彼女たちのエチュード
◆第七章【すごいね】波浪
ヌヌ……ぬ……
朝食後、私は二度寝をしておりその異音で目が覚めた。
武藤さんと会った翌朝、つまりは理玄と原さん宅にいった翌朝のことである。
通常通りの時間に目覚め、浜辺を走り、朝食を食べ、凪砂たちが家を出た後、ソファーで二度寝をすることが日課になりつつある。しかしそれを日課にしてもあまりいいことはないので、改善の余地がある。そんなことを思いながら、私は携帯端末に目をやった。そこには武藤さんからの連絡を知らせる通知があった。
武藤さんからは先日の謝罪と、祖父母の家に妙なモノがいるのであんなことをいってしまったのだとあった。
まだ少し寝ぼけたままそれを読んだので。なにに謝罪されたのかすぐにはわからなかった。
私は気にしていないという言葉とともに、妙なモノについて聞いてみた。
すると「ピアノ部屋にタヌキらしきものが住み着いているが、他者には見えないようである」と返ってきた。
武藤さんの祖父母とは原さんのことではないかと、すぐに思い至った。
――北川くんからそんな話を聞いた気がして
毅の信頼度は不明であるが、それほど高くないだろう。それでも武藤さんはその言葉を頼りに、私に相談をしてくれたわけである。
全体で連絡を取り合うことはあったが、個別で彼女から連絡が来るのは初めてのことだった。つまり、それなりに困っているのだろう。
私が「様子を見にいってみたい」と返すと「急であるが本日の夕方はどうか」とすぐに返事がきた。それを了承すると、住所が送られてきた。そこは予想通り、原さん宅であった。
原さん宅には昨日いったばかりで、さらには近日中に再度向かう予定がある。おそらく私にできることはないだろう。
しかし彼女は、私を頼ってくれたわけである。おそらく彼女も、私にどうこうして欲しいということはなく、その不安を共有して欲しいと思っているのかも知れない。
その場合、私がもう一度原さん宅にいく意味は大いにあるように思えた。
黙っていく必要もないと思われたので、凪砂、朔馬、理玄の三人に軽い状況説明と、本日の夕方に原さん宅へいく旨を連絡した。
凪砂からは「熱中症対策」と、理玄からは「タヌキの移動できそうなら、してくれたら俺が楽」と、朔馬からは「ヨスケを知ってるか聞いてみて」と、それぞれ返ってきた。
それから「無理はしないで」と朔馬から追信がきた。
私たち三人が理玄に懐いているのは、毅に近しい奔放さなのかも知れないと密かに思った。
◆
「ごめんね。わざわざ来てもらって」
原さん宅に着くと、武藤さんは庭先で出迎えてくれた。
祖母は通院のため外出中とのことである。祖父母には知られたくないので、今日が好都合だったのだと彼女はいった。
「大丈夫だよ。そのタヌキって、武藤さんにだけ見えるの?」
「そうだと思う」
それから彼女は、ピアノ部屋にいると耳が痛いと訴える者がいること、それは決まって子どもであるらしいことを教えてくれた。それはつまり理玄への依頼のことであった。
武藤さんがピアノ部屋のドアを開けると、どこぞにいたタヌキは彼女に駆け寄り、熱烈に歓迎した。その動きは小型犬のようであった。しかし間近で見ても、狸囃子と同種だろうという感想は変わらなかった。
「えっと、見える?」
飛び跳ねるタヌキをそのままに、武藤さんは私に聞いた。
「うん、飛び跳ねてるタヌキが見える」
武藤さんは、ほっとした表情を見せた。日常の中に突然わけのわからないものが現れたのだから、害はなかったとしても不安になって当然である。
「危険な感じはしないね」
私が感想を述べると、武藤さんは「ならよかった」と小さくいった。
「いつからここにいるの?」
