ゆらりとときがきざむとき

【三幕】

 空気に冬の匂いが混じり始める季節になった。
 雅也は、集合時間よりも十分以上前に公園に着いていた。
 ベンチに腰掛けて、空を見上げる。

「空は今日も青いな……」

 一人、呟く。

「おはよう」

 空を眺めていた顔を戻すと、由良理が片手を挙げて挨拶をしている姿が視界に入った。由良理の隣には葵がいる。
 雅也は鼻を鳴らし、そっぽを向いた。昨日から浮かれっ放しの由良理の顔を見て、雅也は胸がズキッとするのを感じた。

 なによ、その態度は?

 由良理は眉を寄せて雅也の方を見たが、雅也はこちらを向こうとしない。葵は雅也の隣に座ると、仲良さそうに話を始めた。由良理はその場に立ったまま、欠伸をした。

「すまん、待たせたな」

 遅れて京介がやって来た。

「夜中にあっていたアニメを繰り返し見ていたら、いつの間にか朝になっていたから驚いたぞ」
「夜中に何をしてんのよ、まったく」

 呆れながらも笑って答える。これが由良理と京介にとって、日常とも呼べるものだった。つまらない話で盛り上がり、お互いの趣味に付き合ってやったり、夜中に学校に忍び込んで試験用紙を盗もうと企んだり、いろんなことをした。

 これは、信用できるからこそなのかもしれない。京介は変な奴だが、由良理はそんな京介のことを誰よりも信頼していた。真面目な顔をして相談をすれば、途端に真面目な表情で親身になって話を聞いてくれる。柊京介という人物は、そんな人間だった。

「ほら、早くしないと遅刻しちゃうよ」

 葵が急かすような口調で、由良理と京介に言った。

 坂を登り、正門をくぐる。下駄箱に着いて外履きから上履きに履き替える。ここで葵と別れ、由良理たちは三階にある自分たちの教室へと階段を上った。

 朝のホームルームが終わったあと、十希が三組の教室にやって来た。十希の姿を視界に捉えると、由良理はドキリとした。やはり、まだ顔を合わせるのは恥ずかしい。石化とまではいかないまでも、やはり身体は硬直している。

「おはよう、御剣さん」

 眼鏡越しに見える十希の瞳は、とても綺麗な輝きを放っていた。

「お、おはようございます」
「お前、なんで敬語なんだよ?」

 顔を逸らし、雅也の問いかけに無言で返す。

「今日からだね」
「――えと、何が……ですか?」

 言われたことの意味が分からなかったので、聞き返した。

「ダンスのレッスン、今日からだよ」

 すると十希は、ニコリと微笑みながら答えた。

「あ、ああ!」

 思い出し、由良理は大きく頷く。
 すっかり忘れていた。そうなのだ、今日からいよいよ、由良理にとって初となるダンスのレッスンが始まるのだ。そのことを実感すると、急に心配になってきてしまう。そんな表情をいち早く察知したのは雅也だった。

「大丈夫だ、お前が今日受けるのはストレッチクラスだろ? 周りはみんな初心者ばかりのはずだ」
「そうなの?」

 不安な表情で雅也を見詰める。
 すると雅也は顔を逸らして、さらに続けた。

「ストレッチクラスはストレッチだけしかしないんだ。ダンスを踊るのはまだ先だな。先ずは身体を柔らかくすることだけ考えろ」

 由良理は、身体が硬い。学校でも、運動部には所属などしておらず、身体は鈍りきっている。ちゃんと柔らかくなるのか心配だった。

「それじゃあまた後でね、雅也」
「おう」
「御剣さんも、またね」

 言われて、無言で頷いた。
 十希は一組の教室へ戻っていった。暫く、十希が出て行ったドアの方を眺めていたが、雅也がこちらを睨んでいるのが視界に入ったので止めた。

 それからあっという間に放課後になり、由良理は家に帰ってダンスのレッスンを受けるための準備をしていた。黒色のリュックに、昨日買ったばかりのダンスシューズとタオル、そして水筒を詰め込む。

