【改訂版】積年愛に囚われて〜兄的幼馴染は想いを秘め続けていた〜
 早くお茶を準備しなくてはと、踵を返そうとした私に幸恵は言った。

「私、切迫流産で入院していたんですよ」

 思いもよらなかった彼女の言葉に私は足を止めて振り返った。

「将司さんの赤ちゃんよ」

 幸恵はなぜか勝ち誇ったような顔をしている。
 私はさらに眉根を寄せた。

「そう……。それはおめでとうございます。でも、どうしてわざわざ私にそんなことを教えるんですか?もうあの人とは別れていて、私とは全然無関係なんですけど」

 そう言って今度こそ給湯室に戻ろうとした私に、幸恵はひどく低い声で言った。

「ダメになっちゃったの。赤ちゃん」

 私は息を飲んで幸恵を見つめた。
 彼女は、その時私の恋人だった将司の浮気相手だ。何回か彼と寝てできた赤ちゃんということなのだろう。その子が流れてしまったことは、かわいそうだとは思う。けれどそれ以上は、幸恵に対してかけるべき言葉は見つからない。一般的な慰めの言葉しか思いつかないが、それだって私が言うべき言葉なのかと疑問に思ってしまう。しかしいつの間にか、社会人としてのマナーのようなものがしみついてしまっているらしい。私は声を絞り出す。

「それは残念でしたね……。失礼します」

 私は彼女に背を向けた。

「大原さんのせいよ!」

 幸恵は突然荒々しい声を上げて、私の手首を掴んで強く引っ張った。
 彼女のその行動は予想していなかった。ぐらりと身体のバランスが崩れた。灰色の壁、非常灯の白い灯りが目に入り、同時に幸恵の叫び声が聞こえたと思った。次の瞬間には体が宙に浮いたような感覚があり、続いて全身に激しい衝撃を感じる。それを痛いと思う間もなく、私の記憶はそこでぷつりと途絶えてしまった。
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