「正確にはわからないの。さっきいったピアノ教室の生徒さんと同じで、私も、最初は見えなかったの。ピアノを弾いてると、妙な音がするなと思っただけで。でも、そのうちにこのタヌキが見えるようになったの」
見鬼の才が目覚めたのか、このタヌキだけ見えるのかはわからないが、おそらく後者だろう。特定の妖怪だけ見える人が存在することを、私は経験から知っている。
「このタヌキ、話せるかな」
「少し、話せるみたいだよ」
私はタヌキと視線を合わせるべく膝を曲げた。
「こんにちは」
私が話しかけると、タヌキは「うんうん」という感じで首を縦に振ったが、それだけであった。そんなことよりもピアノを弾いて欲しい! という感情が痛いほど伝わってくる。
怪我の有無も確かめたかったが、現時点ではそれは難しいように思われた。タヌキはいよいよせがむように、ピアノの周りをうろうろと歩き始めた。もし怪我をしていたとしても、重傷ではないようである。
「ピアノを弾けば、一旦は落ち着くと思う」
武藤さんはいった。
「今、なにか弾ける?」
「弾けるよ」
武藤さんはピアノ椅子に着席すると、私を見た。
「もし、リクエストがあれば」
私は最近聴いているアーティストの名を挙げた。すると武藤さんは「いいね」と、すぐにピアノを鳴らした。
瞬時にリクエストされた曲が弾けるのは、おそらくかなりすごいことである。私は感動したまま、息をひそめるようにして彼女の指先を見つめた。
タヌキは武藤さんのピアノが鳴ると、ポンポンと腹鼓を打ち始めた。
腹鼓の音だけを聴いた場合、その音はとても奇妙な音に聞こえるのかも知れない。
武藤さんの演奏が終わると、私は「すごいね!」と気の利かない感想を述べた。
「何も見ないで弾けるの?」
「うん。何度か弾いた曲だったし、暗譜《あんぷ》してる。でも、弾ける人はみんなそうしてると思う」
ピアノ教室の発表会はすべて暗譜であると、だから毅もそうしていたはずだと彼女は謙遜した。
「武藤さんは聴いた曲は弾けるって、毅が昔いってた気がする」
「弾けるというと大袈裟だよ。でも、主旋律だけなら、なんとなく」
それを「弾ける」と言い切らないところが、彼女の実力の高さを物語っているように思えた。
世の中には、私のできないことを軽々とやってのける者がいる。わかりきっていたことであるが、私は深く感動していた。
「すごいね」
私はさらに馬鹿みたいに感嘆を吐いた。
「あの、伊咲さんは、足が速いよね」
気を使ってくれたのか、武藤さんはなぜか私を褒めてくれた。
私は「ありがとう」とそれを受け取って、本題に戻ることにした。
タヌキを見つめると、今度はとても落ち着いて私を見つめ返した。
私は「こんにちは」と、もう一度話しかけてみた。
「こん、にちは」
タヌキは警戒するようにいった。
「ここが気に入ってるの?」
タヌキは深く頷いた。
「ここに居続けられるのも困るけど、無理に移動させられるのは可哀想だと思って」
武藤さんはいった。
こんなにピアノを喜んでいる姿をみては、その気持ちもわかるように思う。
「この子の姿が見えるようになってからは、なんだか少し気持ちが軽くなったというか、楽になったの。悪い影響ばかりではないとは思うんだけど。でも少し変な感じもするの」
武藤さんはそういって私を見つめた。
「耳の感覚?」
「なんだろう、うまくいえないんだけど」
おそらく本人にしかわからない感覚なのだろう。
「やっぱり、自主的に移動してもらう方がよさそうだね」
武藤さんは浅く頷いた。
「ここから移動することはできる?」
私がいうと、タヌキは「いやだ」という感じで首を振った。
嫌なものは仕方がない。しかしここはヨスケだけでなく、誰かにとっても大切な居場所である。
近いうちに、ここは離れてもらうことになるだろう。
「突然なんだけど、ヨスケってわかる?」
私はタヌキに聞いた。
