落ちない男が言うには
知ってしまえばもっと知りたくなる。その後は――
叶わない恋だと思い知りながら、引きずられてしまうかもしれない。
怖い。
自分が来ていることは知っているはずだが、由春がキッチンから出て来る気配もない。それが有難いような、決定的な瞬間を引き延ばされているようなむず痒さがある。いっそさっさと出てきてくれて姉だと紹介してくれたら、悩まなくても良かったかもしれないのに。
(ひとを責めている場合じゃないよ……。私がこの人に惹かれなければ良かっただけなのに)
恋なんてしばらくしていない。
するとも思っていなかった。
ものづくりを学ぶ為に美大に行き、ひたすら制作に明け暮れていた。卒業後は実家に戻り、今の工房に就職したが、ほどなく窯主が引退を決め、格安で設備を譲ってもらった。以来、ぎりぎり市内と車で行き来はできるものの、普段は山奥で周囲に民家もまばらな古い家に住み、男性と付き合うどころか、新たにひとと知り合うことすらほぼ稀という中で。
年齢はそれなりに重ねているものの、自分でもどうなのかと思うほど初心で奥手なところがあるのは否めないのだが、まさか。
行きずりの相手に一目惚れしてしまうとは。
(良くないよね。絶対に良くない。もう食事は終わりなのに)
伊久磨が最後のデザートプレートを運んできてしまった。
「『紫陽花』です」
和嘉那が作ったガラスの器に、和菓子らしい、うつくしい花が載せられていた。
粒のそろった花びらのひとつひとつが光を帯びているようで、沈んだ花紺青の色から、淡い薄花色に見事にグラデーションしている。その脇に、水滴をのせた葉が一枚。
(こんなに綺麗な和菓子、パティシエのゆきくんが作ったの……!?)
あまりにも衝撃的で、和嘉那は思わずガラスの器を手に取り、目の高さまで持ち上げて息を詰めて瞬きもせずに見つめる。
しばらくそのまま、身じろぎすらできなかった。
その日一日の浮ついた気分が、すべて沈静化され、浄化されるような清廉さに満ちていた。
「信じられないくらいに綺麗。こんなに綺麗な紫陽花初めて見た……」
器をテーブルに戻してから、目に浮かんできた涙を指で拭う。
「なんかもう、びっくりして泣けてきちゃった。本当に、今まで見たこともなくて。すごいなぁ……。これ、ゆきくんが作ったの?」
伊久磨の姿を目で探すと、ちょうど目の前に見覚えのある湯呑が差し出された。
さきほど届けたばかりの。特別コースのお客様用に作った……。
一気に現実に引き戻され、和嘉那はがばっと立ちあがる。
「特別コースのお客様! そうだ、もしよければ私ご挨拶しようと思っていたのに。すっかり普通に食事しちゃってたっ」
思わず声に出して振り返ってみるも、すでに閉店間際の店内に他に客の姿はない。
(いない)
しくじった。
「うわー……。やっちゃったわ。もう帰っちゃったね……。なんで私ってばこう、抜けてるんだろ」
椅子に座り直してみるも、呆然としてうまく喋れない。
すっかり「湛さん」との食事に気を取られて、本来の用事を忘れてしまっていた。
「お料理とお酒が美味しくて……。普段人と食事取ることもないからすごく楽しくて。時間を忘れるってこういうことよね……。紫陽花綺麗だね。ゆきくんすごい成長しているね……」
何を言いたいのかよくわからないまま、意味を成さないことを口走ってしまう。
だけど、紫陽花が綺麗というのは正直な気持ち。これを見れただけで今日ここにきた甲斐があったと思えるほどの。
(由春の料理もおいしかったし、伊久磨くんの選んでくれたお酒も飲みやすかったんだけど。私は駄目だったな~)
痛恨。
その場に穴を掘って消えたい気分になっていたときに、伊久磨が淡々とした声で言った。
「その紫陽花は、コースにはなかったんですけど、特別にご用意しました。作ったのはうちの真田じゃなくて、こちらの和菓子職人、水沢湛さん」
(なんで)
なに? いまの、どういう意味?
意味が分からずに和嘉那は伊久磨を見る。
視界の端で、湛もまた動きを止めているのが見えた。
和嘉那と目が合った伊久磨は、面白そうに目元に笑みを滲ませてから、湛の前にもう一つの湯呑を置いた。
「本日の特別コースのお客様です。まだお帰りになってないですよ」
(……?)
理解不能で硬直した和嘉那の前で、伊久磨は小さく噴き出した。
それから、続けて何か言おうとしていたが、ようやくキッチンから姿を見せた由春がその場に現れて、和嘉那を湛に紹介した。
話を総合すると――
和菓子職人の水沢湛というひとは、元々伊久磨の知り合いで、「海の星」オープン以来何かと使ってくれているお得意様らしい。「紫陽花」は彼から店のスタッフへの差し入れだったということ。
そして、湛こそが、和嘉那の作る食器「和かな」を気に入り、今までにたくさん買ってくれた「いつものお客様」でもある。
今日は和菓子職人の先輩である高齢の男性を招く食事のはずが、相手が急遽来れないことに。
あわやキャンセルというタイミングに和嘉那が居合わせたので同席する運びになったというのだが。
和嘉那と伊久磨が知り合いということには気付いていた湛も、さすがに「和かな」本人だとは思っていなかったらしく、伊久磨と由春が下がって二人になった後も少し動揺した様子だった。
一方の和嘉那も、まさか一目会いたいと思っていた相手がこんなに若い男性だとは思っていなかった気恥ずかしさや、あまりにも美しいと思ってしまった和菓子を作る職人だと知った驚きやら。
(一目ぼれだけど行きずりだから仕方ない、で終わらせるつもりだったのに……!)
