彼女たちのエチュード
◆第四章【正常】 歌衣
歌衣は病的に体育の授業が嫌いである。
小学生の時ほどではないが、今も体育がある日はそれなりに憂鬱である。
体育は座学と違って、ひと目で優劣がわかる。さらには体育においては、強制的に全員が同じことをさせられる。それが苦痛で仕方なかった。苦手なことを強要され、そして比べられるのは拷問のようなものである。
体育が不得手なことで、誰かに馬鹿にされることは幸いにもなかった。それでも「できない」という記憶はしっかりと植え付けられた。歌衣の小さな自尊心は、体育によって大きく傷ついた。
恥ずかしくないほどには勉強ができても、学校においては称賛を浴びることは少ない。褒められる機会があるとすれば、テストが返却される際にひっそりと名前を呼ばれる程度である。それはただの受動的な儀式である。
対して運動ができる者は「すごい」と能動的に感じさせられる機会が多い。年に一度ある体育祭やマラソン大会もそれである。
体育だけが優遇されている。そんな愚痴を母にいうと、それは仕方のないことだといわれた。
「校長先生は、元体育教師が多いのよ。年齢を重ねると体はどうしても衰えていくから、体育を教えるよりも、えらくなってしまう方が楽みたいよ」
学年主任、教頭、校長など、えらくなるには試験が必要であると母はいった。
「だから必然的に、学校という場所も体育会系になるのかも知れないわね。体育教師だけの繋がりみたいなものもあるでしょうし」
赴任先の校長は、ほとんどが元体育教師であったらしい。つまりは上司がそういう者だったのだろう。
母は早々に出世しない選択をしたらしいが、思うところがあったのかも知れない。
「なんでもできる人なんていないわよ」
母はそういって歌衣をなだめた。
しかし学年に数名ほどは、勉強も体育も飛び抜けてできる者がいる。
「今帰り?」
その一人が、今目の前にいる北川毅であった。
「遅くない?」
時刻は午後六時になろうとしていた。
帰りの電車は、朝以上に乗客が少ない。電車が発車してほどなく、別の車両から移動してきた毅と目が合ったのは必然であった。毎日なんとなく顔を見ているが、こうして改めて顔を見合わせるとかなり身長が伸びたように思う。
「教室で、自習してたの」
歌衣はいった。
「え、みんなそういうことしてんの?」
毅の肩に掛けられたエナメルのバックはとても重そうであるが、その中に何が入っているのかは不明である。
野球部は夏休み中に関しては、部活動を優先してよしとされている。しかし毅は毎日授業に出席している。もしかしたら野球部の方も、進学部の生徒には配慮しているのかも知れない。
「私と、その辺の友だちだけだよ。迎えが必要な子が多いから、教室で残って勉強してる」
毅は「そういうことか」と納得したようであった。
「武藤ちゃん、塾通ってる?」
小学生の頃は、今以上に同世代の男子が苦手だった。今よりずっと乱暴で無神経な彼らが怖かった。
それは毅も例外ではなかった。むしろその筆頭付近に彼がいたといっても過言ではない。低学年の頃は、毅と話せる女子は波浪くらいであったと記憶している。毅が波浪を特別視しているとか、優遇しているとか、そんなことは決してなかった。ただ波浪が毅に臆さないというだけであった。その姿はとても勇敢に見えたものである。
「通ってる。数学だけ」
その場に立ったままの毅に、歌衣は「座る?」と提案した。
毅はエナメルのバックを置き、歌衣の横に座った。
毅の奔放さが苦手だと思っていた反面、その奔放さがあるからこそ歌衣に話しかけてくれるのだろう。今ではクラスの男子生徒の中では、一番話しやすいとさえ感じている。
「数学と英語って、どんどん難しくなるって言われてるもんな。一年から予備校いってる人いんのかな」
毅はいった。
「夏期講習だけ参加してる子は何人かいるよ」
「そうだよなぁ」
毅はそういって息を吐いた。
進学部は名ばかりでなく、高い進学率を誇っている。毅の両親は医師であり、彼の兄もすでに医大生だったか医師である。毅も当然のように医学部にいくのだと歌衣は思っているが、本人に聞いたことはない。
「朝井先生、元気?」
毅は話題を変えるように歌衣に聞いた。
