落ちない男が言うには
 涼やかなドアベルの響きとともに、颯爽と入ってきて、店員の伊久磨と話し始める。身長が百九十センチ近くある伊久磨には及ばないが、均整のとれた体躯にかっちりしたジャケットと細身のジーンズがよく似合っていた。
 会話が耳に届く。予約していたが、食事の相手が現れず、席をキャンセルしようとしているらしい。

「今から別のお客様というのも難しいですし。食事はしていってください。お相手が必要でしたら、ご相伴に預かりますから。うちのメンツで代わる代わる」

 伊久磨がとぼけた調子で言うと、男はにこりと微笑んだ。

「とんだ罰ゲームだ」

 会話からするに、店員と客という以上に、友人のような仲を思わせた。伊久磨の「うちのメンツ」というのが「海の星」のメンバーのことなら、由春とも知り合いなのかもしれない。
 伊久磨はキャンセルになるのを残念に思い、引き留めようとしているように見える。
 どうしようか、一瞬迷ってから和嘉那は口を開いた。

「キャンセル? 席空くの?」

 突然会話に入ったせいで、伊久磨が少し動揺した気配があった。

「はい。あ、いいえ」

 曖昧な返事。
 その伊久磨を見て、男がしずかな声で尋ねた。

「……席待ちの?」
「ええと、まあ」

 さらに困ったように伊久磨が答える。
 確かに、和嘉那は席を待っていると言えば待っているのだが、店の関係者なのでお客様とも言い難い。
 その微妙な空気を押し切るように、男が和嘉那に向き直って、にこりと微笑んだ。

「食事の相手が急用で都合がつかなくなってしまって。もしお待ちでしたらどうぞ」

 小さく息を飲んだ。
 面と向き合って、笑みを湛えた澄んだ黒瞳と視線が絡んだ瞬間、背筋がぞくりとする。綺麗すぎる目だ。
 それから、まわらない頭でなんとか考えた。

(どうぞってことは……?)

 自分はキャンセルなので、席が空きますから、食事をしていってください、という意味だろうか。
 まさかこのひと、店に顔を出しておいて、食事をしないで帰るのだろうか、ともやもやが一気に胸の中に広がる。
 何か言わないと。和嘉那は焦って口を開く。早く引き留めねばと気が急いて。

「あなたは? ごはんまだ? 今帰ろうとしていませんでした? 今日ここで食事の予定だったんじゃないですか。帰ってどうするんですか? 餃子食べるの?」

 しまった。餃子を食べたいと思っていたせいで、変なことを言ってしまった。
 しかし、男はまったく気にした様子もなく感じの良い笑顔のまま答える。

「まあ何かしら適当に。一食くらい抜いても問題ないですし」

(ああ~、やっぱり帰るつもりだ。なんで? 予約のあるレストランに来て、お腹空いたまま帰るの?)

 そんなのおかしい、とつい口調がきつくなる。 

「食べて行けばいいのに。レストランに来て、席もあるし料理もあるのに食べないで帰るなんて」

 男の笑顔は、取り立てて変化したようには見えなかった。
 ただ、やけに冷ややかな印象になった。
 機嫌を損ねた気配。

(ん~~そうだよね~~。もう少し丁寧な口調で言うべきだったよね)

 察して、和嘉那も笑みを保った裏で激しい自己嫌悪に顔を強張らせる。
 彼の話し方は最低限の礼儀をわきまえたものだったのに、自分はなんだかがさつな物言いをしてしまった。山籠もりして普段ろくに人と話していないせい、なんて言い訳できない。情けない。
 というか、本当に失礼。

(伊久磨くんとは知り合いみたいだけど、私とは一面識もない他人だもん、びっくりしたよね。あ~、これで店の関係者なんてバレたら、店の評判に関わっちゃうかも) 

 なるべくなら、名前を名乗らないで終えたい。
 だけど、食事はして行ってほしい。
 その微妙な空気を知ってか知らずか、伊久磨が提案してきた。

「お二人でどうぞ。どうしても嫌ならテーブルの真ん中に衝立用意しますから」
「伊久磨。なんでいま名案みたいに言ったのかな」

 すかさず男が返す。伊久磨、と名前で呼ぶ程度には親しいようだ。
 一方の伊久磨は落ち着き払った様子で言った。

「二人席が一つ空いていて、食事がまだの二人のお客様がいるわけです。本来は相席をお勧めすることはありませんけど、(たたえ)さんさえ良ければ」

 ちらりと和嘉那に目を向けてくる。

(湛さん)

 名前? 苗字? 
 はっきりわからないな、と考えながら和嘉那は答えた。

「私は構わないわよ」

 余計なことを考えていたせいで、妙に煽る口調になってしまった。何やってんだろう私、と頭を抱えたい気持ちになったときに、男がさりげない調子で言った。

「わかった。そうしよう」

 驚いて、声も出さずに和嘉那は男の顔を見上げてしまう。

(断られると思ってた)

 かくして、和嘉那は「湛さん」と食事をする運びになってしまったのだった。
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