数多の夏闇と一夜
第四章 【あの子】 理玄

 三人は当たり前のように非現実的なことを話すので、色んなことが麻痺しそうだった。彼らは降りかかってくる現実を、素直に受け入れているらしい。
 自分もそんな風に振る舞えたらよかったのだろうか。でもあの頃はなにも見たくなかったし、なにも感じたくなかった。自分の感覚のすべてを閉じてしまいたかった。
 そう考えると、今はそれなりにずるく図太くなったと思う。

「君らは、もう夏休みなの?」
「月曜日が終業式です。火曜日から夏休みです」
 理玄の問いに波浪が答えた。唯一敬語を使ってくれるせいか、朔馬と凪砂よりもしっかりして思える。
「月曜いけば、夏休みか。いいな」
「俺と朔馬は、ほとんど毎日補講だけどね」
「え? お姉ちゃんは?」
「私は進学部じゃないので、補講はそれほどないです」
「そういうことか。同じ学校でもスケジュールは違うんだな。え、待って。今日、金曜日か?」
「そうだよ」
 凪砂はいった。
「ごめん。ちょっと寄り道してもいい? 十五分くらいで終わるから」
 三人は理由を聞くことなく「いいよ」と声をそろえた。
 信頼されているのか、興味を持たれていないのか、いまいちわからない。
 雲岩寺に続く坂道のふもとには、雲岩寺の所有する紫雲(しうん)荘(そう)という古いアパートが存在する。
 紫雲荘は二階建て六部屋の建物であるが、現在は三部屋しか埋まっていない。しかし店子の募集をしているわけでもない。紫雲荘に住む者はみな、事情を抱える者ばかりである。その事情を知るのも、店子の斡旋をするのも、理玄の母だけである。公表はしていないが、女性専用アパートである。
 紫雲荘の管理人業務は理玄の仕事の一つになっている。理玄は週に一度、共有部分や、その周辺の掃除をしている。しかし理玄が掃除をせずとも、いつもきれいなものである。

「本当だ、稲荷がある」
 アパートの駐車場に車を停めると朔馬がいった。
 雲岩寺のふもとには稲荷社がある。その稲荷社は紫雲荘とは斜向かいに位置する。三人はそれを見つめていた。
「うん、なんとなく覚えてた」
「俺が坂道を下るの待ってたからだろ、この辺で」
 凪砂がいった。
「そうかも」
「あの稲荷が、なんかあるのか?」
「さっき話した妖狐に、この稲荷に移動することを提案したんだけど、この稲荷はダメだっていった」
「なにがダメなんだ?」
「相性とかじゃない? 詳しく聞かなかったけど」
「相性ねぇ」
 理玄はそういいながらシートベルトを外した。
「理玄はここに住んでるの?」
「俺は雲岩寺の隣に住んでる。でも、このアパートの管理も俺の仕事なんだ。ちょっと掃除するから、その辺で遊んでて」
 三人が嬉々として車から出たので「あんまり遠くにいくなよ」と思わず口から出た。三人は「狸丸いないかな」と坂道を上がっていった。まだ暑いのに元気なものである。
 三人を見送ると、理玄はやるべきことに着手した。
 紫雲荘の共有部分を掃いていると「こんにちは」と狐子(ここ)が顔をだした。理玄が挨拶を返すと、彼女はいつものように理玄の手伝いを開始した。
 狐子は紫雲荘に住んで三年になるが、一番の古株である。大抵の者は一時的な避難場所として、紫雲荘に住んでいるので一年もせずに出ていくことが多いためである。
「大学院って、夏休みは大学と同じ?」
「同じです」
「学生はいいなぁ」
「そうですね。ひまです」
「理系の大学院って、もっと忙しいのかと思ってたな」
「生物系の研究室は夏休みも何もないみたいなんで、人によると思いますよ」
「生き物を扱うのは、どこも大変なんだな」
 それから二人は黙々と掃除を続けた。
 誰かといる時は適当に会話をしている方が楽であるが、狐子に関しては沈黙が気にならない。そのせいか脈絡のない自分の思考にこもることが多い。しかしその思考を引き裂くように、奇妙な音が鼓膜を揺らした。
――ぽぉーん
「ん?」
 理玄が視線を上げると、狐子も何かに気づいたように顔を上げた。
 実に奇妙な音であるが、この音は聞き覚えがある。
 狸丸の腹鼓である。
 狸丸は喜びが頂点に達すると、腹鼓を打つことがある。
――ぽぉーん
 この音を聞くのは久しぶりであった。