「あ、うん。元気だよ」
朝井先生というのは、ピアノ教室の先生である。歌衣は今も生徒であるが、毅は中学生になる前にピアノ教室を辞めている。
電車は町を抜けると、海ばかりの景色を映した。夕暮れも水面が眩しく、歌衣たちは目を細めた。
細めた目で海を見つめると、うっすらとネノシマが見えた気がした。しかしそれも一瞬のことで、すぐにただの水平線に戻ってしまった。
「北川くんは、今も、ネノシマがみえる?」
ネノシマがもう一度見えたなら、ピアノ部屋で聞こえる音は非科学的なものではないかと、誰かに相談してみようと考えていた。そのため歌衣は、唐突にそれを口にした。
変な質問をしてしまったが、毅はすぐに「時々ね」と回答した。
「みえるの?」
「みえるよ。みえない?」
歌衣は「みえない」と素直にいった。
「たぶん双子もみてると思うけど。俺だけかな」
毅のいう双子は、確認するまでもなく伊咲姉弟のことである。
「なんならハロはネノシマ以外にも、変なもの見るらしいけど」
「そうなの?」
「ずっと前だから、今はわかんないけど。そんなこといってた」
毅はそういった後で「いってよかったのだろうか」という表情を浮かべた。それが尚更、その話を信じるに足る要素になった。
毅の携帯端末が振動し、画面には「透子」の文字が通知された。
中学の頃から付き合っている毅の彼女であり、歌衣にとっては同級生である。彼女は波浪同様に、白桜高校の女子部に所属している。
毅は昔から賢く、そして足が速かった。そのせいかの人柄なのか、毅は常に一定の人気を誇っていた。
足が速い者は生物として優れていると認識されやすく、幼い頃は好意を抱く対象になりやすいらしい。それは一理あるだろうと、歌衣は毅を横目で見ながら思った。
「電話か。電車だし放置」
毅がそういった後、歌衣はようやく違和感を覚えた。
「北川くんって、寮じゃなかった?」
「そうだよ。でも朝練がない日は、たまに帰ってる」
野球部の寮は厳しいのだろうと思っていたが、そうでもないらしい。
「今朝、伊咲くんたちと電車が一緒だったよ」
「いつも同じじゃないの?」
「いつもは、車両が違うの」
「へぇ、元気だった?」
毅があまりに自然にいったので、歌衣の表情は思わず緩んだ。
「毎日教室で会ってるよね」
「うん。なんなら今夜も、伊咲家に顔出すかも」
歌衣が想像する以上に、彼らは近い場所で生活しているようである。それを想像しようにも、うまく想像ができなかった。
◆◆
「最近、ピアノ部屋でなにか変わったことある?」
祖母は歌衣にいった。
心当たりは大いにあったが、歌衣は咄嗟に首を振った。
自分の耳の異変は、まだ知られたくなかった。口にしてしまえば、それは現実として受け止めなければならないことは容易に想像ができる。その心の準備が、まだできていなかった。
「そう、それならいいんだけど」
「なにかあったの?」
「最近、レッスンをしてると耳が痛いとか、耳鳴りがするっていう生徒さんが何人かいてね。だから、ちょっと気になって」
それはなにを意味するのか、歌衣にはすぐに理解できなかった。
しかし耳の異変は自分だけではない事実に、無責任にも心が軽くなった。
「耳が痛いっていうのは、みんな小さい子なのよ。成人した生徒さんも、私も異常はないから歌衣はどうなのかしらと思って」
正直にいってしまっていいのだろうか。そう思った後で、先程の質問に首を振ってしまったことを思い出し、歌衣は口を閉じた。
「私たち、最近妙な虫にも刺されたじゃない? 明日、理玄さんが棚経に来てくださるから、ピアノ部屋の様子もみてもらおうかしら。雲岩寺《うんがんじ》はお祓いでも有名だし」
祖母のいう妙な虫とは、かゆみも痛みもなく、ただ赤い丸を残していった虫のことである。今まで忘れていたが、まだ刺された部分はくっきりと赤い。
「でも七月、八月は分刻みで棚経に回ってるって話だし、そんな暇ないんじゃないか。生徒さんも、何度も耳の異変を訴えてるわけじゃないんだろ」
祖父はいった。
「そうなの?」
歌衣自身は何度も耳の異変を感じていたので、その言葉に少し落胆した。
「生徒さんはみんな週に一度のレッスンだから。でも、次回もまた耳が変だったら、親御さんも心配するんじゃないかしら」
