数多の夏闇と一夜
第三章 【妖狐】 波浪

 放課後、稲荷社にいくことは頭にあった。
 しかし西弥生神社に立ち寄って、家に帰ると私はすぐにソファーで眠ってしまった。まだ建辰坊が戻ってきていないことに、私は小さく落胆していた。
 帰ってきた二人に稲荷社にいけなかったことを詫びた。しかし彼らは気にした様子はなかった。おそらく私を待つことはなかったのだろう。私がいなくても問題はないので、それはそうである。

 日が暮れるころ、凪砂は「走ってくる」と玄関をでていった。
 十分くらいで帰ってくるかと思ったが三十分ほど経って、ようやく帰ってきた。久しぶりに走ったら楽しくなり、やめ時がわからなかったらしい。
 凪砂がシャワーからでた後、すぐに夕飯になった。その時点で凪砂はかなり眠そうだった。夕食後、案の定凪砂はソファーで眠ってしまった。

「夜も稲荷社にいくんだよね? 大変そう?」
「大変じゃなさそうだよ」
 朔馬は一人でいく方が苦労はないだろう。
 しかし朔馬一人で妖怪の対応をさせるのは、なんとなく嫌だった。それはきっと、凪砂も同じ気持ちであるように思う。
 着いていってもいいかと尋ねると、朔馬は了承してくれた。