するとタヌキは「ヨスケ」と復唱し「自分である!」という感じで、自らを指した。
「え、あなたがヨスケなの?」
タヌキは「うんうん」と首を縦に振った。予想外であった。
狸囃子が探しているヨスケは、このタヌキだったらしい。
私はヨスケを見つめて考えを巡らせた。
ヨスケに「あなたを探しているタヌキがいる」と伝えていいものだろうか。少なくともヨスケは狸囃子とはぐれていることに悲観しているようには見えない。ヨスケは自分の意志でここに留まっている。
「このタヌキ、ヨスケっていうの?」
武藤さんは確認するように私に聞いた。
「そうみたいだね。武藤さん最近、祭り囃子みたいな音、聞いたことある?」
「どうだろう。この家では聞いたことはないと思う」
彼女は「どうして?」と質問の意図を問うた。
「狸囃子っていう妖怪がいるんだけど、それに関係があるのかと思って」
武藤さんは「狸囃子……」と口にして、ヨスケを見つめた。
「狸囃子は人間を見たことのない場所に連れていって、その反応を楽しむ妖怪らしいんだけど、同種な気がするんだよね」
私はひとりごとのように呟いた。
「どうだろう。あの、伊咲さんは、いつもこういうのがみえてるの?」
それは当然の疑問であった。
そして彼女は私に質問したいことを、今まで黙っていてくれたことにようやく気がついた。
しかし私は「うん、時々」といって言葉を濁した。それを察してか、彼女はそれ以上言及しなかった。
見鬼であることは隠した方がいいと、助言してくれたのは理玄であった。
理玄は幼い頃から妙なものを見る体質だったらしく、それによっていらぬ苦労をしてきたようである。対して私と凪砂は見鬼の才が開眼したのは比較的最近である。
ヨスケを見つめていると、耳の辺りが油か何かで汚れていることがわかった。
「ヨスケ、耳の辺りどうかした? 触ってもいい?」
怪我の有無も確認したかったので、私は手を伸ばした。しかしヨスケは「いやだ」という感じで耳を隠した。
「じゃあ触らない。見るだけ」
するとヨスケは「まあ、少しなら」という感じで警戒しながら、私に近づいてきた。耳の周りに汚れらしきものはあるが、ヨスケ自身が黒いのでそれがなんの汚れなのかはよくわからなかった。さらには体毛のせいで、傷の有無もしっかりと確認はできなかった。
私が「ありがとう」というと、ヨスケは私と距離をとった。
ヨスケを無理に抱き上げて捕獲することは容易に思われた。しかし私の独断でそんなことをしていいとも思えなかった。
つまりこの場に置いては、穏便にヨスケを移動させることは不可能だった。
これ以上は役に立てそうにないこと、そして雲岩寺の僧侶なら穏便にヨスケを移動させてくれるはずであることを武藤さんに告げた。
「お坊さんがもう一度来る前に、この子をなんとかできるなら、その方がいいと思ったんだけど」
武藤さんはヨスケを見つめた。
「でも、来てくれて、話を聞いてくれて、すごく嬉しかった。ありがとう」
武藤さんはそういって私を見た。
口数が多いわけではないが、彼女の一言一言にはきちんと感情がある。そのせいか、彼女の言葉はまっすぐ私に伝わってくる。
何もできないながらも、ここに来てよかったと心から思った。
「ヨスケがかわいく思えるのはわかる気がする」
私はいった。
「この子を見てると、弟のこと思い出すの」
「アダンくんだっけ。今、五歳くらい?」
スペインで生まれたので、それにゆかりのある名前らしい。私は何度か彼の写真を見せてもらったこともある。
「そう」
武藤さんはそういって微笑んだ。
そして彼女は最近送られてきたという弟の画像を見せてくれた。
「小さい弟って、いいね」
私は再び馬鹿みたいな感想を述べた。
「双子だと、弟って感覚はあんまりないの?」