つまりは耳の異変を訴える生徒が現れて、一週間経っていないらしい。
「それは、その時にまた考えてもいいんじゃないか」
「そうねぇ」
祖母は「でも、いうだけいってみるわ」と祖父の意見をやんわりと却下した。
◇
歌衣はその日もピアノ部屋へ向かった。
そして先程テレビで流れていた、タイトル不明の曲をピアノで再現してみた。それを携帯端末に聴かせると、曲名がすぐに判明した。
歌衣の頭の中には鍵盤がある。音を聴くと、奥、手前、右、左、どの辺で鳴ったのかが映像として思い浮かぶ。その映像がなくても、すぐに音階がわかることも多い。そのせいか耳についた曲は、なんとなく再現できる。いつからそれができたのかは、記憶にはない。気づいたら出来ていた。
それが、それなりにめずらしい能力らしいと気づかせてくれたのは毅であった。
その日、ピアノ教室の朝井先生は「お腹が……」とトイレに席を立った。後で聞いた話によると食中毒であった。歌衣が小学三年生の話である。
先生を待つ間、歌衣はCMで耳に残った曲を鍵盤で鳴らしてみた。
すると「先生、その曲!」といって、待合室にいた毅が部屋のドアを開けた。待合室にいても、ピアノは微かに聴こえてくる。
「あれ、先生は?」
「トイレ」
「今の曲、ラスボスの戦闘曲だよね」
歌衣が「え?」と聞き返すと、彼は聞き馴染みのないゲーム名を告げた。
「もう一回弾いて!」
歌衣はいわれるままに、もう一度鍵盤を鳴らした。
毅は声を出さずにひどく感動している様子であった。
帰宅後、毅に教えてもらったその曲を検索してみた。
公式動画として投稿されている以外にも、その曲を演奏した動画が多数みつかった。忠実に再現しているものもあれば、アレンジを加えた演奏も投稿されている。こんな世界があるのだと感動したことを覚えている。
それらの演奏を聴くうちに、自分にも出来るのではないかと思い始めた。
ゲームをしない歌衣にとっては、ネットの世界は受信一方であった。流れる映像をみて、音楽を聴く、それだけだった。しかし自分も発信側になれるかも知れないと思うと、その気持ちは瞬く間に膨らんだ。その後、両親との約束の元で歌衣は動画投稿を開始した。
動画の撮影以上に、投稿する時の方が密かに高揚する。そして投稿動画の再生数が増える度に、筆舌に尽くしがたい感動がある。演奏を見てもらえることに感動したのは初めての体験であった。
ピアノ教室には発表会が年に一度ある。しかしそれを楽しめたことは一度もない。むしろ人前で演奏することは苦手だと感じていた。
それなのに再生数が伸びると湧き上がってくる、この幸福感はなんなのか。
その正体がわからないまま、歌衣は今も動画投稿を続けている。
上手く弾けた曲よりも、流行りの曲を弾いた方が、再生数が伸びることにはすぐに気がついた。そのため流行りの曲を調べることが日課になった。聴いた曲を練習し、誰かに聴いてもらうことを意識してピアノを鳴らす。それだけで歌衣の生活は驚くほどに充実していった。
しかしその弊害なのか、誰かの動画を見ても純粋に楽しめなくなった。自分が思いつかなかった方法でその曲を表現している動画に出会うと、感動すると同時に複雑な感情が湧き上がる。
それを自分がやりたかったと、嫉妬と羨望で胸が押しつぶされそうになる。
最近はそんなことばかりである。
◇
歌衣はしばらく無心でピアノを弾いていた。
世界は自分の奏でる音しかないような、そんな錯覚さえする。しかし「そんなことはない」と言わんばかりに、歌衣の耳に破裂音が響いた。
この破裂音を「耳が痛い」とたとえても、それほど違和感はないように思う。いつもならこの音が聞こえ始めた頃に手を止めるが、今日はそういう気分になれなかった。
ピアノを弾き続けていると、その破裂音は次第に無視できないほどはっきり聞こえるようになった。
この音は体内の異変ではなく、ピアノ部屋のどこかで鳴っている。
歌衣はそう確信した。
奇妙な響きをしているが、おそらくソファーのあたりにその音源がある。歌衣は曲を弾き終えた後で、ピアノ部屋に置かれた二人掛けのソファーを見つめた。
そこにはなにもない。
しかしそんなはずはない。