 この辺に稲荷神社があることは知っていたが、立ち入るのは初めてだった。
 しかしそんなことよりも、目に入った妖狐の姿に驚かされた。
白く透けた妖狐は、社殿を囲い込むようにして丸くなっている。この社殿は自分のものだと、そう主張しているようにみえる。
「こんな大きい妖怪、初めてみた」
 私は馬鹿みたいな感想を述べた。
「うん、思いのほか大きいな」
 朔馬は一の鳥居をくぐる前に足を止めたので、私もそれにならった。
「なにか、私にできることある?」
 朔馬は妖狐を見つめたまま「えっと」と、私を傷つけない言葉を探しているようだった。
「あれだけ身体が大きいと、攻撃範囲が分かりにくいから、この辺に身を守る呪陣をかいて、その中にいてくれる?」
 彼のいう通りにすると、朔馬は鳥居をくぐって社殿へと近づいていった。
 社殿で丸くなっていた妖狐は、朔馬に気づくと視線を向けた。
「人間か」
 妖狐は不愉快そうにいった。体が大きいせいか、その声は不思議な響きを持っていた。
「こんばんは」
「見鬼だな」
 妖狐はそういうと、パタリと尻尾で地面を打った。そこからはポコポコと、編み笠をした小さな黒い人型が現れた。
 朔馬は驚いた様子もなく、歩みを進めた。朔馬が近づくにつれ、人型は大きくなっていく。朔馬がさらに距離をつめると、それらは彼に襲い掛かっていった。
 朔馬は浅く腰を落とすと、両人差し指の第一関節を擦って抜刀した。右手にはうっすらと光る、白鞘の日本刀が現れる。何度みても不思議な現象である。それから朔馬は、とんでもない速さで黒い人型を斬っていった。
 それらを斬り終えると、朔馬は妖狐を見据えた。
 妖狐は威嚇するように鼻にシワを寄せた。
「無意味に殺したくない。襲ってくるな」
 朔馬はいった。
「大した自信だな。妖術を使う人間がまだいたとはな。何者だ?」
「ネノシマからきた。名は朔馬」
「ネノシマ? なるほどな。鵺がうろついているのも、お前の差し金か?」
「それはちがう。鵺がいるなら、すぐに捕獲する。どこかにいたのか?」
 妖狐は探るような目で、しばらく朔馬を見つめていた。
「鵺退治は、俺の任務だ」
 妖狐は力を抜くように、大きく息を吐いた。
「鵺は宇月山(うづきやま)にいた。ここで体を休めているのは、その鵺にやられたせいだ」
「ここで体を癒していたのか」
 妖狐は「そうだ」と不機嫌そうにいった。
 朔馬は右手に持っていた肢刀を消すと、妖狐に近づいた。
「どこをやられたんだ?」
「どこというわけでもない。かなり体力を持っていかれた」
「お前、日中は巻き物を依代にしてるよな? なぜだ?」
「もう一度鵺とやりあおうと思ってな。考えごとをしていた」
「でもその消耗の仕方だと、回復には時間がかかるだろ? 日中、巻き物に触れた時に妙な感覚があった。お前、鵺の毒を受けたんじゃないか?」
「だからこうして休んでいる。それくらいしかできぬ」
 妖狐は面倒くさそうに目を閉じて、眠る体勢になった。
 朔馬は私をふり返り、浅くうなずいた。もう危険はないと判断したらしい。
 私は呪陣を消して神社に踏み入れた。短期間に様々な人外と出会ったように思うが、それらの何を知るでもない。ただ鵺以上に危険な妖怪は日本にはいないことだけは、理解している。そのせいか大きな妖狐を前にしても、それほど恐怖は感じなかった。
 むしろ見ればみるほど、薄く透けた妖狐に触れてみたいと思った。しかし私が手を伸ばしたら朔馬は焦るだろうし、妖狐もさすがに怒るだろう。
「見鬼が二人か。なんの用なんだ?」
 妖狐は目を閉じたままいった。
 朔馬は、キツネに依頼されてここに来たことを素直に話した。
「そうか。迷惑をかけて悪いとは思うが、どうにもできない。理由は先ほどいった通りだ」
「ここ以外に、この辺に稲荷ってある?」
 朔馬は私にいった。
「この辺はわからないけど、雲岩寺(うんがんじ)のふもとには小さい稲荷があった気がする」
「あそこの稲荷はダメだ」
 妖狐はきっぱりといった。
「稲荷ならいいってわけでもないのか」
 相性とか、そういうこともあるのかもしれない。
「ここは正式な神使(しんし)は不在だ。狛犬もなくて丁度いい」
「狛犬と神使がいない神社を見つけてきたら、移動してくれると思っていいのか?」
 妖狐は片目を薄く開け、朔馬をみつめた。
「お前がいうなら、従うしかないだろうな」
 妖狐は冷静に、自分と朔馬の力量をはかっていたらしい。
「ありがとう。早めに対処する。それと昼間の依代の場所なんだけど、あそこでないといけない理由はあるのか?」
「それほどない。鵺はお前が退治するのだろ?」
「うん、その通りだ。とりあえず、ここを依代にできないか?」
 朔馬はポケットから人形(ひとがた)の和紙を出した。
「そんなこわれやすいものを依代にして、無事でいられる保障もないだろう」
「妖怪にとっては、石像よりも安全だよ。ここを依代にしてくれたら、一時的に社殿の中へ避難させるよ」
「そんなことができるなら、この稲荷から無理に移動しなくてもいいだろう?」
「さっきもいったように、ここのお供え物がないとこまる神とキツネたちがいるんだよ」
 妖狐はながく黙ったあと「いいだろう」といった。そして、するりと朔馬の持つ和紙へうつった。
 どうやって社殿の中へ避難させるのだろうと思ったが、朔馬は社殿正面の格子から、妖狐の入った和紙をねじ込んだ。
「たしかに社殿の中だけど、入れ方が想像とちがう」
「丈夫な紙だし、大丈夫だよ」
 そういうことをいいたいわけでもなかったが「じゃあいいか」という気になった。
「鵺は宇月山にいたっていってたな。宇月山って知ってる? 近い?」
「近いってほど近くはないかな。うちと雲岩寺の間くらい」
 私は宇月山のだいたいの位置を朔馬に説明した。
「これからいってみようかな」
「今から?」
「うん。鵺がいるかも知れないから、さすがに一人でいくよ」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ。妖狐みたいな妖怪がこれ以上増えたら申し訳ないし、鵺がその辺にいるなら、早く生け捕りにしたいんだ」
 今までは鵺を退治していたようであるが、今度は生け捕りにする必要があるらしい。私のしらないところで状況が変わったのだろう。
「でも妖狐のことは、どうしようかな。狛犬のいない神社を探してみるしかないか」
「幡兎(はたと)神社は? あそこは狛兎だし、朔馬が頼めば、兎国神(とこくのかみ)は検討してくれるんじゃない?」
 朔馬は考えもしなかったという顔で私をみた。
「そうか。聞いてみようかな」
「うん。ダメなら、また考えればいいよ」
 明日の放課後は、お供えをもって幡兎神社へいくことが決定した。
 家に着くと朔馬はロードバイクに乗り、颯爽と宇月山へ出掛けていった。少し前まで自転車に乗れなかったのが嘘のようである。

