彼女たちのエチュード
◆第一章【水平線】歌衣

 この海沿いの町では、あるはずのない島が時々見える。
 その島はネノシマと呼ばれており、そこには妖怪や神様たちが多く住んでいるとされている。

 ネノシマは、この土地で生まれ育った者にしか見えず、さらには大人になるにつれ見えなくなるらしい。
 歌衣《かい》も幼い頃は、何度かネノシマを見ていたように思う。
 きらきら光る水面の上に、ぼんやりとないはずの島が見えた。母に「ネノシマが見える」というと「私にもぼんやり見えるわ」と目を細めることがあった。
 そんな日は世界中が晴れ渡っていると錯覚しそうなほど、眩しい日だった。

 しかし高校生になった今、ネノシマを見る機会は極端に減っていた。
 最近になって海の見える部屋をあてがわれたせいか、余計にそう感じるのかも知れない。
 ここ数日、ネノシマを探すように海の方を見つめている。しかしそんな期待を込めて海を見つめても、ただ水平線が広がるだけである。




 その朝はやけに海が光っていて、太陽が海に降りてきているようだった。
 このまま水平線を見つめていたらネノシマが見えるのではないかと、そんな予感がするほどだった。
 駅に電車が入ってくると、歌衣の視界は遮られた。しかしそれも一瞬のことで、電車が停車してしまうと、車窓からも変わらず水平線が見える。
 歌衣はそれを見つめたまま、近くのドアから電車に乗った。
「あ、武藤《むとう》さん」
 不意に苗字を呼ばれたので、歌衣は驚いた。
 声の主は同じクラスの級長である伊咲《いさき》凪砂《なぎさ》であった。その隣には、同様に同じクラスである桂城《かつらぎ》朔馬《さくま》が座っている。
 凪砂が歌衣に「おはよう」というと、朔馬も続いて「おはよう」といった。

 思わぬ人たちと出会ってしまい、歌衣はとても動揺した。
 歌衣は通常であれば、友人とともに先頭車両に乗っている。先頭車両は若干人が少ないと感じたので、それが定例になったのだった。
 しかし夏休みになった今、この時間帯の乗車率は九割減といった様子である。友人も当然のように夏休みで、わざわざ先頭車両に乗る必要はなかった。
 だからこそ歌衣は一人で適当な車両に乗ったのだった。
 歌衣たちの通う白桜《はくおう》高校の進学部は、夏休み中も補講という名の通常授業がある。しかし電車でクラスメイトと出会うことは全く予想していなかった。つまり歌衣は、人と会う心の準備ができていなかったわけである。
 それでもどうにか気持ちを切り替えて、歌衣は二人に「おはよう」と返した。

「座る?」
 歌衣がその場に立ちすくんでいたせいか、凪砂はそういって席をつめた。
 一刻も早くその場から離れたい気持ちもあった。しかしどう断っても、気を使ってくれた凪砂に失礼になるように思った。歌衣は促されるまま、小さく凪砂の横に座った。
「武藤さんって、この駅なんだ?」
 凪砂とは小学校も中学校も同じであるが、話したことはほとんどないと記憶している。
 そもそも歌衣は特定の友人以外とは、積極的に話せる性格ではなかった。
「今、おじいちゃんの家でお世話になってるの。だから、この駅」
 凪砂は「なにか事情があるんだろうな」という表情で「そうなんだ」とだけいった。
「今、お父さんが海外赴任中で、夏休み中は、お母さんと弟が遊びにいってるの」
 歌衣は聞かれてもいない事情を説明した。
 凪砂は「ああ」と納得した声を出した。
「お母さん、音楽の先生だっけ。中学校の先生は夏休みか」
 歌衣は「そう」と肯定した。
 通っていた中学校は小さい訳ではない。しかし両親の職業をなんとなく知っている程度には、全員が顔見知りという距離感であった。
 母が現在勤務している中学には吹奏楽部はなく、合唱部のみである。その合唱部も冬季限定の活動なので、夏休みは思い切って長い休みを取ることにしたらしい。そのため未就学児の弟を連れて、二人で父の元へと向かったのだった。

