彼女たちのエチュード
◆第六章【リレー】武藤歌衣
ピアノ部屋にいるタヌキと出会ってしまった翌朝、憑き物が落ちたようにすっきりと目覚めることができた。
耳の異変は自分が思う以上にストレスになっていたようである。
あのタヌキは一体なんなのだろうか。
歌衣は朝食前に、ピアノ部屋に顔を出してみた。
タヌキはソファーで丸くなっていたにも関わらず、歌衣を見ると全身で喜んでくれた。起こしてしまった手前、歌衣はピアノを弾くことにした。ピアノを鳴らすとタヌキは嬉しそうに腹鼓を慣らした。ピアノを心の底から楽しんでくれる様子は、見ていて気持ちがいいものである。
その様子をみていると、幼い弟を思い出す。弟とは十歳ほど離れており、歌衣は弟がかわいくて仕方がなかった。そのせいかこのタヌキにも、すでに愛着のようなものが湧き始めている。
正体は不明なままであるが怖がることは難しく、完全に受け入れることも難しい。
ただ、ピアノの音がしっかりと届いていることだけはわかる。ピアノを聴いてくれる者が正体不明であっても、聴いてくれることに喜びを感じる。その感情においては、このタヌキも、投稿した動画を見てくれる誰かも、歌衣にとっては大きな差はないように思えた。
本日棚経にやってくる僧侶がどんな人物なのかはわからないが、できることならタヌキについては穏便に済ませてほしいと思わずにはいられなかった。
「そろそろ、あそこに行かないとなぁ」
祖父は運転しながら、ぽつりといった。
「ガソリンスタンド?」
祖父は「はは」と、うれしそうに笑った。
「そうだよ。よくわかったね」
「なんとなく。エンジンの音が、軽い気がしたから」
「こんな静かなエンジン音なのに、よくわかるね」
歌衣は「本当に、なんとなく」と言い訳するように付け加えた。
「ありがとう。いってきます」
「いってらっしゃい」
祖父は毎朝、歌衣を最寄り駅近くの交差点まで送ってくれる。駅のロータリーまでいくと、祖父の職場まで微妙に遠回りなのである。
駅に向かう間、空色のロードバイクにまたがった少女が目についた。
どうして目についたのだろうと思ったが、その少女が伊咲波浪《ななみ》であると気づくのにそう時間はかからなかった。
思わぬ場所で思わぬ人物を見てしまったせいか、歌衣は少し混乱した。しかし混乱したままでも、コンビニに入っていく波浪から目が離せなかった。
その光景は映画のワンシーンのようにさえ感じられた。
歌衣はそれほどに集中して彼女を見つめていたし、それは手の届かない遠い場所での出来事のように思えた。
電車の時間は迫っていたが、歌衣はそれほど迷わずコンビニに入って波浪に声を掛けた。
波浪は驚きつつも、すぐに笑顔を見せてくれた。
再会を喜べたらそれでよかった。きっとそのまま別れるべきだった。
――ハロはネノシマ以外にも、変なもの見るらしい
普段話さない者と話した後のしばらくは、その内容を思い出す。何度も反芻しては、もっとこんなことを言えばよかったと、取りとめのないことを考える。そして何度も後悔する。
「ネノシマとか、そういうものが見えたりするの?」
そう口にした後、歌衣は猛烈に後悔した。
歌衣は謝罪をして、逃げるようにコンビニから出た。
自らの発した言葉に激しく動揺しつつも、以前の教訓を忘れず、歌衣は先頭車両に乗車した。
呼吸を整えた後で、家に帰ったらあのタヌキはもういないかも知れないとも考えた。