「常に弟だとは思ってるけど、そういう感覚はないかも知れない」
私は自分でもよくわからないことを、ありのまま武藤さんに告げた。
「なんていうか、同じ学校に家族がいるって、あんまり想像ができないかな」
武藤さんはおそらくかなり気を使ってそういってくれた。
「中学まではそれが普通だったから、なんとも思わなかったけど。学校は一緒じゃない方が楽な気がする」
武藤さんは「そうなんだね」と小さくいった。
「伊咲さんは、進学部に来ると思ってた」
凪砂は早々に私立単願で進学部に合格しており、私は直前まで進学部を受けるかを迷っていた。
「すごく迷ったけど、女子部で後悔はないかな。でも、また選べるって言われたら同じくらい悩むと思う」
「女子部、楽しい?」
「楽しいよ。透子も同じクラスだし」
武藤さんは「ああ、透子ちゃん」と懐かしそうにいった。
「進学部は勉強大変そうだけど、大変?」
「毎時間小テストみたいなものがあるから、それなりに大変かな。通知表の順位もそんなによくなかったし」
常に成績上位だった彼女も進学部では苦戦を強いられているらしい。
「毅が九位っていってたし、進学部の順位はあんまり気にしなくていいと思うけど」
おそらく進学部の最下位付近でも、全国平均でみればかなり高い順位であることは想像に難くない。
「え、北川くん九位だったの?」
私は「そういってたよ」と、さらりと毅の順位をバラした。
「すごいね。私、ちょうど中間くらいの順位だった」
進学部に通っていた未来を想像してみるが、武藤さんがそのくらいの順位ならば、私は女子部で自尊心を保っていた方が精神衛生上は正解なのかもしれなかった。
「伊咲さんは女子部だと、かなり上位じゃない?」
「七位だった」
「え、すごいね。女子部って五百人くらいいるんでしょ」
「毅には、女子部レベル低いって煽られたけど」
武藤さんは「えぇ」と短く笑った。
私たちが談笑していると、ヨスケは再びそわそわと動き始めた。
「弾いて欲しいのかな」
「もうすぐお別れだろうし、弾いてあげようかな」
「やったね、ヨスケ」
私がいうと、ヨスケは嬉しそうに飛び跳ねた。
ピアノ椅子に座った彼女がこちらを見たので、私は再びリクエストをした。彼女は先程と同じく「いいね」と微笑み、すぐにピアノを鳴らした。
こんな風にピアノが弾けたなら、きっと楽しいだろうと思った。
◆
「ヨスケって、タヌキだったのか」
原さん宅であったことを連携すると、朔馬はいった。
「落としたっていうのは、何だったんだろう」
凪砂はいった。
「ほかに落とし物があるのかも知れないけどね。とりあえず茶室の件は、ヨスケに会わせたら解決かな」
「理玄の方は、ヨスケを移動させたら解決か」
「そうなると思う」
二人がゲームを開始したので、私はいつものようにその背を見ながらソファーで編み物を開始した。
武藤さんが弾いてくれた曲が耳に残っており、私はふにゃふにゃと適当にそれを口ずさんだ。
すると朔馬がちらりとこちらを向き「ハロはすごいな」といって、再び画面に向き直った。
「なにが?」
凪砂はいった。
「編み物しながら歌ってるから。すごいなと思って」
「すごいのか?」
「俺はできないから」
改めていわれると、なんだか恥ずかしいものがある。
「いや、それは。そうか。俺もできないとは思うけど」
「おじさんもおばさんも、料理しながら歌ってる時あるよね」
「あるね」
「毎回、すごいなって思ってる」
「毎回? 毎回そんなこと思ってたのか。盲点だったな」
凪砂がいうと、朔馬は「うん」と深く頷いた。
「二人もゲームしながら会話してるでしょ」
私はいった。
「それとはまた別だと思うけど」
凪砂はいった。
「私には真似できない」
「ゲームは遊びだもん」
「編み物も遊びだよ」
