彼女たちのエチュード
◆第八章 【戻ってこい】 波浪

「見ず知らずの坊主より、同級生に頼りたくなる気持ちはわかるな。大人はわけわかんない生き物は、とりあえず排除しようとするからな」
 大人であるところの理玄はいった。
「ヨスケは、移動したくない理由でもあるんかね。怪我してる様子はなかったんだろ」
「そうだね。でも、触られるのは嫌がってた」
「触れるのを嫌うのは、めずらしい反応ではないよ」
 私と朔馬は、理玄とともに車で原さん宅に向かっていた。狸丸は朔馬の膝に乗っている。
「怪我をしてないとしたら、なんだろうな。狸囃子の一員と仮定して、方向性の違いで仲違いとか、そんな感じか」
「バンドみたいだね」
「バンドみたいなもんだろ。幼なじみなのかもな」
「幼なじみって、バンド組むの?」
 朔馬はいった。
「だいたい組むだろ。お姉ちゃん、ドラムやってっていわれたことない?」
 理玄には、姉という存在はドラムを担当する印象があるらしい。
 私は「一回もないよ」と正直に答えた。
「幼なじみのバンドは解散後、関係性はどうなるんだろうな」
「狸囃子の方はヨスケを探してるんだし、仲違いってこともなさそうだけど」
 朔馬はいった。狸囃子はバンドという認識で問題ないらしい。
「当事者にしかわからない問題はあるんだろうな」
「そう思う。でもヨスケを探すという約束を反故にはできないし、理由はどうあれ狸囃子には報告するよ」
 朔馬はきっぱりいった。
「音に悩まされてる者がいる限り、ヨスケをピアノ部屋に居座らせるわけにもいかないからな」
車を停めると理玄は「いこうか」と低い声でいった。



 原さん宅に着くと、夫人は玄関から出てきて理玄に「お世話になります」深々と頭を下げた。
 私と朔馬は朧面をつけて同行しており、狸丸は袈裟の袖に潜り込んでいる。
 原夫人がピアノ部屋を開けて電気を点けると、ヨスケは彼女の訪問を歓迎した。夫人もピアノを弾くので、そういう反応なのだろう。
 朔馬は理玄に「いる」と小さくいった。
 理玄は「見えない」という感じで、小さく首を振った。
 それから理玄は室内を見渡して「なるほど」と、夫人に意味ありげにいった。
「この部屋に、なにかあるんでしょうか」
「この部屋自体に問題はありません。たまたま妙なことが起きてしまう時期だったと、そうお考え下さい」
 理玄がいうと、夫人はほんの少し安堵の表情を見せた。
「少しの間、この場に一人にしてもらってよろしいでしょうか?」
 夫人は「お願いします」といって、ピアノ部屋を後にした。

 夫人が去ったのを確認すると、私たちは息を吐いた。
 そして理玄は、袈裟の袖から狸丸を出した。狸丸は着地すると、水を浴びた後のようにぶるぶると体を振るった。
「君がヨスケだな。狸囃子が探してたぞ。だから俺たちは今、ここに来てる。どうにか穏便に移動できないか」
 朔馬は膝を折ってヨスケにいった。
 ヨスケは朔馬を凝視した後、首を振った。
「いや、だ。おと、した」
 ヨスケはいった。
「言葉は通じてると思うんだけど」
 どうにも会話に時間がかかる。朔馬はそういいたそうに、狸丸を見つめた。
 狸丸は「任せろ」といって、ヨスケに近づいた。
 それから二匹は、タヌキ同士にしか通じない言語で話しているようだった。ヨスケも自分の事情を話しているらしく、狸丸は時折「うんうん」と相槌を打った。
「狸囃子には戻れない。移動もしたくない。ここで休みたいって」
 狸丸はいった。
「狸囃子に戻れないってことは、やっぱりその一員だったのか」
 理玄はいった。
「そうみたいだぞ」
「この場所で休みたい理由でもあるのかな」
 朔馬がいうと、狸丸はそれをヨスケに伝えた。
「ここがいい。ここはいい音がするからって」
「音って、このピアノのことだよな。こういう大きいピアノがある家は、そう多くはないか」
 理玄はいった。
「狸囃子に戻れない理由でもあるのかな。ケンカしてるようには感じられなかったけど」
 朔馬が聞くと、狸丸はヨスケに通訳した。
「それはいいたくないって」
 朔馬は「それもそうか」と素直に納得した。
 妖怪にも色んな事情があるのだろう。