しかし、もしまだピアノ部屋に居た場合、波浪なら相談に乗ってくれるかも知れないと思ってしまったのだった。
波浪とは特別親しかったわけではないが、何度か同じクラスになったことがある。さらに中学時代は、ほどんと稼働していない科学美術部という部活にともに所属していた。
科学美術部。通称カビ部である。
カビ部は部員の少ない科学部と、美術部が合体してできた部である。通称がひどすぎると思う反面、ぴったりであるとも思っていた。カビ部は歌衣のように運動が苦手な者が多かったが、純粋に科学と美術も愛する者も所属していた。
しかし波浪については、そのどれにも当てはまらないように思っていた。
波浪は学年で一番足が速かった。
どれくらい速いかというと、とんでもなく速かった。
歌衣は現在進行系で体育が苦手であるが、小学生の頃はその比ではなかった。だからこそ、今もそれを強烈に覚えている。
小学四年生時の担任は、体育の終わりには必ずリレーをさせる若い男性教諭であった。歌衣はそれだけの理由で、その担任が嫌いであった。
リレーの何が嫌いかというと、連帯責任というところである。運動が苦手である自覚が強くあったので、尚更それが嫌だった。
「ごめんね。私、遅くて、いつも迷惑かけて」
それは波浪と同じリレーの班になった時のことであった。リレーの順番を決める際に、歌衣は許しをこうように小さくいった。
足の遅い歌衣を何番目にするかで、勝敗を左右する局面も多いので同じ班になった者は、みんな真剣に順番を議論していた。
歌衣の突然の言葉に、班のみんなは一瞬沈黙した。
「そんな風に思ったことないよ」
波浪はそんな一瞬の沈黙などなかったように、あっさりといった。
歌衣は今もそれを覚えている。
波浪がそういうと、班の子たちも「そうだよ」「大丈夫だよ」とそれぞれ声を掛けてくれた。
あの時の波浪の言葉で、どれほど救われたかわからない。それほどに彼女の足の速さは圧倒的であった。
波浪は足の速さを買われて、運動部に誘われることもあったようである。しかし中学の三年間、彼女はカビ部であった。
体育会系であるとか、スポーツ少女であるとか、そういう言葉は波浪には似つかわしくない。
波浪はただ、足が速いだけの女の子であった。
◆
棚経にきた僧侶はピアノ部屋の周辺をみて、ピアノ部屋に入らずに帰ったと祖母はいった。
タヌキと僧侶が邂逅していないらしいことに、歌衣は胸をなでおろした。
「念のためまた来てくださるってことなんだけど、なにかあるのかしら」
「もう一度来てくれるなら、正式に依頼をした方がいいんじゃないか」
祖父は非科学的なものに懐疑的なのかと思っていたが、そうでもないらしい。祖母はその提案に「そうね、そうするわ」と即答した。
お祓いとして僧侶がなにをするのか、歌衣には想像がつかなかった。手荒なことはしないとは思うが、未知の領域なので断定はできなかった。
夕食後、ピアノ部屋にいくとタヌキは今朝と同じように歌衣を歓迎した。
日を追うごとに愛着とも、情とも言えぬ何かが強くなるのだろう。今の時点で、タヌキはとてもかわいい。
歌衣は思考を整理すべく、ピアノを慣らした。
タヌキは例にもれず、腹鼓を鳴らし始めた。
この腹鼓に悩まされる者がいる。自分がそうだったからこそ、その不安は早く解消するべきだと思う。
――そういうものが見えたりするの?