何ができるかなんて、人ぞれぞれである。
ヌヌ……ぬ……
朝食後、私は二度寝をしておりその異音で目が覚めた。
武藤さんと会った翌朝、つまりは理玄と原さん宅にいった翌朝のことである。
通常通りの時間に目覚め、浜辺を走り、朝食を食べ、凪砂たちが家を出た後、ソファーで二度寝をすることが日課になりつつある。しかしそれを日課にしてもあまりいいことはないので、改善の余地がある。そんなことを思いながら、私は携帯端末に目をやった。そこには武藤さんからの連絡を知らせる通知があった。
武藤さんからは先日の謝罪と、祖父母の家に妙なモノがいるのであんなことをいってしまったのだとあった。
まだ少し寝ぼけたままそれを読んだので。なにに謝罪されたのかすぐにはわからなかった。
私は気にしていないという言葉とともに、妙なモノについて聞いてみた。
すると「ピアノ部屋にタヌキらしきものが住み着いているが、他者には見えないようである」と返ってきた。
武藤さんの祖父母とは原さんのことではないかと、すぐに思い至った。
――北川くんからそんな話を聞いた気がして
毅の信頼度は不明であるが、それほど高くないだろう。それでも武藤さんはその言葉を頼りに、私に相談をしてくれたわけである。
全体で連絡を取り合うことはあったが、個別で彼女から連絡が来るのは初めてのことだった。つまり、それなりに困っているのだろう。
私が「様子を見にいってみたい」と返すと「急であるが本日の夕方はどうか」とすぐに返事がきた。それを了承すると、住所が送られてきた。そこは予想通り、原さん宅であった。
原さん宅には昨日いったばかりで、さらには近日中に再度向かう予定がある。おそらく私にできることはないだろう。
しかし彼女は、私を頼ってくれたわけである。おそらく彼女も、私にどうこうして欲しいということはなく、その不安を共有して欲しいと思っているのかも知れない。
その場合、私がもう一度原さん宅にいく意味は大いにあるように思えた。
黙っていく必要もないと思われたので、凪砂、朔馬、理玄の三人に軽い状況説明と、本日の夕方に原さん宅へいく旨を連絡した。
凪砂からは「熱中症対策」と、理玄からは「タヌキの移動できそうなら、してくれたら俺が楽」と、朔馬からは「ヨスケを知ってるか聞いてみて」と、それぞれ返ってきた。
それから「無理はしないで」と朔馬から追信がきた。
私たち三人が理玄に懐いているのは、毅に近しい奔放さなのかも知れないと密かに思った。
◆
「ごめんね。わざわざ来てもらって」
原さん宅に着くと、武藤さんは庭先で出迎えてくれた。
祖母は通院のため外出中とのことである。祖父母には知られたくないので、今日が好都合だったのだと彼女はいった。
「大丈夫だよ。そのタヌキって、武藤さんにだけ見えるの?」
「そうだと思う」
それから彼女は、ピアノ部屋にいると耳が痛いと訴える者がいること、それは決まって子どもであるらしいことを教えてくれた。それはつまり理玄への依頼のことであった。
武藤さんがピアノ部屋のドアを開けると、どこぞにいたタヌキは彼女に駆け寄り、熱烈に歓迎した。その動きは小型犬のようであった。しかし間近で見ても、狸囃子と同種だろうという感想は変わらなかった。
「えっと、見える?」
飛び跳ねるタヌキをそのままに、武藤さんは私に聞いた。
「うん、飛び跳ねてるタヌキが見える」
武藤さんは、ほっとした表情を見せた。日常の中に突然わけのわからないものが現れたのだから、害はなかったとしても不安になって当然である。
「危険な感じはしないね」
私が感想を述べると、武藤さんは「ならよかった」と小さくいった。
「いつからここにいるの?」
「正確にはわからないの。さっきいったピアノ教室の生徒さんと同じで、私も、最初は見えなかったの。ピアノを弾いてると、妙な音がするなと思っただけで。でも、そのうちにこのタヌキが見えるようになったの」
