ゆらりとときがきざむとき
【五幕】
「雅也くん、こっちだよー!」
葵の声が、水面公園の入り口に木霊する。
「ごめんな、葵ちゃん。遅れちゃって」
「いいよ、気にしなくて。お姉ちゃんも毎日寝坊してるから、おあいこだよ!」
元気よく由良理のことをバカにする。
「元気があっていいものだな」
京介が由良理に話しかける。
「そう? わたしには鬱陶しいだけの存在だけど」
「バカめ! 妹がいるというだけで、どれだけのステータスがあると思っているんだおまえは! お前が男であれば羨ましいと涙したに違いないぞ!」
口調が真面目なだけに、由良理は苦笑いするしかない。
「全員揃ったみたいだね」
十希が声を出す。みんなが振り向く。
「それじゃあ、行こう」
「うむ」
京介が言った。
※
水面祭りは、盛況だった。
いつもは寂れた公園なのに、今日だけは雰囲気が違う。公園内にぎゅうぎゅうになって建てられた屋台が道を連なる。人々が行き交い、楽しげな声が聞こえてくるようだった。
そして、水面公園の一番奥に、それはできていた。
「おおー、大きいじゃないか」
京介が声を上げる。
由良理たちの目の前には、大きな舞台が作られていた。今夜限りの、特設舞台だ。そこに立つのは他でもない、自分である。そのことを実感すると、由良理は急に怖くなった。こんな大きな舞台だとは思わなかった。それに、これだけ多くの人がいる前で踊るほどの度胸はなかった。足が、震えた。ついこの前までは、踊っている途中で失敗して恥をかくかも知れないということに対してのみ心配していた。
しかし、自分が十希と一緒にダンスを踊るであろう舞台をいざ目の前にしてみると、急に息苦しくなってきた。
「由良理、どうかしたか?」
由良理の顔色が変わったのをいち早く察知したのは雅也だった。
「――い、いや、別に」
平常心を保とうと笑ってみせるが、たぶん、顔は引きつっているだろう。由良理には分かっていた。
「ここで、この舞台で、もうすぐ踊るんだね」
十希が言った。それに反応するように、みんなが十希の方を向いた。
「ここで踊るのも、七年振り……」
ぽつりと、呟く。
「はて? 十希は前にも、ここで踊ったことがあるのか?」
京介が問いかける。
「うん、そうだよ。僕が八歳の時だったから、ちょうど七年前になるね」
「七年前、ここで、踊った……?」
由良理は、なにかが頭の中に引っ掛かるのを感じた。しかし、嫌な声がそれを考えるのを遮った。
「あら、来てたんだ?」
振り向くと、相良が立っていた。見知らぬ男子が寄り添って立っていた。
「ああ、いたのか」
雅也がぶっきらぼうに答える。その態度に、ふんっ、と鼻を鳴らす。
「十希くん、あたしを選ばなかったことを後悔しないでね?」
そう言うと、相良は由良理の方を一瞥した。由良理は睨み返すが、十希の声を聞いて視線を移した。
「僕は御剣さんのことを信じてるから、後悔なんてしないよ」
芯のある、透き通った声だった。
「えっ……」
驚いたのは、由良理だけではなかった。雅也も、由良理と同じように驚きを隠せなかった。
「精一杯頑張ったから、後悔なんて絶対にしない」
十希は少しだけ、頬を赤く染めているように見えた。
「……」
由良理は、十希を見ていた。そして、そんな由良理の様子を、雅也は見つめていた。
「せ、精々本番でミスをしないことね」
逃げるように台詞を吐くと、彼女はその場から立ち去った。
「なんだあいつは、阿呆か?」
京介が沈黙を破る。
「バカ、阿呆は京介よ」
由良理が突っ込む。
「バカはお姉ちゃんでしょ」
便乗するように、葵が突っ込んだ。
沈黙は、すぐに解けた。
それぞれに、柔らかな笑みが浮かんでいた。
※
舞台裏に向かうと、若葉がいた。
「十希、登録を済ませるからこっちに来てー」
「みんな、ちょっと時間かかると思うから屋台とか見てて」
言うと、十希は若葉の許に向かった。