――うん、少し
波浪はたしかにそう答えた。
彼女にタヌキのことを相談してみたいという気持ちがある。久しぶりに顔を見たせいか、もう少し話をしたかったとも思っている。
歌衣はピアノを止めて、携帯端末を見つめた。グループ全体で連絡を取ることはあれど、個別で連絡を取ったことはない。歌衣と波浪はそれくらいの距離感である。
午後九時半。
この時間、伊咲家ではどんな時間が流れているのだろうか。
歌衣は長く一人っ子だったので、年の近い姉弟がいる感覚がわからない。さらにはそこに同年の異性が居候するなど、想像もできないことである。
以前、母の勤務先で父子家庭と母子家庭の保護者が再婚することになり、同級生同士が姉弟になったという話を聞いたことがあった。歌衣はひどく驚いたが、母は「たまにあるのよ」と冷静であった。
中学生にもなれば食事以外は自室にこもることも多く、大きな不便はないのかもしれない。伊咲家は、伊咲屋という大きな旅館の親族であることは周知である。伊咲家においては、部屋が足りないという事情もなさそうである。
しかしこの時間に波浪に連絡をして、凪砂と朔馬にそれを回し読みされたら嫌だなとも思う。彼らはそんなことはしないとは思いつつも、波浪に連絡する手はおのずと遠ざかった。
ピアノを弾く手を止めたせいか、タヌキはそわそわと歌衣の周りを歩き始めた。
歌衣は携帯端末を置いて、再びピアノを鳴らし始めた。
練習曲を弾く気にはなれず、中学の体育祭で流れていた曲を弾いた。この曲は母が若い頃に流行った曲であることを、歌衣は最近知った。
この曲を投稿した際に「懐かしい、青春です」というコメントがあったことも記憶に新しい。コメントをくれた誰かにとっての青春であるように、歌衣もこの曲に触れると当時の体育祭を思い出す。
歌衣らの通う中学には、体育祭の種目として部活対抗リレーなるものがあった。
それはほとんど余興であった。各部がユニフォームや練習着になり、様々なハンデを負ってリレーをする。陸上部は二人三脚だったり、バスケ部はバスケットボールを両手で持つ必要があったり、そのハンデの基準は一切不明である。
しかし不思議なことに、アンカーにバトンを渡すタイミングはそれほど変わらない。そして部活対抗リレーについては、アンカーだけは特別枠であった。
ユニフォームや練習着で走ることに変わりはないが、アンカーにはハンデがない。前走者とタッチをすれば、何も持たずに走り初めることができる。
さらにアンカーの走る距離は、校庭の半周でなく一周である。つまりアンカーが速ければ、いくらでも逆転可能なのである。しかしカビ部は万年最下位であると顧問は嘆いていた。
基本的には三年生を中心にリレーの編成を組むが、波浪は一年生の時点で五十メートル走のタイムが部内の誰よりも速かった。そのため彼女は必然的にアンカーになった。
カビ部はユニフォームも練習着もないので、体育着の上に白衣を着て走ることになる。そしてハンデとしてアンカー以外は、それなりに大きなイーゼルを持って走る。カビ部のハンデは比較的軽く、リレーの中盤はそれなりにいい順位につける。そして最後は最下位になるようだった。余興とはいえ最下位付近でバトンを受け取る役になるのは可哀相だなと、歌衣はその時思っていた。
しかし体育祭では歌衣の予想を裏切り、カビ部は健闘した。波浪は上位でバトンを受け取ったのだった。
その数秒の後、歓声の色が変わったことを今も鮮明に覚えている。
波浪はまだ背が低く、白衣は引きずるほどであった。しかし彼女は核弾頭のような速さで各部を追い抜いていった。カビ部より前を走っていた生徒はいずれも、校庭一周という距離にペース配分を間違えたような走り方であった。
一位を走っていたのはハンデの軽かった柔道部であった。しかし波浪の射程圏内になる頃はすでに、柔道部には疲れの色が見え始めていた。波浪はそれを颯爽と抜き去り一位に躍り出た。