 仕上げとして狐子と駐車場のゴミ捨て場を掃いていると、三人がのそりと予想外のところから戻ってきた。
 理玄が三人に視線を向けると、狐子は敏感にそれを感じとったようだった。
そして「お疲れさまでした」と足早に去っていった。他者と関わることを極端に避けるのは、今も昔も変わらない。
 引き止める理由もないので、理玄は狐子の背中に礼をいった。狐子の愛用しているオーバーサイズのパーカーの背には、狐面の刺繍がある。それと目が合うと、毎回ひやりとする。しかしその反面、それは狐子を護っているようにも思えるから不思議である。

「あのさ。なんで、そんな泥だらけなの?」
 朔馬と波浪は腰から膝にかけて、ズボンが泥まみれであった。凪砂はそんな二人に、あきれた顔を向けていた。
「狸丸と遊んでたら、楽しくなっちゃった感じだな」
 凪砂が答えた。
「泥の投げ合いでもしてたの?」
「そんな物騒なことはしてないよ。狸丸が葉っぱに乗って、泥の上をすべってて、それを二人が真似して……最終的にこうなった」
 三人の中で一番の常識人は凪砂なのかもしれない。
「狸丸って、そんな遊びしてんのね」
「楽しそうだったよ。特に二人が転んだ時は」
 そりゃ狸丸も腹鼓を打つはずである。
「でもちょっと新鮮だったな。朔馬も転ぶんだな」
 朔馬も転ぶだろうよ。
「俺はなんていうか、ハロが転んでたのが面白くて……ハロも転ぶんだな」
 波浪も転ぶだろうよ。
「人ってわりと転ぶぞ」
 理玄はいった。
「前もいったけど、ハロの真似はあんまりしない方がいいよ」
 無茶をするのは意外にも波浪らしい。
「あ、車に乗ること忘れてたな」
 朔馬はいった。
「タオル持ってるから、後部座席に敷くよ」
 波浪はいった。
「じゃあ次に車に乗る時は、俺が後ろに乗ればいいか」
「そんくらいの泥、別にいいよ。年中狸丸を乗せてるから、どうせ汚れるしな」
 泥にまみれた二人の服は、すでに白く乾き始めていた。
「二人とも、ケガとかはないのか?」
 凪砂は「それは大丈夫」と即答した。ケガの有無も彼が確認済みらしい。こういう事態に慣れているのだろう。
 二人がズボンの泥を手で入念に払うと、ずいぶんきれいになった。
「今回の現場は、この少し先にある大きい橋だ。ここから車で十五分ってところかな」
 理玄がいうと、三人は顔を見合わせた。
「どうした?」
「今回の依頼って、さっきの子じゃないの?」
 先ほどの狐面が、こちらを睨んでいるような、そんな気がした。



「さっきのって、どういう意味だった? あの子になんかあった?」
 車を走らせると、理玄は口を開いた。
「なにかあったというか、あの子が人外なのかと思った。でも理玄と知り合いなら、人外ってことはないんだろ?」
「え、人外? 双子もそう思ったわけ?」
 さすがに動揺を隠せなかった。
「俺も、あの子が人間なのか自信はなかった。変わった格好してたし」
 凪砂の言葉に、波浪も同意した。
「変わってるか? 見慣れると案外なにも思わないけどな。あんな感じの子、周りにいない?」
 狐子はいつも、髪の毛を真っ白にしている。服装に関して詳しくは知らないが、おそらくゴシック系と分類されるはずである。しかし本日のように、その上からパーカーを着ていることも多い。暑くないのかと思うが、日焼け止めを塗るよりも何かを羽織る方が楽らしい。
「周りにはいないけど。でも、そういわれるとめずらしくもないのかな? 狐面とか古い着物とかって、常に一定の人気がある気がするし」
「そうなんだ?」
 朔馬がいった。
「そういう人も一定数いるみたいだよ」
「戸籍もあるし、三年前からあそこに住んでるし、間違いなく人間だよ」
 理玄が自分に言い聞かせるようにいうと、三人は「そうなんだ」と納得した。
 狐子は間違いなく人間である。
 しかし、普通の人間ではないのかも知れない。
 それを朔馬たちにいってみてもいいのだろうか。
 そんなことを一瞬だけ考えたが、結局その思考は消えていった。