幼なじみ同士が、その場に残される。
「よしっ! 葵くん、俺と一緒にすべての屋台を制覇しようではないか!」
「――はい?」
いきなりの台詞にびっくりした葵だったが、その意味にすぐ気がついた。
「そだね! ということでお姉ちゃん、雅也くん、あとよろしく!」
気を利かせたのか、二人はそそくさと先に進んで行った。が、すぐに屋台の通りから逸れて、由良理と雅也の後方に身を潜めた。
「京介くんも、気が利くんだね」
「俺は頭がいいからな。あいつらの関係くらい、とっくの昔にお見通しだ」
「へえ、変態なのに」
悪気もなく言い放つ。
「はっはっは、葵くんに言われるとゾクゾクするなあ!」
聞いて、葵は京介のことを本物の変態だと悟った。
ふたり残された由良理は、どうするか悩んでいた。しかし、由良理以上に雅也は緊張していた。
「時間もあるし、わたしたちも屋台でも見る?」
不自然なほど大きな声で、そう言った。
「……」
雅也は俯いた。
「雅也、行かないの?」
「――相手が違うだろ」
少し、悩むような表情を見せたが、雅也はそう答えた。
「へ?」
「十希が戻ってきたとき、誰も待ってなかったら可哀想だろ。俺はいいから、十希のところに行ってこいよ」
「で、でも雅也は……」
由良理の言葉を遮るようにして、雅也が声を出す。
「京介たちを探すよ」
「――いいの?」
由良理が聞く。
その言葉が、雅也の心にひどく響いた。心が痛む。
「早く行ってこい」
「う、うん……」
十希の許へ行こうとして、立ち止まる。
「雅也」
振り向くと、雅也の名前を呼んだ。
「なんだよ」
「ありがとう」
言うと、十希の許へ走っていった。その場に立ち尽くす雅也。すると、そばに隠れていた京介と葵が雅也に近づいた。
「雅也くん――」
葵が声をかけようとして、止める。見れば、雅也は両手の拳をギュッと握っていた。
「雅也、頑張ったな」
京介は、気づいていたらしい。雅也の気持ちに。
「……今日だけだ。今日だけは、由良理のペアを譲る。でも、俺は諦めないから……」
雅也は、十希の許に向かっていく由良理の後姿を見つめながら呟いた。
「由良理に愛想をつかした時は、いつでも俺が慰めてやろう」
「なんでお前に慰められなきゃならないんだよ。ってか、俺たち男同士だろ!」
「お前は性格がアリスに似ているからな」
「アリス?」
「うむ。アニメヒロインの――」
言葉を遮り、雅也と葵のグーが飛んだのは言うまでもなかった。
※
「あら、由良理ちゃん」
若葉が声をかけてきた。
「こんにちは、先生」
先生というのは若菜のことで、不知火と呼べば十希と見分けがつかないし、だからといって名前で呼ぶのは恥ずかしいので自然とそう呼ぶようになった。
「御剣ちゃん、他のみんなは?」
「屋台を見に行きました」
「御剣ちゃんは一緒に行かなかったの?」
「え、まあ……」
「じゃあ、僕と一緒に行こう」
「登録は――」
「もう終わったよ」
ニコリと微笑む。
「は、はい……」
十希の後をついていく。
ふたりは、屋台を見て回った。由良理の心境はドギマギしていた。
もうすぐ、ダンスの舞台があるから、こんなことをしている場合ではないことくらい分かっている。空いてる時間に少しでも練習を重ねて、本番に備えておきたい。
しかし、その気持ちとは裏腹に、今の状況を楽しんでいる自分がいる。
十希とふたりで、祭りを楽しんでいる自分が、そこにいた。少し前まで、考えることすらできなかった光景。話すことすらままならなかった相手。十希は、由良理のことを色んな意味で成長させた。
「あの――」
喉の底から踏ん張り、声を上げる。横に立っていた十希が、顔を向ける。
「さっき、七年前にも水面祭りで踊ったって言ってましたけど……」
「ああ、うん。そのことがどうかした?」
「えっと、その時――不知火くん、ひとりで踊ってませんでしたか?」
「うん、そうだよ」
少し、驚いたような表情で答える。