「じゃあ、行ってくるね」
「恥かかないようにね、お姉ちゃん」

 元気よく言うと、葵が茶々を入れてくる。葵の言葉に眉をひそめながらも、由良理はそのまま家を出た。

 ダンススクールに到着すると、階段をゆっくりと上っていった。一段上がる度に胸の高鳴りが強まるのを感じる。
 これは、初めてのダンスレッスンに対する緊張からなのだろうか、それとも――。

「――あ、由良理」

 出迎えたのは十希ではなく、雅也だった。

「なんで雅也がいるのよ」

 雅也は上級クラスのはずだった。それなのに何故、ストレッチクラスにいるのだろうか。

「このダンスマスターズは、自分の好きなクラスで受けることが出来るんだ。だから俺がここにいるのは俺の勝手だ」

 勝ち誇ったような顔をする。
 因みに、ダンスマスターズというのは十希の母が経営するこのダンススクールの名前である。スタジオには雅也の他にも、数人のレッスン生がストレッチをしていた。ストレッチクラスなのだから、今ストレッチをする意味があるのかと由良理は疑問に感じたが、深く考えないことにした。

「で、このクラスは基本的にどんなことをするの?」

 由良理は雅也に問いかけた。

「ダンスを踊ったり、振り付けしたりすることはないんでしょ?」
「そうだ。このクラスは、純粋にストレッチだけを目的としたクラスだから、身体がめちゃくちゃ硬い由良理には打ってつけだな」

 口元で手をひらひらさせながら答える。

「なんかムカつく言い方ね」
「気のせいだ、気のせい」

 由良理は改めて、スタジオ内を見回してみた。自分と一緒にレッスンを受ける人たちの中に、男性がいないことに気づいた。

「ねえ、ストレッチクラスって男子はいないの?」
「そうみたいだ」
「そうみたいって……」

 レッスン開始の時間が迫ると、階段から若菜が下りてきた。

「あら由良理ちゃんいらっしゃい」

 由良理はペコリと頭を下げる。

「着替えるときは、そこの部屋を使ってね」
「はい」

 案内されたのは、女子専用の部屋だった。ストレッチクラスには男性は一人もいないので、ぎゅうぎゅうだった。着替え終えて部屋から出ると、スタジオ内を一瞥する。十希の姿はなかった。

「やっぱり、いないのね」

 ぽつりと、呟いた。
 予想していたことだが、上級クラスの十希がストレッチクラスに顔を出すはずがなかった。その点、雅也がいたのは助かった。ひとりで、それも知らない人の中に混ざってストレッチをするのは相当の度胸が必要だった。知り合いが同じクラスにいれば孤独になることもないだろう。

 やがて、レッスンが開始した。

「それじゃあ、私の動きを真似してねー」

 鏡の前に立つ若菜の後ろに並び、ゆっくりと同じ動作を繰り返す。
 物凄くゆっくりな動きだ。そのため、とても長い時間を掛けて一つの作業をこなす。上半身を柔らかくするためのストレッチのために身体を少しずつ捻ると、そのまま右手を左足の踝を掴む。そして左手は天井に向けて突き出す。さらにゆっくりと身体の向きを変えて、今度は逆のパターンを行なう。

 疲れる。半端じゃなく疲れる。
 こんなゆっくりとした動きを繰り返しているだけなのに、由良理の身体からは汗が怒涛の如く噴出していた。

 暑い、きつい、身体が麻痺したように痺れている。
 きっと、ストレッチしていて身体を伸ばしすぎたせいだ。

 足の感覚が無くなりつつあるような感じがする。じんじんしている。たかがストレッチをしているだけなのに。
 そう、たかがストレッチでこんなに疲れるなんて、思ってもみなかった――。

「三分休憩ね!」

 若菜の声が聞こえた時すでに、由良理はふらふらになっていた。

「て、天の助け……」

 やっと、休める。
 床に尻餅をつくと、そのまま両手を後ろについて息を吐いた。

「へばりすぎだ」

 雅也が横から声を掛けてくる。雅也の顔を見ると、涼しそうな表情をしていた。それどころか、むしろこれからが本番だと言わんばかりの快活さに満ち溢れているように感じられる。実際、その通りだったのだが、由良理には文句を発するほど元気ではなかった。