見鬼の才が目覚めたのか、このタヌキだけ見えるのかはわからないが、おそらく後者だろう。特定の妖怪だけ見える人が存在することを、私は経験から知っている。
「このタヌキ、話せるかな」
「少し、話せるみたいだよ」
私はタヌキと視線を合わせるべく膝を曲げた。
「こんにちは」
私が話しかけると、タヌキは「うんうん」という感じで首を縦に振ったが、それだけであった。そんなことよりもピアノを弾いて欲しい! という感情が痛いほど伝わってくる。
怪我の有無も確かめたかったが、現時点ではそれは難しいように思われた。タヌキはいよいよせがむように、ピアノの周りをうろうろと歩き始めた。もし怪我をしていたとしても、重傷ではないようである。
「ピアノを弾けば、一旦は落ち着くと思う」
武藤さんはいった。
「今、なにか弾ける?」
「弾けるよ」
武藤さんはピアノ椅子に着席すると、私を見た。
「もし、リクエストがあれば」
私は最近聴いているアーティストの名を挙げた。すると武藤さんは「いいね」と、すぐにピアノを鳴らした。
瞬時にリクエストされた曲が弾けるのは、おそらくかなりすごいことである。私は感動したまま、息をひそめるようにして彼女の指先を見つめた。
タヌキは武藤さんのピアノが鳴ると、ポンポンと腹鼓を打ち始めた。
腹鼓の音だけを聴いた場合、その音はとても奇妙な音に聞こえるのかも知れない。
武藤さんの演奏が終わると、私は「すごいね!」と気の利かない感想を述べた。
「何も見ないで弾けるの?」
「うん。何度か弾いた曲だったし、暗譜《あんぷ》してる。でも、弾ける人はみんなそうしてると思う」
ピアノ教室の発表会はすべて暗譜であると、だから毅もそうしていたはずだと彼女は謙遜した。
「武藤さんは聴いた曲は弾けるって、毅が昔いってた気がする」
「弾けるというと大袈裟だよ。でも、主旋律だけなら、なんとなく」
それを「弾ける」と言い切らないところが、彼女の実力の高さを物語っているように思えた。
世の中には、私のできないことを軽々とやってのける者がいる。わかりきっていたことであるが、私は深く感動していた。
「すごいね」
私はさらに馬鹿みたいに感嘆を吐いた。
「あの、伊咲さんは、足が速いよね」
気を使ってくれたのか、武藤さんはなぜか私を褒めてくれた。
私は「ありがとう」とそれを受け取って、本題に戻ることにした。
タヌキを見つめると、今度はとても落ち着いて私を見つめ返した。
私は「こんにちは」と、もう一度話しかけてみた。
「こん、にちは」
タヌキは警戒するようにいった。
「ここが気に入ってるの?」
タヌキは深く頷いた。
「ここに居続けられるのも困るけど、無理に移動させられるのは可哀想だと思って」
武藤さんはいった。
こんなにピアノを喜んでいる姿をみては、その気持ちもわかるように思う。
「この子の姿が見えるようになってからは、なんだか少し気持ちが軽くなったというか、楽になったの。悪い影響ばかりではないとは思うんだけど。でも少し変な感じもするの」
武藤さんはそういって私を見つめた。
「耳の感覚?」
「なんだろう、うまくいえないんだけど」
おそらく本人にしかわからない感覚なのだろう。
「やっぱり、自主的に移動してもらう方がよさそうだね」
武藤さんは浅く頷いた。
「ここから移動することはできる?」
私がいうと、タヌキは「いやだ」という感じで首を振った。
嫌なものは仕方がない。しかしここはヨスケだけでなく、誰かにとっても大切な居場所である。
近いうちに、ここは離れてもらうことになるだろう。
「突然なんだけど、ヨスケってわかる?」
私はタヌキに聞いた。