視覚が否定しても、歌衣の聴覚はそこに音の原因があると確信していた。なにもないはずがない。絶対になにかある。
そう思ってソファーを見つめていると、ぼんやりと黒い獣が見え始めた。
その獣はじっと、こちらを見つめていた。獣は歌衣と目が合ったことが感じられたのか、ポンポンとお腹を鳴らした。
どうにも黒いタヌキのようである。
その腹鼓は、歌衣が聞いていた破裂音に他ならなかった。
タヌキはソファーから降りると、せがむようにピアノの周りをぐるぐる歩いた。
このタヌキは、野生のタヌキでないだろう。腹鼓を鳴らす野生のタヌキなど聞いたことがないが、仮に野生のタヌキであってもこの状況はなんなのか。
しかし歌衣の不安をよそにタヌキは期待するような目で、こちらを見つめていた。
「ピアノの音が、好きなの?」
伝わらないだろうとは思いつつ、歌衣は口に出してみた。
するとタヌキは、こっくりと頷いた。
「おと、した」
そのタヌキは、たしかにそういった。
◆
その夜、自分の耳が正常だったことに少しだけ泣いた。
気にしていない振りをしてみても、耳の異変はとても不安だった。
幼い頃からピアノを褒められた。
もしかしたら自分は、ずっとピアノの側で生きていくのかも知れないと、今も少しだけ思っている。しかしピアノを褒めてもらえても、プロになれるとは誰も言わなかった。
ピアノで一握りの人間になることは、途方もない努力が必要である。周囲の者は、それを痛いほどわかっている。歌衣自身も、自分にはそこまでの情熱も才能もないと、いつからか悟っていた。
それでも音大にいく選択肢は、まだぼんやりと存在している。
しかしそれは、ピアノを弾き続ける理由が欲しいだけなのかも知れない。
ピアノを続けることも、動画を投稿することにも、なにか意味があるのだと、そう思い込みたいのかも知れない。
歌衣はベッドの中で両耳を塞いだ。
そうして微かに聞こえる自分の身体の音に耳をすませた。こうしていると、いつの間にか眠っていることが多い。
なにかを深く考えなければならないように思ったが、なにも考えたくなかった。
今はただ静かに眠りたかった。
歌衣は病的に体育の授業が嫌いである。
小学生の時ほどではないが、今も体育がある日はそれなりに憂鬱である。
体育は座学と違って、ひと目で優劣がわかる。さらには体育においては、強制的に全員が同じことをさせられる。それが苦痛で仕方なかった。苦手なことを強要され、そして比べられるのは拷問のようなものである。
体育が不得手なことで、誰かに馬鹿にされることは幸いにもなかった。それでも「できない」という記憶はしっかりと植え付けられた。歌衣の小さな自尊心は、体育によって大きく傷ついた。
恥ずかしくないほどには勉強ができても、学校においては称賛を浴びることは少ない。褒められる機会があるとすれば、テストが返却される際にひっそりと名前を呼ばれる程度である。それはただの受動的な儀式である。
対して運動ができる者は「すごい」と能動的に感じさせられる機会が多い。年に一度ある体育祭やマラソン大会もそれである。
体育だけが優遇されている。そんな愚痴を母にいうと、それは仕方のないことだといわれた。
「校長先生は、元体育教師が多いのよ。年齢を重ねると体はどうしても衰えていくから、体育を教えるよりも、えらくなってしまう方が楽みたいよ」
学年主任、教頭、校長など、えらくなるには試験が必要であると母はいった。
「だから必然的に、学校という場所も体育会系になるのかも知れないわね。体育教師だけの繋がりみたいなものもあるでしょうし」
赴任先の校長は、ほとんどが元体育教師であったらしい。つまりは上司がそういう者だったのだろう。
母は早々に出世しない選択をしたらしいが、思うところがあったのかも知れない。
「なんでもできる人なんていないわよ」
母はそういって歌衣をなだめた。
しかし学年に数名ほどは、勉強も体育も飛び抜けてできる者がいる。
「今帰り?」
その一人が、今目の前にいる北川毅であった。
「遅くない?」
時刻は午後六時になろうとしていた。
帰りの電車は、朝以上に乗客が少ない。電車が発車してほどなく、別の車両から移動してきた毅と目が合ったのは必然であった。毎日なんとなく顔を見ているが、こうして改めて顔を見合わせるとかなり身長が伸びたように思う。