 いつからそこにいるのか気づかなかったが、階段に座り込んで見学をしている十希の姿を確認することが出来た。
 ただ今の由良理には、石化する気力すら残っていなかった。

「根性無し」

 さらにきつい一言が飛んでくる。

「もっと体力付けた方がいいかも……」

 階段から下りてきた十希からも言われてしまい、由良理は思い切りへこんだ。学校で先生に怒られても決してへこたれなかったのだけが自慢だったが、それが一瞬にして崩壊したような雰囲気を味わってしまった。

「ちょっとは十希を見習ったらどうだか……」

 雅也が言う。

「はあ?」

 意味がわからず、間抜けな声で聞き返す。

「十希はな、毎朝ランニングをしてんだよ。ダンスを踊るのは相当なスタミナが必要だから、体力トレーニングは当然だな」
「今の、本当ですか……?」

 十希の方を見て問いかける。

「うん、その代わり勉強の方が疎かになってるけどね」

 笑いながら答える。

「……雅也も、トレーニングとかしてるの?」
「俺はする必要ない」
「はあ? なんでよ」
「だって――」

 言いかけて止める。

「とにかく、体力くらい付けろよな」
「う、うぅ……」

 低く唸る。
 結局、ストレッチクラスのレッスンではダンスシューズを履くことは一度もなかった。これなら買う必要もなかったのではないかと思ったが、さすがにそんなことを言えるほど由良理は度胸がなかった。

 レッスンが終了すると、若菜が近づいてきた。

「お疲れさま、由良理ちゃん」
「あっ、はい……」
「レッスンはどうだった?」
「えと、その――」

 どう答えればいいのか分からなかった。ストレッチ自体はとてもきつかったのだが、ダンスを一度も踊っていない。二時間ぶっ続けでストレッチをしていたのだ。それではさすがに疲れ果ててしまう。

「た、楽しかった、です……」

 元気のなくなった顔で無理矢理に笑顔を作って答える。若菜は微笑を浮かべると、

「あと何度かストレッチクラスでレッスンを受けたら、初級クラスでダンスを踊っても大丈夫だと思うわ」

 まるで由良理の心を見透かしたような台詞を残して、階段を上っていった。

「不知火くん、それじゃあ……」
「うん、また明日学校でね」

 勇気を振り絞り十希に挨拶をすると、由良理はスタジオを後にした。家の方向が同じなので、雅也とふたりで帰る。

「ふう……」

 由良理はため息を吐く。
 今日のレッスンはひどく疲れた。たぶん、明日は筋肉痛だろう。授業中に惰眠を貪って、英気を養わなければいけない、と思った。

 雅也は、無言だった。
 空は暗闇に包まれていた。月明かりに照らされながら、二人は歩き続けた。

「じゃあ、また明日ね」
「……ふん」

 雅也の家の前に着いて一言告げて別れると、由良理は家に向かった。
 空に輝く一つの月は、とても綺麗だった。

     ※

 翌朝、由良理は五時に起きた。

「眠っ……」

 のろのろと着替える。静かに階段を下りる。母と妹はグッスリと眠っているらしく、階段を下りるときに鳴る音に気づかない。靴を履いて、玄関を開ける。夜明け前なので外はひどく寒い。

「ちょっと早く起きすぎたかな」

 由良理は、今日これから、早朝ランニングをすることにしていた。昨日のストレッチクラスでのレッスンを体験することによって、自分自身がどれだけ体力がないのかを実感したのだ。運動をしていないので当然といえば当然なのだが、このままでは十希に格好いいところを見せることができない。

 それに、雅也に笑われるのもあまりいい気分ではない。もっと体力をつけて、ダンスを踊れるようになって見返してやろうと思ったのだ。運動用のジャンパーを着込んで、ゆっくりとしたペースで坂を登っていった。

「き、きつい……」

 一時間ほど、たっぷりと走りこんだ。お陰さまで、由良理は今日一日、授業中居眠りを続けていた。そして昼休み、由良理は日課になっている図書館へ足を運ぶことさえも忘れるほどに疲れていた。

「いつもよりも眠そうな顔してるな……」
「気のせいよ、気のせい」

 そう言いつつも、由良理は欠伸を連発している。
 これは、誰にも秘密にしておきたかった。

 影で努力することなど、格好悪いことだと由良理は思っていた。だから、一人だけの秘密だ。ストレッチクラスでへばっていては、実際にダンスを踊る時になればきっと途中で倒れ込んでしまうに違いない。