当時の動画を友人の親から見せてもらったことがある。校庭には悲鳴のような歓声が上がっており「ななちゃーん」という同級生らの声援や、保護者らの「はやい、はやい」という冷静な声が入っていた。
波浪が一位になった後、サッカー部と陸上部が次々と柔道部を抜き、波浪を猛追した。しかし波浪は速度を落とすことなく一位でゴールテープを切った。
歌衣を含めたカビ部の部員たちは歓喜した。それは顧問も同じであった。顧問は何度もその場で飛び跳ねた。
結果、顧問はアキレス腱を切るという重傷を負った。
体育祭に来ていた母は「生徒に怪我させるなって再三言われるんだけど、自分が怪我した場合はどうなんだろうね。怒られないといいけど」と心配していた。
以前母がいったように学校が体育会系で構成されているならば、体育会系ではなかった顧問の積年の恨みのようなものがあったのかも知れない。
波浪が一位でゴールテープを切ったことで、歌衣は初めて体育祭が楽しかった。
あんな風に走れたら気持ちがいいだろうと、そう思った。
そしてそう思った後で、自分はそうなれなかったのだと小さく思ったものだった。
ピアノ部屋にいるタヌキと出会ってしまった翌朝、憑き物が落ちたようにすっきりと目覚めることができた。
耳の異変は自分が思う以上にストレスになっていたようである。
あのタヌキは一体なんなのだろうか。
歌衣は朝食前に、ピアノ部屋に顔を出してみた。
タヌキはソファーで丸くなっていたにも関わらず、歌衣を見ると全身で喜んでくれた。起こしてしまった手前、歌衣はピアノを弾くことにした。ピアノを鳴らすとタヌキは嬉しそうに腹鼓を慣らした。ピアノを心の底から楽しんでくれる様子は、見ていて気持ちがいいものである。
その様子をみていると、幼い弟を思い出す。弟とは十歳ほど離れており、歌衣は弟がかわいくて仕方がなかった。そのせいかこのタヌキにも、すでに愛着のようなものが湧き始めている。
正体は不明なままであるが怖がることは難しく、完全に受け入れることも難しい。
ただ、ピアノの音がしっかりと届いていることだけはわかる。ピアノを聴いてくれる者が正体不明であっても、聴いてくれることに喜びを感じる。その感情においては、このタヌキも、投稿した動画を見てくれる誰かも、歌衣にとっては大きな差はないように思えた。
本日棚経にやってくる僧侶がどんな人物なのかはわからないが、できることならタヌキについては穏便に済ませてほしいと思わずにはいられなかった。
「そろそろ、あそこに行かないとなぁ」
祖父は運転しながら、ぽつりといった。
「ガソリンスタンド?」
祖父は「はは」と、うれしそうに笑った。
「そうだよ。よくわかったね」
「なんとなく。エンジンの音が、軽い気がしたから」
「こんな静かなエンジン音なのに、よくわかるね」
歌衣は「本当に、なんとなく」と言い訳するように付け加えた。
「ありがとう。いってきます」
「いってらっしゃい」
祖父は毎朝、歌衣を最寄り駅近くの交差点まで送ってくれる。駅のロータリーまでいくと、祖父の職場まで微妙に遠回りなのである。
駅に向かう間、空色のロードバイクにまたがった少女が目についた。
どうして目についたのだろうと思ったが、その少女が伊咲波浪《ななみ》であると気づくのにそう時間はかからなかった。
思わぬ場所で思わぬ人物を見てしまったせいか、歌衣は少し混乱した。しかし混乱したままでも、コンビニに入っていく波浪から目が離せなかった。
その光景は映画のワンシーンのようにさえ感じられた。
歌衣はそれほどに集中して彼女を見つめていたし、それは手の届かない遠い場所での出来事のように思えた。
電車の時間は迫っていたが、歌衣はそれほど迷わずコンビニに入って波浪に声を掛けた。
波浪は驚きつつも、すぐに笑顔を見せてくれた。
再会を喜べたらそれでよかった。きっとそのまま別れるべきだった。
――ハロはネノシマ以外にも、変なもの見るらしい