「教室で、自習してたの」
歌衣はいった。
「え、みんなそういうことしてんの?」
毅の肩に掛けられたエナメルのバックはとても重そうであるが、その中に何が入っているのかは不明である。
野球部は夏休み中に関しては、部活動を優先してよしとされている。しかし毅は毎日授業に出席している。もしかしたら野球部の方も、進学部の生徒には配慮しているのかも知れない。
「私と、その辺の友だちだけだよ。迎えが必要な子が多いから、教室で残って勉強してる」
毅は「そういうことか」と納得したようであった。
「武藤ちゃん、塾通ってる?」
小学生の頃は、今以上に同世代の男子が苦手だった。今よりずっと乱暴で無神経な彼らが怖かった。
それは毅も例外ではなかった。むしろその筆頭付近に彼がいたといっても過言ではない。低学年の頃は、毅と話せる女子は波浪くらいであったと記憶している。毅が波浪を特別視しているとか、優遇しているとか、そんなことは決してなかった。ただ波浪が毅に臆さないというだけであった。その姿はとても勇敢に見えたものである。
「通ってる。数学だけ」
その場に立ったままの毅に、歌衣は「座る?」と提案した。
毅はエナメルのバックを置き、歌衣の横に座った。
毅の奔放さが苦手だと思っていた反面、その奔放さがあるからこそ歌衣に話しかけてくれるのだろう。今ではクラスの男子生徒の中では、一番話しやすいとさえ感じている。
「数学と英語って、どんどん難しくなるって言われてるもんな。一年から予備校いってる人いんのかな」
毅はいった。
「夏期講習だけ参加してる子は何人かいるよ」
「そうだよなぁ」
毅はそういって息を吐いた。
進学部は名ばかりでなく、高い進学率を誇っている。毅の両親は医師であり、彼の兄もすでに医大生だったか医師である。毅も当然のように医学部にいくのだと歌衣は思っているが、本人に聞いたことはない。
「朝井先生、元気?」
毅は話題を変えるように歌衣に聞いた。
「あ、うん。元気だよ」
朝井先生というのは、ピアノ教室の先生である。歌衣は今も生徒であるが、毅は中学生になる前にピアノ教室を辞めている。
電車は町を抜けると、海ばかりの景色を映した。夕暮れも水面が眩しく、歌衣たちは目を細めた。
細めた目で海を見つめると、うっすらとネノシマが見えた気がした。しかしそれも一瞬のことで、すぐにただの水平線に戻ってしまった。
「北川くんは、今も、ネノシマがみえる?」
ネノシマがもう一度見えたなら、ピアノ部屋で聞こえる音は非科学的なものではないかと、誰かに相談してみようと考えていた。そのため歌衣は、唐突にそれを口にした。
変な質問をしてしまったが、毅はすぐに「時々ね」と回答した。
「みえるの?」
「みえるよ。みえない?」
歌衣は「みえない」と素直にいった。
「たぶん双子もみてると思うけど。俺だけかな」
毅のいう双子は、確認するまでもなく伊咲姉弟のことである。
「なんならハロはネノシマ以外にも、変なもの見るらしいけど」
「そうなの?」
「ずっと前だから、今はわかんないけど。そんなこといってた」
毅はそういった後で「いってよかったのだろうか」という表情を浮かべた。それが尚更、その話を信じるに足る要素になった。
毅の携帯端末が振動し、画面には「透子」の文字が通知された。
中学の頃から付き合っている毅の彼女であり、歌衣にとっては同級生である。彼女は波浪同様に、白桜高校の女子部に所属している。
毅は昔から賢く、そして足が速かった。そのせいかの人柄なのか、毅は常に一定の人気を誇っていた。
足が速い者は生物として優れていると認識されやすく、幼い頃は好意を抱く対象になりやすいらしい。それは一理あるだろうと、歌衣は毅を横目で見ながら思った。
「電話か。電車だし放置」
毅がそういった後、歌衣はようやく違和感を覚えた。
「北川くんって、寮じゃなかった?」
「そうだよ。でも朝練がない日は、たまに帰ってる」
野球部の寮は厳しいのだろうと思っていたが、そうでもないらしい。
「今朝、伊咲くんたちと電車が一緒だったよ」
「いつも同じじゃないの?」