「橋の下に感じるものがあったんだが、今はなにも感じないな」
 理玄はいった。
 午後七時近いとはいえ、世界はまだ明るい。
「俺もなにも見えない」
 朔馬の主張に双子も同意した。
「夜にくるしかないか? 狸丸とここにきたのは、午前一時くらいだったな。でもそんな時間に、君らを連れ回すわけにはいかないしな」
「今までも夜中に出歩いてたし、大丈夫だよ。親は一度部屋に入ると出てこないし」
 凪砂がいった。
「それは、どれも近所の話だろ?」
「幡兎神社は、それほど近所でもないよ。でもその時は、俺が留守番してたかな」
「子どもの姿が一人あるのとないのとじゃ、だいぶ印象が変わるだろうな」
「今回も俺が残ろうか?」
「そんな仲間外れみたいなことしたら、可哀相だろ」
「なんでだよ、大丈夫だよ。俺たちはいつも三人で行動してるわけじゃないし」
「いや、いつも三人とは思ってないけど」
「妖狐の件は、一度も三人で対応してないよ。茶室に依頼がきた時、俺は寝てた」
「そういえば、どっちかは寝てたね」
 波浪はいった。
「今後なにかを依頼する場合、三人セットじゃなくてもいいの?」
「大丈夫だよ」
 凪砂はいった。
「じゃあお言葉に甘えて、今回は凪砂に留守番してもらうかな」
「いいよ」
「今日の深夜でいいの?」
「いいよ」
「凪砂じゃなく、二人に聞いてんだよ」
 二人は「いいよ」と、凪砂と同じ返事をした。



 助手席は朔馬、運転席の後ろは波浪、その隣が凪砂。これが車内での定位置になりつつある。おそらくすでになっている。
 三人を自宅まで送るために車を走らせると、双子はすぐに眠ってしまった。
「狸丸と遊んで、疲れてたのかね?」
「どうだろう? クセなのかも」
 後部座席で眠る顔は、いつも以上に幼く見える。
「双子はいつも昼寝してんの?」
「二人同時に眠ってることはほとんどないけどね。どっちかは眠ってることが多いかも。起きてると、俺の用事に付き合ってくれるから申し訳ないとは思うんだけど」

「俺の用事って? 妖狐とか、妖怪関連のこと?」
「うん、色々ついてきてくれる。まだ日本に不慣れだから心配させてるのかもしれない」
「そうか? 逆じゃないか?」
 朔馬は無言のまま理玄をみた。
「朔馬がなんでもできるから、一人にさせたくないんじゃないか?」
「ごめん、どういう意味?」
「朔馬は妖怪関連のことは、たぶん全部一人で解決できるだろ」
 朔馬はなにかを言いかけたが、結局は浅くうなずいた。
 もしかしたら双子の力が必要だった案件があるのかもしれない。しかしそれに言及する気もなかった。
「一人で解決したらそこで終わりで、双子には話さないだろ?」
「聞かれたら話すよ」


「知らないことは聞けないだろ」
 朔馬は閉口した。
「朔馬が一人で解決したら、それは二人にとってなかった物語になるわけだ。そういうのは避けたいんじゃないの?」
「なんで?」
「なんでって。え? そこは、わかれよ。知らないところでケガとかされても気づけないし、とにかく心配だろ」
 彼は「うん」といったが、納得はしていないようだった。朔馬は理玄が思う以上に、人間関係には疎いのかもしれなかった。
「これ以上、二人を巻き込んでいいのかなとも思うんだけど」
 なにを背負っているのかは想像もできないが、朔馬の側に双子がいるのは救いであるように思える。
「巻き込んだとしても、二人は納得の上だろ。たぶん」

 泥だらけで駐車場に戻ってきた三人に距離ができてしまうとしたら、それはかなしいことだと思った。
 朔馬はありがとうといったように思ったが、気のせいかもしれなかった。



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