「その事情は直接、狸囃子と話し合ってもらうしかないかな」
 朔馬はそういうと、ポケットから和紙の人形《ひとがた》を取り出した。おそらく狸囃子に拇印のようなものを押してもらったそれである。
「ヨスケには申し訳ないけど、狸囃子の依頼はヨスケを探して欲しいってことだから、それは遂行させてもらう」
 朔馬は人形《ひとがた》の和紙を床に置き、右手の人差し指と中指を立てた。そして声に出さず、なにかを詠唱したようだった。
 床に置かれた人形からは、ぼわんと四匹のタヌキ、つまりは狸囃子が現れた。
「え、なにしたんだ? なにか起きたことだけはわかるぞ」
 理玄には狸囃子の姿も見えないようである。
「双方の意見を尊重するとキリがないから、狸囃子をここに呼んだんだ」
 朔馬はいった。
 ヨスケは突然のことに驚いていたが、それは狸囃子も同じであった。
 互いに何が起こっているのか、理解しかねている様子である。
 しかしヨスケの姿を確認すると、狸囃子は「ヨスケ、ヨスケ」とヨスケに駆け寄った。
 ヨスケは困惑しながら後ずさったかと思うと、ゆらりと出窓に飛び乗った。そして出窓を透過し、ピアノ部屋から出ていった。
「あ、逃げたかな」
 朔馬は冷静にいった。
「え、逃げたのか。移動したってこと? この部屋にいないのか」
 理玄は確認するようにいった。ヨスケを視認できないので当然である。
「うん、移動したかな。透明のものは透過できる妖怪は多いんだ。だから夜は障子やカーテンを閉めた方が安全だよ」
 朔馬はそういって窓の外を見つめた。
 狸囃子たちはヨスケがいなくなったことに困惑し、顔を見合わせていた。
 しかし状況を理解すると、狸囃子はヨスケを追うべく同じように窓からするすると出ていった。この反応の遅さは、ヨスケが逃げるとは思っていなかったせいだろう。
 狸囃子が外に出たので、私たちも後を追うことにした。
「俺も夫人に声を掛けたら後を追う。二人とも、朧面をつけてることは忘れるなよ」
 私たちは理玄の言葉に頷き、ピアノ部屋を後にした。

 原さん宅の敷地を出ると、私たちは即座に朧面を解除した。狸囃子はヨスケを見失ったらしく、空き地に駐車してある理玄の車の側で途方にくれていた。
「ヨスケ、ヨスケ」
 狸囃子はただ、その名を呼ぶばかりである。
「ヨスケが狸囃子に戻りたくないのは、しっかり理由がありそうだったぞ」
 狸丸はいった。
「その理由に心当たりあるか、狸囃子に聞いてもらってもいい?」
 朔馬がいうと狸丸は再び「任せろ」といって、狸囃子に話しかけた。狸囃子たちは、心当たりはなさそうであったが、一匹のタヌキが「ぬえ」といった。
「ぬえ、いた」
 狸囃子たちは思い出したかのように、狸丸に口を開いたようだった。
「ヨスケがいなくなる何日か前、鵺《ぬえ》と妖狐がケンカしている場面に居合わせたらしい。身を潜めてやり過ごしたが、その後から色んなことがおかしくなった。そういってる。心当たりはそれくらいらしい」
「鵺が関係してたのか。具体的に、何がおかしくなったんだろう」
「ヨスケがおかしくなった。ヨスケは、楽器を落とした。それからほどなく、ヨスケが消えた」
 狸丸はいった。
「鵺の影響でヨスケになにかあったと考えるのが妥当かな。狸囃子の依頼だけを優先すべきじゃなかったな。無理にでも、ヨスケを捕獲しておけばよかった」
 朔馬はそういって反省した。妖怪関連のことになると、普段と違ってかなり合理的になる自覚はあるのかも知れない。
「予想できなかったことだし、仕方ないよ。私たちもヨスケを探そう」
 朔馬は自省した後で「そうだね」と、気持ちを切り替えた。
 すると私たちのすぐ近くで、小さく祭り囃子が鳴り始めた。
 狸囃子はすでにタヌキの姿ではなく、紅白のやぐらの姿になっていた。近くにいるはずのヨスケを呼んでいることは、私にも感じられた。

「なんだ、この音」
 理玄はそういいながら、空き地に戻ってきた。理玄には音だけが聞こえるようである。
「狸囃子たちがヨスケを呼んでるんだ。そっちはどうだった?」
「今できる対処はしたとは伝えたよ。またヨスケが戻ってくる可能性もあるし、状況が改善しない場合は連絡をくれといっておいた。布施も弾んでもらったしな。しかしこの音、なんだかそわそわするというか、ぼんやりするというか、変な感じだ」
「一時的なものだけど、狸囃子は人間を現実から切り離すことが得意なんだ。夢心地になる人は多いよ」
「なるほど。これが止むまで、運転はやめておくわ」
「赤太郎でヨスケを探すか?」
 狸丸はいった。
「もう少しだけ、狸囃子に任せてみよう」
 朔馬がそういったので、私たちはしばらく狸囃子の音に耳を澄ませた。
 なんだか懐かしいような、童心に帰っていくような、そんな感覚にさせられる音であった。

 少しすると視界の隅で何かが動いたことに、私も朔馬も気がついた。
 そこにはひっそりとヨスケの姿があった。
 狸囃子たちも、それにはすぐに気がついたようだった。
 演奏を続ける狸囃子を前に、ヨスケはポンポンと腹鼓を打ち始めた。
 そしてヨスケは「う、うぅ」と泣き始めた。
 ヨスケが涙を流し始めると狸囃子はタヌキの姿に戻り、ヨスケに駆け寄った。
「でき、できない。うまく、でき、ない」
 ヨスケはそういうと、さらに泣いた。
 狸丸の通訳がなくとも、狸囃子たちが「戻ってこい」という表情なのは理解できた。
「うあぁぁぁあ、でき、できない」
 ヨスケはいよいよ嗚咽をあげて泣いた。それはなんだか奇妙な響きを持つ泣き声であった。
 しかしその泣き声はあまりに純粋で、胸が痛くなった。
 ヨスケの泣き声は、夏の夜空に響き渡った。

「うあぁぁあ、ごめん、なさい」


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