 翌朝、顔を合わせた朔馬はいつもと様子が違っていた。
 うっすらとキツネのような耳が生えている。
「なんかキツネっぽくなってるね?」
「妖狐の影響だよ。俺が妖狐の命を預かっているせいだと思う。想像以上に力のある妖狐だったのかもしれない。もしくは依代の扱いが雑だったから、怒ったのかな。扱いやすいように人形の依代に入ってもらったし」
 依代の扱いが雑だった自覚はあるらしい。



「で? 今はどうなの? 俺には分かんないんだけど」
 理玄は運転席で前方を見つめたままいった。
 格安で雇っているので、できるだけ送迎はしてやる。と理玄がいったのだった。
「妖狐を幡兎神社に移動したら、元に戻ったよ」
 兎国神は私たちのお願いを快く引き受けてくれたのだった。
「戻ってよかったよ」
 凪砂はしみじみいった。朔馬とは隣の席らしいので、気を揉んだのだろう。
「とにかく茶室の依頼は、無事に解決したってことでいいのか?」
「そうだね。でも妖狐の傷が癒えるまでは、できるだけ幡兎神社に顔を出すよ」
「依頼してきた妖怪からは、報酬もらえんの?」
「もらわないよ」
「朔馬は、理玄からも報酬もらわないだろ」
 凪砂はいった。
「そうだったな、バイト代は双子だけか。幡兎神社の神様って、どんな感じなの? というか、普通に神様っているんだな」
「えっと、どんな感じ?」
 助手席に座る朔馬は、後部座席にいる私を振り返った。
「手のひらサイズの神様です。姿は人間っぽいですけど、顔は隠してます」
「建(けん)辰坊(しんぼう)が小さくなった感じ?」
 凪砂はいった。
「ちょっと違う。服装は公家って感じ」
「たぶん建辰坊より永く生きてると思うよ」
「建辰坊ってなに?」
 理玄はいった。
「西弥生神社にいる天狗だよ。土地神かな。俺に鳥居の鍵をくれたのも建辰坊だよ」
「なるほどな。しかしその妖狐って、すごい大きいんだろ? 手のひらサイズの神さまは、大丈夫なのか?」
「神さまに迷惑かけないって約束させたから大丈夫だよ。妖狐自身も、神さまに攻撃したら、ただでは済まないんじゃないかな」
「兎国神って、手のひらサイズの神様だったんだな。ちょっと見てみたいな」
「今度、凪砂も一緒にいく?」
 朔馬はいった。
「いきたいけど、どうしようかな。二人の入れ替わりの原因は俺だから、迷惑をかけた感があって、多少気まずいんだよね」
「気にしてないと思うよ」
「待て。入れ替わりってなに?」
「朔馬とハロは、一日に三十分だけ入れ替わるんだよ。眠ってる時だけどね」
 正確には眠っている時ではなく、夜明け前である。
「は? なんで? そういうのって、ネノシマではよくあるの?」
「ないよ」
「その割には冷静だな」
 理玄は赤信号で車を止めた。
 帰宅時間と重なったせいか、いつもより多くの車が走っているように思えた。この時間に車に乗ることはめずらしいので、新しい世界をみているような感覚になる。
 自分の意志とは無関係に流れていく世界を見つめていると、ほんの少しだけ不安になる。
 私たちはどこへ向かっていくのか不安になる。



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