 もっと、体力をつけよう。
 由良理は決心していた。

 それからも暫くは、ストレッチクラスで身体の柔軟をすることで少しでも身体を柔らかく、そして朝はランニングを続けていた。
 不知火十希の前で、無様な姿は見せられない。それだけが、由良理を突き動かす唯一の理由だった。

     ※

 十二月も下旬になると、外の空気は白銀を彩っていた。

「寒いな」

 京介は呟いた。

「当たり前でしょ、十二月なんだから」

 今は丁度試験期間で、由良理でも勉強をせざるを得ない状況だった。

「こんな日は、コタツの中で蹲ってフィギュアでも眺めるのが一番だと思わんか?」
「文句垂れる暇があったらちゃんと勉強しとけ」

 雅也が由良理を睨みながら告げた。

「ちょっと、文句言ってるのは京介でしょう」
「京介は勉強できるからいいけど、お前はできないだろ」
「うぐっ」

 雅也と京介は、由良理の部屋にいた。三人で勉強会を開いていたのだ。雅也と京介は勉強ができるのだが、今まで真面目に勉強をしていなかった由良理のためにわざわざ勉強会を開いたのだ。
 由良理は雅也の方を睨んだ。

 しかしその日は充実していた。勉強だけだったが、眠くならなかった。

「それじゃあ俺、そろそろ帰るから」
「ええ、ありがとね」
「……これで赤点取ったりでもしたら、目の前で何度もため息吐いてやるからな」
「怖いこと言わないでよ、まったく」

 雅也は背中を向けたまま手を振り、玄関を出て行った。

「俺も帰るかな。もうすぐアニメが始まるからな」
「京介はアニメ以外のことに興味を見出せないわけ?」

 苦笑しながら答える。
 京介も帰った。その後、由良理は一人で少し勉強してから寝た。

     ※

 試験はなんとか無事に終了し、赤点は英語と数学の二つに抑えることができた。普段の由良理からすれば立派だが、雅也にため息を吐かれたのは言うまでもない。

「もうすぐ冬休みね……」

 屋上で出て、由良理は空を見上げながら呟く。横には雅也がいる。

「そうだな」
「この時期って、他の高校を受験する人にとっては大変よね」

 由良理はエスカレーター式に神楽坂学園の高等部に進む予定なので、受験をする必要がなかった。それは、雅也はもちろんのこと京介や十希も同じだった。

「受験組なんて、ここよりも頭のいい高校を受けるんだから、少しくらい大変な目に遭った方がいいんだよ」

 肩を竦めながら答える。

「まあ、確かにそうかもね」

 その答えに、由良理は微笑を浮かべながら答えた。

 そしてもう一度、空を見上げてみる。
 どこまでも続く、青い空があった。
 この先にはいったい、何があるんだろうか。

「――ダンス、上手くなったな」

 穏やかな沈黙を破り、雅也が言葉を発した。

「んあ?」

 間の抜けた声で返事をする。

「ダンスのことだ」
「ああ、はいはい」
「習い始めた頃は、身体も石みたいに硬かったのに、最近じゃ結構柔らかくなったみたいだし、驚いたぞ」

 雅也に褒められるとは思わなかったので、少しドキリとした。

「影ながら努力してるからね」

 笑ってごまかす。
 由良理は、自分の体力のなさを実感して以来、毎日欠かさず早朝ランニングと軽めの筋トレを続けていた。その甲斐もあってか、由良理は一週間ほど前にストレッチクラスよりも一つ上のクラスに上がっていた。

「初級クラスはどうだ?」
「まあ、ぼちぼちかなぁ。上級クラスに比べたら底辺もいいとこだけどね?」

 苦笑いしながら答えた。

「……途中で止めたりするなよな」
「え?」

 聞き返すと、雅也は自分が言った言葉に慌てたように顔を逸らした。

「ほ、ほら! 十希がせっかく誘ったのに、止めたりでもしたら悲しむだろ!」
「今回は途中で投げ出したりなんかしないよ。絶対に」

 芯の通った瞳を雅也に向ける。雅也は一瞬ひるんだ。

「そっか、それならいいけど……」
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