「いつもは、車両が違うの」
「へぇ、元気だった?」
毅があまりに自然にいったので、歌衣の表情は思わず緩んだ。
「毎日教室で会ってるよね」
「うん。なんなら今夜も、伊咲家に顔出すかも」
歌衣が想像する以上に、彼らは近い場所で生活しているようである。それを想像しようにも、うまく想像ができなかった。
◆◆
「最近、ピアノ部屋でなにか変わったことある?」
祖母は歌衣にいった。
心当たりは大いにあったが、歌衣は咄嗟に首を振った。
自分の耳の異変は、まだ知られたくなかった。口にしてしまえば、それは現実として受け止めなければならないことは容易に想像ができる。その心の準備が、まだできていなかった。
「そう、それならいいんだけど」
「なにかあったの?」
「最近、レッスンをしてると耳が痛いとか、耳鳴りがするっていう生徒さんが何人かいてね。だから、ちょっと気になって」
それはなにを意味するのか、歌衣にはすぐに理解できなかった。
しかし耳の異変は自分だけではない事実に、無責任にも心が軽くなった。
「耳が痛いっていうのは、みんな小さい子なのよ。成人した生徒さんも、私も異常はないから歌衣はどうなのかしらと思って」
正直にいってしまっていいのだろうか。そう思った後で、先程の質問に首を振ってしまったことを思い出し、歌衣は口を閉じた。
「私たち、最近妙な虫にも刺されたじゃない? 明日、理玄さんが棚経に来てくださるから、ピアノ部屋の様子もみてもらおうかしら。雲岩寺《うんがんじ》はお祓いでも有名だし」
祖母のいう妙な虫とは、かゆみも痛みもなく、ただ赤い丸を残していった虫のことである。今まで忘れていたが、まだ刺された部分はくっきりと赤い。
「でも七月、八月は分刻みで棚経に回ってるって話だし、そんな暇ないんじゃないか。生徒さんも、何度も耳の異変を訴えてるわけじゃないんだろ」
祖父はいった。
「そうなの?」
歌衣自身は何度も耳の異変を感じていたので、その言葉に少し落胆した。
「生徒さんはみんな週に一度のレッスンだから。でも、次回もまた耳が変だったら、親御さんも心配するんじゃないかしら」
つまりは耳の異変を訴える生徒が現れて、一週間経っていないらしい。
「それは、その時にまた考えてもいいんじゃないか」
「そうねぇ」
祖母は「でも、いうだけいってみるわ」と祖父の意見をやんわりと却下した。
◇
歌衣はその日もピアノ部屋へ向かった。
そして先程テレビで流れていた、タイトル不明の曲をピアノで再現してみた。それを携帯端末に聴かせると、曲名がすぐに判明した。
歌衣の頭の中には鍵盤がある。音を聴くと、奥、手前、右、左、どの辺で鳴ったのかが映像として思い浮かぶ。その映像がなくても、すぐに音階がわかることも多い。そのせいか耳についた曲は、なんとなく再現できる。いつからそれができたのかは、記憶にはない。気づいたら出来ていた。
それが、それなりにめずらしい能力らしいと気づかせてくれたのは毅であった。
その日、ピアノ教室の朝井先生は「お腹が……」とトイレに席を立った。後で聞いた話によると食中毒であった。歌衣が小学三年生の話である。
先生を待つ間、歌衣はCMで耳に残った曲を鍵盤で鳴らしてみた。
すると「先生、その曲!」といって、待合室にいた毅が部屋のドアを開けた。待合室にいても、ピアノは微かに聴こえてくる。
「あれ、先生は?」
「トイレ」
「今の曲、ラスボスの戦闘曲だよね」
歌衣が「え?」と聞き返すと、彼は聞き馴染みのないゲーム名を告げた。
「もう一回弾いて!」
歌衣はいわれるままに、もう一度鍵盤を鳴らした。
毅は声を出さずにひどく感動している様子であった。
帰宅後、毅に教えてもらったその曲を検索してみた。
公式動画として投稿されている以外にも、その曲を演奏した動画が多数みつかった。忠実に再現しているものもあれば、アレンジを加えた演奏も投稿されている。こんな世界があるのだと感動したことを覚えている。
それらの演奏を聴くうちに、自分にも出来るのではないかと思い始めた。
ゲームをしない歌衣にとっては、ネットの世界は受信一方であった。流れる映像をみて、音楽を聴く、それだけだった。しかし自分も発信側になれるかも知れないと思うと、その気持ちは瞬く間に膨らんだ。その後、両親との約束の元で歌衣は動画投稿を開始した。