「赤い衣装で……」
「すごい! なんで知ってるの?」
「あの時の舞台、わたしも見てましたから……」
「そうだったんだ! なんか、凄い偶然だね」
「はい」
楽しそうに笑う十希を見て、由良理はさらに言葉を続ける。
「赤色、好きなんですか?」
今回、由良理と十希が舞台でダンスを踊る衣装は、普段着である。十希は赤いシャツに膝までしかない白のジーパンを穿いていた。
「赤は躍動の色でもあり、情熱の色。そして、黄昏の色でもある。ダンスを踊る上で、これほど似合う色って中々無いよね」
微笑む。そして十希は続ける。
「何事も、楽しまなきゃね?」
十希の笑顔を見て、由良理は決心した。間も無く始まる、ダンスの舞台を、絶対に成功させようと――。
※
出番は、すぐに回ってきた。
由良理と十希がいるのは水面公園に期間限定で特設された巨大な舞台の裏。そこで、自分たちの出番を待っていた。現在、舞台で踊っているのは相良佐奈のペアだった。
「やっぱり上手……」
ぽつりと呟く。しかし、弱気にはなっていない。むしろ、やる気が沸いてくる。自分の隣には十希がいる。横を見れば、十希が微笑みかけてくれる。それだけで、由良理の緊張は和らいだ。
歓声が沸いた。
彼女がダンスを踊り終えたらしい。優勝候補筆頭に相応しい、完璧で、完成度の高い踊りだった。
「いよいよだね」
十希が話しかける。
「そうですね……」
「緊張してる?」
「――少しだけ」
ほど良い緊張が身体中を駆け巡っているような気分だった。
「大丈夫だよ、御剣さんは毎日頑張ってたもん」
そう言うと、十希は由良理の手を握った。
「僕たちにとって、初めての舞台だね」
「は、はい……」
手を握られ、恥ずかしくて石化しそうになった。しかし、
「――みんなが、待ってるよ」
十希の言葉によって、それは自然に消えていた。優しく微笑みかけてくるその瞳には、由良理の緊張を和らいでくれるものが存在した。舞台袖から見える、観客の人たち。
みんなが、自分たちを待っている。
自分たちのダンスを、待っているのだ。そう思うと、ドキドキもしていたし、ワクワクもしてきた。由良理にとって初めての舞台。それは、十希とふたりで幕を開けた。
ふたりが踊るのは、ハイスクールミュージカルという映画で、トロイとガブリエラが歌った『ブレイキング・フリー』という曲だった。
トロイとガブリエラは、舞台に立った。
ガブリエラには、観客の前で歌う度胸がなかった。思うように声が出ない。曲調は止まり、すぐさまトロイが駆けつける。
こんなに大勢の前では歌えない。ガブリエラは涙ながらに告げた。しかし、トロイの瞳には迷いなど存在しない。
ねえ、僕を見て、僕だけを。最初に歌った時みたいに。幼稚園の、時みたいに……。
彼女の心に優しくそっと触れる。それは、とても温かかった。温もりを感じる。再び、音楽が流れ始める。ピアノの甘く切ない曲調が、トロイとガブリエラ、二人だけの舞台を彩るのだ。
二人は見詰め合い、手が触れ合う。
僕らは飛び立ち舞い上がる。
この手に届かぬ星はない。
手を伸ばせば、扉が開く。
互いを信じる二人は、手を繋ぐと舞台の真ん中に歩み出した。まるで全てのものを覆うかのような淡く輝くその心は、触れると一瞬で壊れてしまいそうなほど、脆い。やがて触れ合っていた手は引き裂かれる。
この世界が知っているのは僕らの本当の姿じゃない。
ふたりの間を引き裂いて引き離すこともある。
でも、ふたりの絆が信じる強さをくれた。
自由へ!
飛び立ち、舞い上がる。
この手に届かぬ星はない。
手を伸ばせば、あの扉が開く。
自由への扉が。
曲調はガラリと変化を遂げ、トロイとガブリエラの心の中に闇を作っていた不安という影は、いつの間にか消え去っていた。
海が抑えきれないほど沸き上がる波を感じる?
強い強い感情が魂から沸き上がる。
高く高く舞い上がり世界中に伝えよう。
自由へ!
