がれた鱗はやがて瑞花のような細かな粒子状の雪となって二藍山の彼方へと飛んでいき、この豪雨で溢れた川を沈め、荒れた大地に豊かな緑を芽吹かせる。
 そして鱗の下から現れた海音の肌は、雪を欺くような真っ白な色をしていたのだった。
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