するとタヌキは「ヨスケ」と復唱し「自分である!」という感じで、自らを指した。
「え、あなたがヨスケなの?」
タヌキは「うんうん」と首を縦に振った。予想外であった。
狸囃子が探しているヨスケは、このタヌキだったらしい。
私はヨスケを見つめて考えを巡らせた。
ヨスケに「あなたを探しているタヌキがいる」と伝えていいものだろうか。少なくともヨスケは狸囃子とはぐれていることに悲観しているようには見えない。ヨスケは自分の意志でここに留まっている。
「このタヌキ、ヨスケっていうの?」
武藤さんは確認するように私に聞いた。
「そうみたいだね。武藤さん最近、祭り囃子みたいな音、聞いたことある?」
「どうだろう。この家では聞いたことはないと思う」
彼女は「どうして?」と質問の意図を問うた。
「狸囃子っていう妖怪がいるんだけど、それに関係があるのかと思って」
武藤さんは「狸囃子……」と口にして、ヨスケを見つめた。
「狸囃子は人間を見たことのない場所に連れていって、その反応を楽しむ妖怪らしいんだけど、同種な気がするんだよね」
私はひとりごとのように呟いた。
「どうだろう。あの、伊咲さんは、いつもこういうのがみえてるの?」
それは当然の疑問であった。
そして彼女は私に質問したいことを、今まで黙っていてくれたことにようやく気がついた。
しかし私は「うん、時々」といって言葉を濁した。それを察してか、彼女はそれ以上言及しなかった。
見鬼であることは隠した方がいいと、助言してくれたのは理玄であった。
理玄は幼い頃から妙なものを見る体質だったらしく、それによっていらぬ苦労をしてきたようである。対して私と凪砂は見鬼の才が開眼したのは比較的最近である。
ヨスケを見つめていると、耳の辺りが油か何かで汚れていることがわかった。
「ヨスケ、耳の辺りどうかした? 触ってもいい?」
怪我の有無も確認したかったので、私は手を伸ばした。しかしヨスケは「いやだ」という感じで耳を隠した。
「じゃあ触らない。見るだけ」
するとヨスケは「まあ、少しなら」という感じで警戒しながら、私に近づいてきた。耳の周りに汚れらしきものはあるが、ヨスケ自身が黒いのでそれがなんの汚れなのかはよくわからなかった。さらには体毛のせいで、傷の有無もしっかりと確認はできなかった。
私が「ありがとう」というと、ヨスケは私と距離をとった。
ヨスケを無理に抱き上げて捕獲することは容易に思われた。しかし私の独断でそんなことをしていいとも思えなかった。
つまりこの場に置いては、穏便にヨスケを移動させることは不可能だった。
これ以上は役に立てそうにないこと、そして雲岩寺の僧侶なら穏便にヨスケを移動させてくれるはずであることを武藤さんに告げた。
「お坊さんがもう一度来る前に、この子をなんとかできるなら、その方がいいと思ったんだけど」
武藤さんはヨスケを見つめた。
「でも、来てくれて、話を聞いてくれて、すごく嬉しかった。ありがとう」
武藤さんはそういって私を見た。
口数が多いわけではないが、彼女の一言一言にはきちんと感情がある。そのせいか、彼女の言葉はまっすぐ私に伝わってくる。
何もできないながらも、ここに来てよかったと心から思った。
「ヨスケがかわいく思えるのはわかる気がする」
私はいった。
「この子を見てると、弟のこと思い出すの」
「アダンくんだっけ。今、五歳くらい?」
スペインで生まれたので、それにゆかりのある名前らしい。私は何度か彼の写真を見せてもらったこともある。
「そう」
武藤さんはそういって微笑んだ。
そして彼女は最近送られてきたという弟の画像を見せてくれた。
「小さい弟って、いいね」
私は再び馬鹿みたいな感想を述べた。
「双子だと、弟って感覚はあんまりないの?」
「常に弟だとは思ってるけど、そういう感覚はないかも知れない」