飛び立ち、舞い上がる。
この手に届かぬ星はない。
手を伸ばせばあの扉が開く。
自由へ。
二人は寄り添い、そしてお互いの夢を語り合う。それは希望でもあり、幻想でもある。信じることで、それはきっと叶うはずだと思っていた。
もう、限界だった。
かれこれ、二分以上は踊り続けている。リハーサルのときは難なく踊れていたはずなのに、いざ舞台で踊るとなるとこんなにも違うものなのだろうか。
緊張が身体の動きを鈍らせ、さらに体力を奪っていく。息が上がってしまう。足がもつれる。このままでは十希に迷惑を掛けてしまう。
隣で踊っている彼は、未だ元気に踊り続けているというのに、わたしは体力の限界に近い。なんて情けないんだ。
でも、わたしは頑張った。
そろそろ、倒れてもいいだろう。
これだけ頑張ったんだから不知火くんも許してくれるはずだよ。
倒れるのが舞台の上ってのはちょっと恥ずかしいけど、仕方ないよ。だって、わたしには残り一分も踊る体力が残っていないから。
二人が踊り奏でるメロディは、終盤に差し掛かっていた。途中、一瞬だけ動きを止めるシーンがある。曲に合わせてポーズを決めるシーンだ。ようやくそこまで辿り着いたが、もう限界だった。ポーズを決めて、そのまま倒れてしまいたい。そう思っていた。だけど、由良理は知ってしまった。
「――――っ!?」
由良理と十希が踊るのを止めて一瞬だけポーズを決めたときだった。
由良理は初めて、観客席に座っている人たちの表情を視界に捉えた。
その表情は、歓喜に溢れているものばかりだった。ふたりのダンスを見て、自然とリズムに乗り、次はどんな踊りを見せてくれるのか、そんな期待に満ち溢れた目をしている。みんなが、見てくれているんだ。
瞬間、由良理は十希の方を振り向いた。彼女は息を切らさず笑顔で観客席の方を見ている。まだまだ踊れるらしい。
そうだ、忘れていた。
わたしは、ダンスを踊るとき一番大事なことを忘れていた。不知火くんに教えてもらったこと、それは笑顔を絶やさないことだ。どんなに辛くても、体力がなくなって限界が近くても、笑顔を絶やしてはダメだと、彼は言っていた。
そんな表情で踊れば、観客も見ていて詰まらなくなってしまう。だから、絶対に笑顔で踊ろう。彼女は教えてくれたじゃないか。
観客席の方に視線を戻す。観客たちの視線を受け、由良理は笑顔を取り戻した。
そうだ、まだ大丈夫。まだ頑張れる。まだ踊り続けてやる。
自然と、力が沸いてきた。つい先ほどまで体力の限界だったはずなのに、それも忘れてしまうほどの勇気が溢れてくる。
もっと、自分の踊る姿を見て欲しい。
もっと、この人たちを魅了させたい。
もっと、ダンスを踊りたい。
ふたりのメロディが再び音を奏でるのを再開したとき、由良理は無我夢中で踊り続けた。
走り続け、登り続けよう。
すべての可能性を実現するために。
今が、その時。
飛び立とう。
自由へ!
希望、なんかじゃない。
これはもう、運命。
ふたりならやり遂げられる。
大切なのはひとりじゃなく、ふたりが自由になること。
飛び立ち、舞い上がる。
この手に届かぬ星はない。
手を伸ばせば自由への扉が開く。
走り続け、登り続けよう。
すべての可能性を実現するために。
今こそ、その時。
飛び立とう。
自由に向かって。
二人は永遠の誓いを交わす。自分たち以外の何物にも囚われることのない、互いを信じ合う心を持つことを。
この世界が知っているのは僕らの本当の姿じゃない。
きっと……
メロディが終焉を迎えたとき、観客席からは大きな拍手と、アンコールの声が聞こえてきた。踊り終えた由良理が十希の方を見やると、彼も視線に気づいたらしくわたしの方を振り向いて微笑み掛けてくれた。
「……はぁ……はぁ……」
一曲、最初から最後まで踊り終えた。
由良理は肩で息をして、正面を向いている。
自分の目の前に広がる光景、それは今までに体感することのなかった素晴らしさを与えてくれるものだった。
自分たちのダンスを見て、感動して、スタンディングオベーションでの鳴り止まない拍手と歓声の数々が、由良理の心を震わせた。
「――これが、ジャズダンス……」
横を振り向く。由良理と同じように正面を向いてポーズを決めている十希の姿が目に入った。
こちらに気付き、柔らかく微笑みかけてくれた。
その時、由良理はこの光景を何処かで経験していたような気がした。
