落ちない男が言うには

交渉と見返り

 交渉は交渉とも言えないくらいスムーズに終わった。
 やはり、事前に湛が実物を見せて、かなり売り込んでいてくれたのが、オーナーと話した感触でよくわかった。
 値段交渉も、もともとが価格帯の高いものを扱っている店だけに、安く売れる商品も出して欲しいと言われることもなく、概ねイメージ通りで話がまとまった。


「時間、お昼になってしまいましたけど、どうします? 『海の星』に行っても良いですけど、あの店最近、ランチは断るくらいにお客様入っているんですよね」

 今日の成功の立役者というより、完全に黒幕というか、主役的な何かの湛は、恩に着せる様子もなく話題を切り替えて飄々と言ってくる。

「そうですね。せっかくだから、新しいお店でも調べてくればよかった」

 駐車場に戻って駐車券を清算して車に向かうと、湛が運転席のドアに手をかけた。

「保険の設定が、俺が運転しても大丈夫なら運転しますよ。岩清水さん、帰り道もあるわけだし。休めるときは休んで。市内の運転なら慣れてますから、ぶつけたりしません」
「お願いしてもいいんですか?」

 素で驚いて聞き返すと、もちろん、と明るく言われる。
 たしかに、今から湛の目の前でスニーカーに履き替えるのはなんとも間の抜けた感じもあったが。
 まさか気さくに運転まで代わってくれるとは思わなかった。車に格別のこだわりのあるタイプなら嬉しくないかもしれないが、和嘉那は運転しなくてもいいならしたくない人間なので、控えめに言ってもすごくありがたい。
 商品の運搬も見越してのボックスタイプの軽で、普通車が運転できれば操作は迷うようなものでもない。
 運転席に乗った湛はシートを調整して少し後ろに押していた。和嘉那とは身長差があるから、足でペダル操作をするために空間が必要なのだろう。

(男の人って感じだなぁ……)

 小さなことの一つ一つにときめいてしまう。

 ――好きにならない方が、無理なんじゃないかな。

 決して暇な人じゃないはず。それなのに、細やかに気を遣ってくれる。
 左手がギアに置かれた瞬間、目を向けてしまってから、逸らした。
 指輪なんか、職業を考えればしていなくても不思議はない。

(独身かどうかすら知らない……)

 和嘉那は完全に落ちているが、湛の真意はわからない。

 さりげなく由春や伊久磨に打ち合わせのふりをして湛のことを聞き出そうとしたが、もとは伊久磨の知り合いで、オープンして店が軌道に乗るまでずいぶんお客様を紹介してもらった恩があると言っていた。彼は、根っからの親切な人間なのだ。
 たとえ「和かな」が男性だったとしても、今日までの流れには何も違いはないような気がする。
 食事をして打ち解けて、バーで仕事の話をして、約束通り営業に付き合ってくれる。疲れないようにと運転を申し出る。全部、下心がなくても成立する。
 そのどこかに下心があって欲しいと願うのは和嘉那がただただ彼を好きなだけで、彼は。

 水沢湛は。

 あまり自分を語らないから、気を許してくれているかどうもわからない。
 好きになってくれなくても、友人くらいには気にかけて欲しいのだけど、口実がなくなれば会う機会もなくなるだろう。

(引き留める方法も思いつかない……。まさか、いきなり告白しても迷惑だろうし)

 気まずい関係にしてしまえば「海の星」のメンバーにも申し訳が立たない。
 仕事で噛んでもらった以上、この先の取引にも支障が出かねない。
 彼が親切にしてくれればしてくれただけ、呆気ないほど素直に恋に落ちていくのに、状況はどんどんその恋を許さない方へと向かっている。
 何も知らないうちに、冗談でも「あなたみたいな人、好きです」と言っておけば良かった。もう無理なのだけれど。

 湛は、どこか目的があるみたいに車を走らせている。エンジン音までいつもと違って聞こえてくる。

「少し気になっていた店があって。予約入れてないんですけど、行くだけ行ってみますね」

 和嘉那の疑問を感じ取ったように、湛が前を向いたまま穏やかに言った。

「何から何までありがとうございます。貴重な休日を使って頂いて」
「いえ。楽しくてやっていますから。こちらこそ『和かな』の未来に関わらせてもらって感謝しています」

 彼は和嘉那を「岩清水さん」と呼ぶ。「和かな」というときは、それはブランド名であって和嘉那のことではない。それなのに、彼の声で名を呼ばれたようで、いちいち落ち着かなくなる。

「『海の星』もずいぶんお世話になったって聞きました。『椿屋』のお得意様を紹介して頂いたとか」
「こちらこそ、紹介した皆さんが喜んでくださっているので『海の星』の存在は有難いですよ。あいつら、あれできちんとお客様を見ていますからね。気難しい方を紹介してもきちんと満足して頂いているんです。俺の紹介と言えば、食前酒を出したりデザートを凝ったり、少しだけサービスもしてくれているみたいですし。それでファンになって通い詰めるひともいます。『良い店を教えてくれてありがとう』って言われることも多いんです」

 赤信号で停まったところで、湛が不意に和嘉那に目を向けた。

「有望そうな若者を見ると構いたくなるのは、俺もオッサンになったのかな、と」
(「和かな」に構うのも、その一環だと)

 吸い込まれそうな透き通る黒瞳に柔らかな光を浮かべて、微笑みかけられる。
 特別な感情などない、と釘を刺されたような気がした。だが、悪い気は全然しなかった。

 今の関係を壊さないまま、創作する人間として失望されないように。
 作り手として尊敬できる間柄なら、それ以上何を望むのかと。
 何せ、和菓子職人としての水沢湛の凄みは、先日「紫陽花」で思い知らされたばかりだ。
 あれほどの人に認めてもらえたなら、それを思い出に死ねるくらいの幸運だと思わなければ。

 恋をしない、恋を諦める理由を探し続けている。
 青信号になり、前に向き直って車を発進させながら、湛がひそやかな独り言のように呟いた。

「市内のお店を何軒かおさえたら、納品でも忙しくなりますね。岩清水さんは普段下界に下りてこないと『海の星』の奴らが言っていましたが……。今後はお会いする機会もありそうだ」 

 言われた意味を考えようとする。
 期待したくなる。
 喜びを溢れさせないようにと拳を握りしめて堪えている和嘉那に、湛は涼しい声で続けた。

「俺も普段はあまり休みを取らないんですけど。手が回らないようでしたら、工房に商品を引き取りに行くくらいはできますよ。運転は苦ではないので」
「そんな、納品までお手伝い頂くなんて」

 それはさすがに甘えすぎだと和嘉那が焦って言い募ると、湛は横顔に笑みを浮かべて言った。

「なんのために俺の知り合いの店を紹介していると。むしろ少しくらい俺が肩入れしていることはアピールして損はないです」
「何も。何も返せないです。そこまでして頂いても」

 右折車両の後ろについて停車した隙に、湛は素早く和嘉那に顔を向けて楽し気に言った。

「見返りは望んでいないんですけどね。もし気になるようでしたら、ご本人が『下界』に下りてきたとき、たまに俺と飲んでいただければ。先日のように楽しい時間を過ごせたら言うことないですね」

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