「武藤さんは、俺たちと同じ中学なんだよ」
 凪砂は朔馬にいった。
 歌衣と凪砂が話す間、朔馬はそのやりとりを黙って聞いていた。
 朔馬は顔立ちのせいか、黙っていても少しだけ笑っているように見える。それは彼の印象をかなり明るくしている。
 凪砂のいう「俺たち」とは、おそらく二人を指している。
 一人は凪砂の双子の姉である伊咲《いさき》波浪《ななみ》である。そしてもう一人は双子の幼なじみで、歌衣らと同じクラスの北川《きたがわ》毅《たけし》である。
「あ、そうか。毅と選択音楽が一緒なんだっけ」
 朔馬が腑に落ちたようにいったので、歌衣はそれを肯定するように頷いた。
「毅が武藤さんの話題を出したことがあったんだ」
 毅とは凪砂と同じく小、中と同じ学校で、さらには同じピアノ教室に通っていた。ピアノ教室が同じといっても、待合室のような場所ですれ違う程度である。しかし毅はその度に気さくに話しかけてくれた。
 現在も選択音楽で席が近いというだけで、時々話しかけてくれることがある。
「なんの時だったかな」
 凪砂がいうと、朔馬は「なんだっけ」と首を傾げた。

 朔馬が転校してきたのは、高校に入学して一ヶ月が過ぎた頃であった。
 まだクラス全体が高校に馴染めていないような、そんなふわふわした時期だった。朔馬が自己紹介をした光景は、今もよく覚えている。
 教室に入ってきた彼は、かっこいいとか、かわいいとか、きれいとか、そういう言葉で表現することは難しいように思われた。なんだか美しい人間だなと、歌衣は思った。制服を着ていなければ、おそらく女の子と間違える者も多いだろうと思わせるような中性的な顔立ちであった。しかし顔の造りだけでなく、なんとなく佇まいが美しいと思ったのだった。
 彼は担任に促されて自己紹介をすることになった。しかし彼は自分の名をいった後、沈黙した。誰もが続きがあると思ったはずであるが、彼の自己紹介はそれだけだった。担任が朔馬の自己紹介の終わりの合図をするように拍手を開始した。そしてそれを皮切りに、教室内では彼を歓迎する拍手が起きた。
 朔馬は拍手が起きるとは思っていなかったのか、一瞬驚いた表情を浮かべた後、恥ずかしそうに幼く微笑んだ。
 それは見る者すべての警戒心を解いてしまうような、恋に落としてしまうような、そんな笑顔であった。
 偶然なのか必然なのか、朔馬は級長である凪砂の隣の席になった。凪砂は出席番号が一番だからという理由で、入学早々担任に級長に任命されているのである。
 級長や転校生という肩書きもそれなりに目を引くが、北川毅も特異な存在である。
 毅は進学部ではめずらしく野球部に所属している。白桜高校は甲子園出場の常連校であり、野球のために越境してくる生徒も多い。しかしその多くは男子部の生徒である。野球部に所属する進学部の生徒は、三学年通しても十人に満たないらしい。
 級長と転校生と野球部の三人が仲がいいので、クラスの中ではそれなりに目を引く存在であると歌衣は思っている。

「いつも、この時間の電車だった?」
 凪砂は話題を変えるように歌衣にいった。
「うん。いつもは茉莉《まつり》ちゃんと、先頭車両に乗ってたんだけど、女子部は夏休みだから」
 歌衣は言い訳するように「今日は、たまたまこの車両だったの」と付け加えた。
 白桜高校には、進学部、男子部、女子部の三つが存在する。それらは校門も校舎も、何もかもが別れているので同じ学校という感覚は薄い。夏休みに授業があるのも進学部だけなので、もしかしたら校則なども微妙に違うのかも知れない。
「茉莉ちゃんって、石井茉莉?」
 歌衣が「そう」というと、凪砂は「そうか、石井ちゃんも白桜だったな」といった。
「その子も、俺たちと同じ中学なんだよ」
「女子部の生徒なら、ハロと同じ?」
 朔馬から「ハロ」という名前が出たので、歌衣は妙な気持ちになった。
 ハロ。波浪。凪砂の双子の姉のあだ名である。
 少し前、歌衣は朔馬と波浪が一緒にいるところを見かけたことがあった。なぜこの二人が一緒にいるのか、当時は不思議に思った。しかしそのすぐ後、朔馬は伊咲家に居候していることを、毅から聞いた。歌衣にとっては意外な組み合わせであったが、彼らにとっては日常風景なのだろう。
 しかしこうして朔馬から波浪の名を聞くと、彼らは本当に寝食をともにしているのだなと実感する。
「同じ女子部だけど、クラスは違うと思う。女子部は成績順にクラス分けされてるけど、石井ちゃんがAってことはないよね」
 凪砂は歌衣に聞いた。
「茉莉ちゃんはFだよ」
「絶対に宿題提出しなかったもんなぁ、懐かしい」
 その通りだったので、歌衣は声を出さすに笑った。
「石井ちゃんとは、毎回出席番号が近かったんだ」
 凪砂は朔馬にいった。
 こんな風に、凪砂が朔馬になにかを説明するような場面はよく見かけるように思う。
 もしかしたら転校生の面倒を見るようにと、級長である凪砂は担任に頼まれているのかも知れない。
 しかし二人は単純に、とても仲が良さそうであった。