普段話さない者と話した後のしばらくは、その内容を思い出す。何度も反芻しては、もっとこんなことを言えばよかったと、取りとめのないことを考える。そして何度も後悔する。
「ネノシマとか、そういうものが見えたりするの?」
そう口にした後、歌衣は猛烈に後悔した。
歌衣は謝罪をして、逃げるようにコンビニから出た。
自らの発した言葉に激しく動揺しつつも、以前の教訓を忘れず、歌衣は先頭車両に乗車した。
呼吸を整えた後で、家に帰ったらあのタヌキはもういないかも知れないとも考えた。
しかし、もしまだピアノ部屋に居た場合、波浪なら相談に乗ってくれるかも知れないと思ってしまったのだった。
波浪とは特別親しかったわけではないが、何度か同じクラスになったことがある。さらに中学時代は、ほどんと稼働していない科学美術部という部活にともに所属していた。
科学美術部。通称カビ部である。
カビ部は部員の少ない科学部と、美術部が合体してできた部である。通称がひどすぎると思う反面、ぴったりであるとも思っていた。カビ部は歌衣のように運動が苦手な者が多かったが、純粋に科学と美術も愛する者も所属していた。
しかし波浪については、そのどれにも当てはまらないように思っていた。
波浪は学年で一番足が速かった。
どれくらい速いかというと、とんでもなく速かった。
歌衣は現在進行系で体育が苦手であるが、小学生の頃はその比ではなかった。だからこそ、今もそれを強烈に覚えている。
小学四年生時の担任は、体育の終わりには必ずリレーをさせる若い男性教諭であった。歌衣はそれだけの理由で、その担任が嫌いであった。
リレーの何が嫌いかというと、連帯責任というところである。運動が苦手である自覚が強くあったので、尚更それが嫌だった。
「ごめんね。私、遅くて、いつも迷惑かけて」
それは波浪と同じリレーの班になった時のことであった。リレーの順番を決める際に、歌衣は許しをこうように小さくいった。
足の遅い歌衣を何番目にするかで、勝敗を左右する局面も多いので同じ班になった者は、みんな真剣に順番を議論していた。
歌衣の突然の言葉に、班のみんなは一瞬沈黙した。
「そんな風に思ったことないよ」
波浪はそんな一瞬の沈黙などなかったように、あっさりといった。
歌衣は今もそれを覚えている。
波浪がそういうと、班の子たちも「そうだよ」「大丈夫だよ」とそれぞれ声を掛けてくれた。
あの時の波浪の言葉で、どれほど救われたかわからない。それほどに彼女の足の速さは圧倒的であった。
波浪は足の速さを買われて、運動部に誘われることもあったようである。しかし中学の三年間、彼女はカビ部であった。
体育会系であるとか、スポーツ少女であるとか、そういう言葉は波浪には似つかわしくない。
波浪はただ、足が速いだけの女の子であった。
◆
棚経にきた僧侶はピアノ部屋の周辺をみて、ピアノ部屋に入らずに帰ったと祖母はいった。
タヌキと僧侶が邂逅していないらしいことに、歌衣は胸をなでおろした。
「念のためまた来てくださるってことなんだけど、なにかあるのかしら」
「もう一度来てくれるなら、正式に依頼をした方がいいんじゃないか」
祖父は非科学的なものに懐疑的なのかと思っていたが、そうでもないらしい。祖母はその提案に「そうね、そうするわ」と即答した。
お祓いとして僧侶がなにをするのか、歌衣には想像がつかなかった。手荒なことはしないとは思うが、未知の領域なので断定はできなかった。
夕食後、ピアノ部屋にいくとタヌキは今朝と同じように歌衣を歓迎した。
日を追うごとに愛着とも、情とも言えぬ何かが強くなるのだろう。今の時点で、タヌキはとてもかわいい。
歌衣は思考を整理すべく、ピアノを慣らした。
タヌキは例にもれず、腹鼓を鳴らし始めた。
この腹鼓に悩まされる者がいる。自分がそうだったからこそ、その不安は早く解消するべきだと思う。
――そういうものが見えたりするの?