十希の柔らかな笑みは、とても可愛かった。
目を奪われた。そして、心も――。
※
「あの……」
舞台を降りると、由良理は十希に話しかけようとした。しかし、それに続く言葉が思いつかない。いつものことだ。しかし、今日は違っていた。
十希の方から、話し掛けてきた。
「御剣さんと一緒に踊ることができて、本当に良かったよ」
「えっ――」
言うと同時に、十希は由良理の手を握った。
「あ、あの、その……」
恥ずかしくて顔を真っ赤にする。湯気が出ているのではないかと思うほど緊張した。だが、緊張していたのは由良理だけではなかった。
「ありがとね」
その言葉に、由良理は固まった。
十希の表情は、由良理のそれとまったく変わらなかった。
頬を朱に染め上げて、紅潮している。多分、由良理と同じくらい胸がドキドキしているのかもしれない。それはダンスを踊りきった後だからかもしれないが、もしかしたら別の理由でそうなったのかもしれない。真意は分からないが、それでいいと思った。由良理は、十希と出会えたことを心から感謝した。
そして、ジャズダンスとめぐり合わせてくれたことにも感謝した。
「お疲れ様」
十希は柔らかい笑みを浮かべている。その表情に、由良理は戸惑った。
やっぱり不知火くんは格好いい。とてつもなく格好いい。由良理は彼と踊ることが出来て、本当に良かったと思う。
「賞、取れるかな」
聞くと、不知火くんはクスっと笑う。
「そんなものいらないよ」
「え、なんで」
「だって、僕たちは賞が欲しくてダンスを踊ってるわけじゃないよね?」
言われて、そうだったと気づいた。
よく考えてみればそんなことはどうでもいいことだった。
「ダンスっていうのはね、どれだけ楽しく踊ることが出来るかが一番重要なんだよ。自分自身が満足すれば、それでいいんじゃないのかな」
彼は告げた。由良理も、その通りだと感じた。
観客の人たちの視線を浴びたとき、由良理は心底楽しかった。もっと、この人たちをドキドキさせたい、そう思っていた。由良理たちの踊りに、観客の人たちが満足して、そして自分たちも満足する。それだけで幸せな気持ちになってしまう。
「観客席の皆様は、アンケート用紙にご記入をお願いします」
司会の声が聞こえる。
やがて、賞の受賞が開始された。
「最優秀賞は、相良佐奈さんです!」
大きな拍手が巻き起こる。
当然、といった表情で佐奈は由良理の方を見やる。
賞を取れなかったのは少しだけ残念だった。でも、わたしは満足している。だって、不知火くんと一緒にジャズダンスを踊ることが出来たから。
「――それと今回はもう一つ、観客アンケート賞を設けました」
「えっ」
司会者のその言葉に、思わず振り向いてしまった。まだ、賞があったらしい。もしや、と思い、由良理は十希の方を見ると、十希は由良理の方を見てニコリと微笑んだ。
「観客アンケート賞を受賞したのは、御剣由良理さんと不知火十希くんです!」
声が、響いた。
その言葉を聞いたとき、由良理は気づいた。
十希は、予めこうなることを予想していたかのように微笑んでいる。司会者から舞台に呼ばれると、十希が席を立ち上がる。そして、由良理に手を差し伸べてくれる。
「さあ、出番だよ」
「で、出番……?」
言ってる意味が判らず、首を傾げる。
十希の手を握ると、優しく握り返してくれたので心が安心する。そして、由良理と十希はゆっくりと舞台へと上がった。
「では、今回一番観客の心を掴んだお二人に、もう一度踊って頂きましょう!」
言われて、初めて気づいた。
そうか、不知火くんはこのことを言っていたらしい。
「まだ、踊れるよね?」
上目遣いに由良理を見てくる。もちろん、由良理は頷いた。もう一度、十希と一緒に踊ることが出来るだけで、鼓動は高鳴る。
「し、不知火くん!」
由良理は十希の名前を呼んだ。
「どうしたの、御剣さん?」
十希が振り向き、首を傾げる。
次に続く言葉を発するには、勇気が必要だった。今まで生きてきた中で、由良理は一番緊張したかもしれない。それほど、由良理にとって大事なことだった。
「また、わたしと一緒に……踊ってくれますか?」
「――うん、よろこんで」
ふたりは見つめあい、そして微笑みあった。
その様子を、雅也と京介は見守っていた。
「俺、もう帰るから」
雅也は京介に言い残し、その場から去ろうとした。