 高校の最寄り駅に着くと、歌衣はコンビニに寄るからと二人と別れた。
 コンビニに寄る用事があり、心底ほっとしている。
 夏休み中の補講は、すべて午前で終了する。しかし歌衣はクラスの友人らと夕方まで自習をするため、昼食はコンビニで購入する必要があった。

 凪砂や毅との付き合いは、歌衣の方が長い。それでも歌衣と彼らの九年以上に、朔馬と彼らの二ヶ月の方が圧倒的に密度が濃いのだろう。
 寝食をともにするのはそういうことであると、最近身をもって感じている。
 父が海外にいってからは、祖父母の家にいく機会も増えた。しかし一緒に暮らし始めると違った一面も見えてくる。
 祖父母は変わらず歌衣に優しい。しかし母が、祖母のことを「厳しい人」という理由が以前より理解できるようになった。
 母は元々祖母にピアノを習っていたが、その指導はあまりにも厳しく、一時期ひどく不仲になったらしい。それ以降、親子で師弟関係は良くないと判断し、別の人の指導を受けるようになった。その教訓は今もいきており、祖母も母も歌衣のピアノに口を出すことはほとんどない。
 祖母は歌衣に対して、何を強要するでもないが「今日はもう生徒さんが来ないから、ピアノ部屋は好きに使っていいからね」と毎日報告してくれる。そこには無言の圧力のような、期待のような、そういう類のものを感じる。祖母にそういわれる度に、歌衣はピアノ部屋に向かうことにしている。
 ピアノ部屋とは、祖父母の家の敷地内にある離れのようなものである。祖母はそこでピアノ教室を開いている。祖父母は音楽が好きで、母は音大を出ている。音楽一家というほどでもないが、その傾向はある。母が音楽の教師になることを、最初は反対されたとも聞いたことがある。
 毎日ピアノ部屋に向かうせいか、祖父母の家に居候するようになってからは、今まで以上にピアノを弾いている。
 歌衣はピアノを弾いた動画を投稿することを趣味にしている。おそらくその頻度は、夏休みになったことも相まって高くなりそうだと予感している。

 ピアノを弾いていると、それ意外になにも考えられなくなる。
 余計なことを考えずにすむので、鬱屈とした気持ちが少し楽になる。
 しかし無心でピアノを弾いていると、最近は妙な音が聞こえるようになった。
 最初は気のせいだと思っていた。しかし長く深くピアノに集中するほどに、薄い破裂音のようなものが聞こえるようになった。
 祖父母に相談することも考えたが、いえないままである。その音は体調の異変ではないと、病院にいく必要はないと、歌衣はまだそう思い込みたかった。
 その妙な音を聞くうちに、この現象は非科学的なものではないかと考えるようになった。
 だからこそ最近は、ネノシマを探している。
 あるはずのない島。それでも見えてしまう島。
 それがもう一度見えたなら、誰かにこの現象を相談してみようと思っている。

 ふと、凪砂はネノシマが見えるのだろうかと気になった。話題の一つとして、聞いてみればよかったのかも知れない。
 そんなことを考えながら、学校へ向かう二人の背中に視線を向けた。その背はすでにずいぶん遠くになっていた。
 この想いをなにに例えたらいいのだろうか。しかしなにに例えても、矮小で稚拙なものに成り果てるような気がする。
 こんな気持ちからは早く解放されたいと思っている。しかしどうしたら解放されるのか、歌衣には想像がつかなかった。

 最近は、ずっとそわそわしている。






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