叶わない恋だと思い知りながら、引きずられてしまうかもしれない。
怖い。
自分が来ていることは知っているはずだが、由春がキッチンから出て来る気配もない。それが有難いような、決定的な瞬間を引き延ばされているようなむず痒さがある。いっそさっさと出てきてくれて姉だと紹介してくれたら、悩まなくても良かったかもしれないのに。
(ひとを責めている場合じゃないよ……。私がこの人に惹かれなければ良かっただけなのに)
恋なんてしばらくしていない。
するとも思っていなかった。
ものづくりを学ぶ為に美大に行き、ひたすら制作に明け暮れていた。卒業後は実家に戻り、今の工房に就職したが、ほどなく窯主が引退を決め、格安で設備を譲ってもらった。以来、ぎりぎり市内と車で行き来はできるものの、普段は山奥で周囲に民家もまばらな古い家に住み、男性と付き合うどころか、新たにひとと知り合うことすらほぼ稀という中で。
年齢はそれなりに重ねているものの、自分でもどうなのかと思うほど初心で奥手なところがあるのは否めないのだが、まさか。
行きずりの相手に一目惚れしてしまうとは。
(良くないよね。絶対に良くない。もう食事は終わりなのに)
伊久磨が最後のデザートプレートを運んできてしまった。
「『紫陽花』です」
和嘉那が作ったガラスの器に、和菓子らしい、うつくしい花が載せられていた。
粒のそろった花びらのひとつひとつが光を帯びているようで、沈んだ花紺青の色から、淡い薄花色に見事にグラデーションしている。その脇に、水滴をのせた葉が一枚。
(こんなに綺麗な和菓子、パティシエのゆきくんが作ったの……!?)
あまりにも衝撃的で、和嘉那は思わずガラスの器を手に取り、目の高さまで持ち上げて息を詰めて瞬きもせずに見つめる。
しばらくそのまま、身じろぎすらできなかった。
その日一日の浮ついた気分が、すべて沈静化され、浄化されるような清廉さに満ちていた。
「信じられないくらいに綺麗。こんなに綺麗な紫陽花初めて見た……」
器をテーブルに戻してから、目に浮かんできた涙を指で拭う。
「なんかもう、びっくりして泣けてきちゃった。本当に、今まで見たこともなくて。すごいなぁ……。これ、ゆきくんが作ったの?」
伊久磨の姿を目で探すと、ちょうど目の前に見覚えのある湯呑が差し出された。
さきほど届けたばかりの。特別コースのお客様用に作った……。
一気に現実に引き戻され、和嘉那はがばっと立ちあがる。
「特別コースのお客様! そうだ、もしよければ私ご挨拶しようと思っていたのに。すっかり普通に食事しちゃってたっ」
思わず声に出して振り返ってみるも、すでに閉店間際の店内に他に客の姿はない。
(いない)
しくじった。
「うわー……。やっちゃったわ。もう帰っちゃったね……。なんで私ってばこう、抜けてるんだろ」
椅子に座り直してみるも、呆然としてうまく喋れない。
すっかり「湛さん」との食事に気を取られて、本来の用事を忘れてしまっていた。
「お料理とお酒が美味しくて……。普段人と食事取ることもないからすごく楽しくて。時間を忘れるってこういうことよね……。紫陽花綺麗だね。ゆきくんすごい成長しているね……」
何を言いたいのかよくわからないまま、意味を成さないことを口走ってしまう。
だけど、紫陽花が綺麗というのは正直な気持ち。これを見れただけで今日ここにきた甲斐があったと思えるほどの。
(由春の料理もおいしかったし、伊久磨くんの選んでくれたお酒も飲みやすかったんだけど。私は駄目だったな~)
痛恨。
その場に穴を掘って消えたい気分になっていたときに、伊久磨が淡々とした声で言った。
「その紫陽花は、コースにはなかったんですけど、特別にご用意しました。作ったのはうちの真田じゃなくて、こちらの和菓子職人、水沢湛さん」
(なんで)
なに? いまの、どういう意味?
意味が分からずに和嘉那は伊久磨を見る。
視界の端で、湛もまた動きを止めているのが見えた。
和嘉那と目が合った伊久磨は、面白そうに目元に笑みを滲ませてから、湛の前にもう一つの湯呑を置いた。
「本日の特別コースのお客様です。まだお帰りになってないですよ」
(……?)
理解不能で硬直した和嘉那の前で、伊久磨は小さく噴き出した。
それから、続けて何か言おうとしていたが、ようやくキッチンから姿を見せた由春がその場に現れて、和嘉那を湛に紹介した。
話を総合すると――
和菓子職人の水沢湛というひとは、元々伊久磨の知り合いで、「海の星」オープン以来何かと使ってくれているお得意様らしい。「紫陽花」は彼から店のスタッフへの差し入れだったということ。
そして、湛こそが、和嘉那の作る食器「和かな」を気に入り、今までにたくさん買ってくれた「いつものお客様」でもある。
今日は和菓子職人の先輩である高齢の男性を招く食事のはずが、相手が急遽来れないことに。
あわやキャンセルというタイミングに和嘉那が居合わせたので同席する運びになったというのだが。
和嘉那と伊久磨が知り合いということには気付いていた湛も、さすがに「和かな」本人だとは思っていなかったらしく、伊久磨と由春が下がって二人になった後も少し動揺した様子だった。
一方の和嘉那も、まさか一目会いたいと思っていた相手がこんなに若い男性だとは思っていなかった気恥ずかしさや、あまりにも美しいと思ってしまった和菓子を作る職人だと知った驚きやら。
(一目ぼれだけど行きずりだから仕方ない、で終わらせるつもりだったのに……!)