私は自分でもよくわからないことを、ありのまま武藤さんに告げた。
「なんていうか、同じ学校に家族がいるって、あんまり想像ができないかな」
武藤さんはおそらくかなり気を使ってそういってくれた。
「中学まではそれが普通だったから、なんとも思わなかったけど。学校は一緒じゃない方が楽な気がする」
武藤さんは「そうなんだね」と小さくいった。
「伊咲さんは、進学部に来ると思ってた」
凪砂は早々に私立単願で進学部に合格しており、私は直前まで進学部を受けるかを迷っていた。
「すごく迷ったけど、女子部で後悔はないかな。でも、また選べるって言われたら同じくらい悩むと思う」
「女子部、楽しい?」
「楽しいよ。透子も同じクラスだし」
武藤さんは「ああ、透子ちゃん」と懐かしそうにいった。
「進学部は勉強大変そうだけど、大変?」
「毎時間小テストみたいなものがあるから、それなりに大変かな。通知表の順位もそんなによくなかったし」
常に成績上位だった彼女も進学部では苦戦を強いられているらしい。
「毅が九位っていってたし、進学部の順位はあんまり気にしなくていいと思うけど」
おそらく進学部の最下位付近でも、全国平均でみればかなり高い順位であることは想像に難くない。
「え、北川くん九位だったの?」
私は「そういってたよ」と、さらりと毅の順位をバラした。
「すごいね。私、ちょうど中間くらいの順位だった」
進学部に通っていた未来を想像してみるが、武藤さんがそのくらいの順位ならば、私は女子部で自尊心を保っていた方が精神衛生上は正解なのかもしれなかった。
「伊咲さんは女子部だと、かなり上位じゃない?」
「七位だった」
「え、すごいね。女子部って五百人くらいいるんでしょ」
「毅には、女子部レベル低いって煽られたけど」
武藤さんは「えぇ」と短く笑った。
私たちが談笑していると、ヨスケは再びそわそわと動き始めた。
「弾いて欲しいのかな」
「もうすぐお別れだろうし、弾いてあげようかな」
「やったね、ヨスケ」
私がいうと、ヨスケは嬉しそうに飛び跳ねた。
ピアノ椅子に座った彼女がこちらを見たので、私は再びリクエストをした。彼女は先程と同じく「いいね」と微笑み、すぐにピアノを鳴らした。
こんな風にピアノが弾けたなら、きっと楽しいだろうと思った。
◆
「ヨスケって、タヌキだったのか」
原さん宅であったことを連携すると、朔馬はいった。
「落としたっていうのは、何だったんだろう」
凪砂はいった。
「ほかに落とし物があるのかも知れないけどね。とりあえず茶室の件は、ヨスケに会わせたら解決かな」
「理玄の方は、ヨスケを移動させたら解決か」
「そうなると思う」
二人がゲームを開始したので、私はいつものようにその背を見ながらソファーで編み物を開始した。
武藤さんが弾いてくれた曲が耳に残っており、私はふにゃふにゃと適当にそれを口ずさんだ。
すると朔馬がちらりとこちらを向き「ハロはすごいな」といって、再び画面に向き直った。
「なにが?」
凪砂はいった。
「編み物しながら歌ってるから。すごいなと思って」
「すごいのか?」
「俺はできないから」
改めていわれると、なんだか恥ずかしいものがある。
「いや、それは。そうか。俺もできないとは思うけど」
「おじさんもおばさんも、料理しながら歌ってる時あるよね」
「あるね」
「毎回、すごいなって思ってる」
「毎回? 毎回そんなこと思ってたのか。盲点だったな」
凪砂がいうと、朔馬は「うん」と深く頷いた。
「二人もゲームしながら会話してるでしょ」
私はいった。
「それとはまた別だと思うけど」
凪砂はいった。
「私には真似できない」
「ゲームは遊びだもん」
「編み物も遊びだよ」
何ができるかなんて、人ぞれぞれである。