「――雅也」
京介が呼び止める。
「なんだよ、まだなにか用があるのか?」
京介は、振り向いた雅也の胸に握りこぶしを軽くぶつける。
「頑張れよ、幼なじみ」
「……うるせえ」
その一言に、どれだけの意味が込められているのかが痛いほどに分かる。だからこそ、雅也は強がって見せた。
「こんなの、いつものことだよ……」
目元が緩む。涙が溢れてくるのを感じる。
京介が微笑を浮かべる。
「京介」
「なんだ」
「――ありがとな」
その声は、小さく木霊した。
葵の声が、水面公園の入り口に木霊する。
「ごめんな、葵ちゃん。遅れちゃって」
「いいよ、気にしなくて。お姉ちゃんも毎日寝坊してるから、おあいこだよ!」
元気よく由良理のことをバカにする。
「元気があっていいものだな」
京介が由良理に話しかける。
「そう? わたしには鬱陶しいだけの存在だけど」
「バカめ! 妹がいるというだけで、どれだけのステータスがあると思っているんだおまえは! お前が男であれば羨ましいと涙したに違いないぞ!」
口調が真面目なだけに、由良理は苦笑いするしかない。
「全員揃ったみたいだね」
十希が声を出す。みんなが振り向く。
「それじゃあ、行こう」
「うむ」
京介が言った。
※
水面祭りは、盛況だった。
いつもは寂れた公園なのに、今日だけは雰囲気が違う。公園内にぎゅうぎゅうになって建てられた屋台が道を連なる。人々が行き交い、楽しげな声が聞こえてくるようだった。
そして、水面公園の一番奥に、それはできていた。
「おおー、大きいじゃないか」
京介が声を上げる。
由良理たちの目の前には、大きな舞台が作られていた。今夜限りの、特設舞台だ。そこに立つのは他でもない、自分である。そのことを実感すると、由良理は急に怖くなった。こんな大きな舞台だとは思わなかった。それに、これだけ多くの人がいる前で踊るほどの度胸はなかった。足が、震えた。ついこの前までは、踊っている途中で失敗して恥をかくかも知れないということに対してのみ心配していた。
しかし、自分が十希と一緒にダンスを踊るであろう舞台をいざ目の前にしてみると、急に息苦しくなってきた。
「由良理、どうかしたか?」
由良理の顔色が変わったのをいち早く察知したのは雅也だった。
「――い、いや、別に」
平常心を保とうと笑ってみせるが、たぶん、顔は引きつっているだろう。由良理には分かっていた。
「ここで、この舞台で、もうすぐ踊るんだね」
十希が言った。それに反応するように、みんなが十希の方を向いた。
「ここで踊るのも、七年振り……」
ぽつりと、呟く。
「はて? 十希は前にも、ここで踊ったことがあるのか?」
京介が問いかける。
「うん、そうだよ。僕が八歳の時だったから、ちょうど七年前になるね」
「七年前、ここで、踊った……?」
由良理は、なにかが頭の中に引っ掛かるのを感じた。しかし、嫌な声がそれを考えるのを遮った。
「あら、来てたんだ?」
振り向くと、相良が立っていた。見知らぬ男子が寄り添って立っていた。
「ああ、いたのか」
雅也がぶっきらぼうに答える。その態度に、ふんっ、と鼻を鳴らす。
「十希くん、あたしを選ばなかったことを後悔しないでね?」
そう言うと、相良は由良理の方を一瞥した。由良理は睨み返すが、十希の声を聞いて視線を移した。
「僕は御剣さんのことを信じてるから、後悔なんてしないよ」
芯のある、透き通った声だった。
「えっ……」
驚いたのは、由良理だけではなかった。雅也も、由良理と同じように驚きを隠せなかった。
「精一杯頑張ったから、後悔なんて絶対にしない」
十希は少しだけ、頬を赤く染めているように見えた。
「……」
由良理は、十希を見ていた。そして、そんな由良理の様子を、雅也は見つめていた。
「せ、精々本番でミスをしないことね」
逃げるように台詞を吐くと、彼女はその場から立ち去った。
「なんだあいつは、阿呆か?」
京介が沈黙を破る。
「バカ、阿呆は京介よ」
由良理が突っ込む。
「バカはお姉ちゃんでしょ」
便乗するように、葵が突っ込んだ。
沈黙は、すぐに解けた。
それぞれに、柔らかな笑みが浮かんでいた。
※
舞台裏に向かうと、若葉がいた。
「十希、登録を済ませるからこっちに来てー」
「みんな、ちょっと時間かかると思うから屋台とか見てて」
言うと、十希は若葉の許に向かった。