動画の撮影以上に、投稿する時の方が密かに高揚する。そして投稿動画の再生数が増える度に、筆舌に尽くしがたい感動がある。演奏を見てもらえることに感動したのは初めての体験であった。
ピアノ教室には発表会が年に一度ある。しかしそれを楽しめたことは一度もない。むしろ人前で演奏することは苦手だと感じていた。
それなのに再生数が伸びると湧き上がってくる、この幸福感はなんなのか。
その正体がわからないまま、歌衣は今も動画投稿を続けている。
上手く弾けた曲よりも、流行りの曲を弾いた方が、再生数が伸びることにはすぐに気がついた。そのため流行りの曲を調べることが日課になった。聴いた曲を練習し、誰かに聴いてもらうことを意識してピアノを鳴らす。それだけで歌衣の生活は驚くほどに充実していった。
しかしその弊害なのか、誰かの動画を見ても純粋に楽しめなくなった。自分が思いつかなかった方法でその曲を表現している動画に出会うと、感動すると同時に複雑な感情が湧き上がる。
それを自分がやりたかったと、嫉妬と羨望で胸が押しつぶされそうになる。
最近はそんなことばかりである。
◇
歌衣はしばらく無心でピアノを弾いていた。
世界は自分の奏でる音しかないような、そんな錯覚さえする。しかし「そんなことはない」と言わんばかりに、歌衣の耳に破裂音が響いた。
この破裂音を「耳が痛い」とたとえても、それほど違和感はないように思う。いつもならこの音が聞こえ始めた頃に手を止めるが、今日はそういう気分になれなかった。
ピアノを弾き続けていると、その破裂音は次第に無視できないほどはっきり聞こえるようになった。
この音は体内の異変ではなく、ピアノ部屋のどこかで鳴っている。
歌衣はそう確信した。
奇妙な響きをしているが、おそらくソファーのあたりにその音源がある。歌衣は曲を弾き終えた後で、ピアノ部屋に置かれた二人掛けのソファーを見つめた。
そこにはなにもない。
しかしそんなはずはない。
視覚が否定しても、歌衣の聴覚はそこに音の原因があると確信していた。なにもないはずがない。絶対になにかある。
そう思ってソファーを見つめていると、ぼんやりと黒い獣が見え始めた。
その獣はじっと、こちらを見つめていた。獣は歌衣と目が合ったことが感じられたのか、ポンポンとお腹を鳴らした。
どうにも黒いタヌキのようである。
その腹鼓は、歌衣が聞いていた破裂音に他ならなかった。
タヌキはソファーから降りると、せがむようにピアノの周りをぐるぐる歩いた。
このタヌキは、野生のタヌキでないだろう。腹鼓を鳴らす野生のタヌキなど聞いたことがないが、仮に野生のタヌキであってもこの状況はなんなのか。
しかし歌衣の不安をよそにタヌキは期待するような目で、こちらを見つめていた。
「ピアノの音が、好きなの?」
伝わらないだろうとは思いつつ、歌衣は口に出してみた。
するとタヌキは、こっくりと頷いた。
「おと、した」
そのタヌキは、たしかにそういった。
◆
その夜、自分の耳が正常だったことに少しだけ泣いた。
気にしていない振りをしてみても、耳の異変はとても不安だった。
幼い頃からピアノを褒められた。
もしかしたら自分は、ずっとピアノの側で生きていくのかも知れないと、今も少しだけ思っている。しかしピアノを褒めてもらえても、プロになれるとは誰も言わなかった。
ピアノで一握りの人間になることは、途方もない努力が必要である。周囲の者は、それを痛いほどわかっている。歌衣自身も、自分にはそこまでの情熱も才能もないと、いつからか悟っていた。
それでも音大にいく選択肢は、まだぼんやりと存在している。
しかしそれは、ピアノを弾き続ける理由が欲しいだけなのかも知れない。
ピアノを続けることも、動画を投稿することにも、なにか意味があるのだと、そう思い込みたいのかも知れない。
歌衣はベッドの中で両耳を塞いだ。
そうして微かに聞こえる自分の身体の音に耳をすませた。こうしていると、いつの間にか眠っていることが多い。
なにかを深く考えなければならないように思ったが、なにも考えたくなかった。
今はただ静かに眠りたかった。