――うん、少し
波浪はたしかにそう答えた。
彼女にタヌキのことを相談してみたいという気持ちがある。久しぶりに顔を見たせいか、もう少し話をしたかったとも思っている。
歌衣はピアノを止めて、携帯端末を見つめた。グループ全体で連絡を取ることはあれど、個別で連絡を取ったことはない。歌衣と波浪はそれくらいの距離感である。
午後九時半。
この時間、伊咲家ではどんな時間が流れているのだろうか。
歌衣は長く一人っ子だったので、年の近い姉弟がいる感覚がわからない。さらにはそこに同年の異性が居候するなど、想像もできないことである。
以前、母の勤務先で父子家庭と母子家庭の保護者が再婚することになり、同級生同士が姉弟になったという話を聞いたことがあった。歌衣はひどく驚いたが、母は「たまにあるのよ」と冷静であった。
中学生にもなれば食事以外は自室にこもることも多く、大きな不便はないのかもしれない。伊咲家は、伊咲屋という大きな旅館の親族であることは周知である。伊咲家においては、部屋が足りないという事情もなさそうである。
しかしこの時間に波浪に連絡をして、凪砂と朔馬にそれを回し読みされたら嫌だなとも思う。彼らはそんなことはしないとは思いつつも、波浪に連絡する手はおのずと遠ざかった。
ピアノを弾く手を止めたせいか、タヌキはそわそわと歌衣の周りを歩き始めた。
歌衣は携帯端末を置いて、再びピアノを鳴らし始めた。
練習曲を弾く気にはなれず、中学の体育祭で流れていた曲を弾いた。この曲は母が若い頃に流行った曲であることを、歌衣は最近知った。
この曲を投稿した際に「懐かしい、青春です」というコメントがあったことも記憶に新しい。コメントをくれた誰かにとっての青春であるように、歌衣もこの曲に触れると当時の体育祭を思い出す。
歌衣らの通う中学には、体育祭の種目として部活対抗リレーなるものがあった。
それはほとんど余興であった。各部がユニフォームや練習着になり、様々なハンデを負ってリレーをする。陸上部は二人三脚だったり、バスケ部はバスケットボールを両手で持つ必要があったり、そのハンデの基準は一切不明である。
しかし不思議なことに、アンカーにバトンを渡すタイミングはそれほど変わらない。そして部活対抗リレーについては、アンカーだけは特別枠であった。
ユニフォームや練習着で走ることに変わりはないが、アンカーにはハンデがない。前走者とタッチをすれば、何も持たずに走り初めることができる。
さらにアンカーの走る距離は、校庭の半周でなく一周である。つまりアンカーが速ければ、いくらでも逆転可能なのである。しかしカビ部は万年最下位であると顧問は嘆いていた。
基本的には三年生を中心にリレーの編成を組むが、波浪は一年生の時点で五十メートル走のタイムが部内の誰よりも速かった。そのため彼女は必然的にアンカーになった。
カビ部はユニフォームも練習着もないので、体育着の上に白衣を着て走ることになる。そしてハンデとしてアンカー以外は、それなりに大きなイーゼルを持って走る。カビ部のハンデは比較的軽く、リレーの中盤はそれなりにいい順位につける。そして最後は最下位になるようだった。余興とはいえ最下位付近でバトンを受け取る役になるのは可哀相だなと、歌衣はその時思っていた。
しかし体育祭では歌衣の予想を裏切り、カビ部は健闘した。波浪は上位でバトンを受け取ったのだった。
その数秒の後、歓声の色が変わったことを今も鮮明に覚えている。
波浪はまだ背が低く、白衣は引きずるほどであった。しかし彼女は核弾頭のような速さで各部を追い抜いていった。カビ部より前を走っていた生徒はいずれも、校庭一周という距離にペース配分を間違えたような走り方であった。
一位を走っていたのはハンデの軽かった柔道部であった。しかし波浪の射程圏内になる頃はすでに、柔道部には疲れの色が見え始めていた。波浪はそれを颯爽と抜き去り一位に躍り出た。
当時の動画を友人の親から見せてもらったことがある。校庭には悲鳴のような歓声が上がっており「ななちゃーん」という同級生らの声援や、保護者らの「はやい、はやい」という冷静な声が入っていた。
波浪が一位になった後、サッカー部と陸上部が次々と柔道部を抜き、波浪を猛追した。しかし波浪は速度を落とすことなく一位でゴールテープを切った。
歌衣を含めたカビ部の部員たちは歓喜した。それは顧問も同じであった。顧問は何度もその場で飛び跳ねた。
結果、顧問はアキレス腱を切るという重傷を負った。
体育祭に来ていた母は「生徒に怪我させるなって再三言われるんだけど、自分が怪我した場合はどうなんだろうね。怒られないといいけど」と心配していた。
以前母がいったように学校が体育会系で構成されているならば、体育会系ではなかった顧問の積年の恨みのようなものがあったのかも知れない。
波浪が一位でゴールテープを切ったことで、歌衣は初めて体育祭が楽しかった。
あんな風に走れたら気持ちがいいだろうと、そう思った。
そしてそう思った後で、自分はそうなれなかったのだと小さく思ったものだった。