幼なじみ同士が、その場に残される。
「よしっ! 葵くん、俺と一緒にすべての屋台を制覇しようではないか!」
「――はい?」
いきなりの台詞にびっくりした葵だったが、その意味にすぐ気がついた。
「そだね! ということでお姉ちゃん、雅也くん、あとよろしく!」
気を利かせたのか、二人はそそくさと先に進んで行った。が、すぐに屋台の通りから逸れて、由良理と雅也の後方に身を潜めた。
「京介くんも、気が利くんだね」
「俺は頭がいいからな。あいつらの関係くらい、とっくの昔にお見通しだ」
「へえ、変態なのに」
悪気もなく言い放つ。
「はっはっは、葵くんに言われるとゾクゾクするなあ!」
聞いて、葵は京介のことを本物の変態だと悟った。
ふたり残された由良理は、どうするか悩んでいた。しかし、由良理以上に雅也は緊張していた。
「時間もあるし、わたしたちも屋台でも見る?」
不自然なほど大きな声で、そう言った。
「……」
雅也は俯いた。
「雅也、行かないの?」
「――相手が違うだろ」
少し、悩むような表情を見せたが、雅也はそう答えた。
「へ?」
「十希が戻ってきたとき、誰も待ってなかったら可哀想だろ。俺はいいから、十希のところに行ってこいよ」
「で、でも雅也は……」
由良理の言葉を遮るようにして、雅也が声を出す。
「京介たちを探すよ」
「――いいの?」
由良理が聞く。
その言葉が、雅也の心にひどく響いた。心が痛む。
「早く行ってこい」
「う、うん……」
十希の許へ行こうとして、立ち止まる。
「雅也」
振り向くと、雅也の名前を呼んだ。
「なんだよ」
「ありがとう」
言うと、十希の許へ走っていった。その場に立ち尽くす雅也。すると、そばに隠れていた京介と葵が雅也に近づいた。
「雅也くん――」
葵が声をかけようとして、止める。見れば、雅也は両手の拳をギュッと握っていた。
「雅也、頑張ったな」
京介は、気づいていたらしい。雅也の気持ちに。
「……今日だけだ。今日だけは、由良理のペアを譲る。でも、俺は諦めないから……」
雅也は、十希の許に向かっていく由良理の後姿を見つめながら呟いた。
「由良理に愛想をつかした時は、いつでも俺が慰めてやろう」
「なんでお前に慰められなきゃならないんだよ。ってか、俺たち男同士だろ!」
「お前は性格がアリスに似ているからな」
「アリス?」
「うむ。アニメヒロインの――」
言葉を遮り、雅也と葵のグーが飛んだのは言うまでもなかった。
※
「あら、由良理ちゃん」
若葉が声をかけてきた。
「こんにちは、先生」
先生というのは若菜のことで、不知火と呼べば十希と見分けがつかないし、だからといって名前で呼ぶのは恥ずかしいので自然とそう呼ぶようになった。
「御剣ちゃん、他のみんなは?」
「屋台を見に行きました」
「御剣ちゃんは一緒に行かなかったの?」
「え、まあ……」
「じゃあ、僕と一緒に行こう」
「登録は――」
「もう終わったよ」
ニコリと微笑む。
「は、はい……」
十希の後をついていく。
ふたりは、屋台を見て回った。由良理の心境はドギマギしていた。
もうすぐ、ダンスの舞台があるから、こんなことをしている場合ではないことくらい分かっている。空いてる時間に少しでも練習を重ねて、本番に備えておきたい。
しかし、その気持ちとは裏腹に、今の状況を楽しんでいる自分がいる。
十希とふたりで、祭りを楽しんでいる自分が、そこにいた。少し前まで、考えることすらできなかった光景。話すことすらままならなかった相手。十希は、由良理のことを色んな意味で成長させた。
「あの――」
喉の底から踏ん張り、声を上げる。横に立っていた十希が、顔を向ける。
「さっき、七年前にも水面祭りで踊ったって言ってましたけど……」
「ああ、うん。そのことがどうかした?」
「えっと、その時――不知火くん、ひとりで踊ってませんでしたか?」
「うん、そうだよ」
少し、驚いたような表情で答える。
「赤い衣装で……」
「すごい! なんで知ってるの?」
「あの時の舞台、わたしも見てましたから……」
「そうだったんだ! なんか、凄い偶然だね」
「はい」
楽しそうに笑う十希を見て、由良理はさらに言葉を続ける。
「赤色、好きなんですか?」
今回、由良理と十希が舞台でダンスを踊る衣装は、普段着である。十希は赤いシャツに膝までしかない白のジーパンを穿いていた。
「赤は躍動の色でもあり、情熱の色。そして、黄昏の色でもある。ダンスを踊る上で、これほど似合う色って中々無いよね」
微笑む。そして十希は続ける。
「何事も、楽しまなきゃね?」
十希の笑顔を見て、由良理は決心した。間も無く始まる、ダンスの舞台を、絶対に成功させようと――。
※
出番は、すぐに回ってきた。
由良理と十希がいるのは水面公園に期間限定で特設された巨大な舞台の裏。そこで、自分たちの出番を待っていた。現在、舞台で踊っているのは相良佐奈のペアだった。
「やっぱり上手……」
ぽつりと呟く。しかし、弱気にはなっていない。むしろ、やる気が沸いてくる。自分の隣には十希がいる。横を見れば、十希が微笑みかけてくれる。それだけで、由良理の緊張は和らいだ。
歓声が沸いた。
彼女がダンスを踊り終えたらしい。優勝候補筆頭に相応しい、完璧で、完成度の高い踊りだった。
「いよいよだね」
十希が話しかける。
「そうですね……」
「緊張してる?」
「――少しだけ」
ほど良い緊張が身体中を駆け巡っているような気分だった。
「大丈夫だよ、御剣さんは毎日頑張ってたもん」
そう言うと、十希は由良理の手を握った。
「僕たちにとって、初めての舞台だね」
「は、はい……」
手を握られ、恥ずかしくて石化しそうになった。しかし、
「――みんなが、待ってるよ」
十希の言葉によって、それは自然に消えていた。優しく微笑みかけてくるその瞳には、由良理の緊張を和らいでくれるものが存在した。舞台袖から見える、観客の人たち。
みんなが、自分たちを待っている。
自分たちのダンスを、待っているのだ。そう思うと、ドキドキもしていたし、ワクワクもしてきた。由良理にとって初めての舞台。それは、十希とふたりで幕を開けた。
ふたりが踊るのは、ハイスクールミュージカルという映画で、トロイとガブリエラが歌った『ブレイキング・フリー』という曲だった。
トロイとガブリエラは、舞台に立った。
ガブリエラには、観客の前で歌う度胸がなかった。思うように声が出ない。曲調は止まり、すぐさまトロイが駆けつける。
こんなに大勢の前では歌えない。ガブリエラは涙ながらに告げた。しかし、トロイの瞳には迷いなど存在しない。
ねえ、僕を見て、僕だけを。最初に歌った時みたいに。幼稚園の、時みたいに……。
彼女の心に優しくそっと触れる。それは、とても温かかった。温もりを感じる。再び、音楽が流れ始める。ピアノの甘く切ない曲調が、トロイとガブリエラ、二人だけの舞台を彩るのだ。
二人は見詰め合い、手が触れ合う。
僕らは飛び立ち舞い上がる。
この手に届かぬ星はない。
手を伸ばせば、扉が開く。
互いを信じる二人は、手を繋ぐと舞台の真ん中に歩み出した。まるで全てのものを覆うかのような淡く輝くその心は、触れると一瞬で壊れてしまいそうなほど、脆い。やがて触れ合っていた手は引き裂かれる。
この世界が知っているのは僕らの本当の姿じゃない。
ふたりの間を引き裂いて引き離すこともある。
でも、ふたりの絆が信じる強さをくれた。
自由へ!
飛び立ち、舞い上がる。
この手に届かぬ星はない。
手を伸ばせば、あの扉が開く。
自由への扉が。
曲調はガラリと変化を遂げ、トロイとガブリエラの心の中に闇を作っていた不安という影は、いつの間にか消え去っていた。
海が抑えきれないほど沸き上がる波を感じる?
強い強い感情が魂から沸き上がる。
高く高く舞い上がり世界中に伝えよう。
自由へ!
飛び立ち、舞い上がる。
この手に届かぬ星はない。
手を伸ばせばあの扉が開く。
自由へ。
二人は寄り添い、そしてお互いの夢を語り合う。それは希望でもあり、幻想でもある。信じることで、それはきっと叶うはずだと思っていた。
もう、限界だった。
かれこれ、二分以上は踊り続けている。リハーサルのときは難なく踊れていたはずなのに、いざ舞台で踊るとなるとこんなにも違うものなのだろうか。
緊張が身体の動きを鈍らせ、さらに体力を奪っていく。息が上がってしまう。足がもつれる。このままでは十希に迷惑を掛けてしまう。
隣で踊っている彼は、未だ元気に踊り続けているというのに、わたしは体力の限界に近い。なんて情けないんだ。
でも、わたしは頑張った。
そろそろ、倒れてもいいだろう。
これだけ頑張ったんだから不知火くんも許してくれるはずだよ。
倒れるのが舞台の上ってのはちょっと恥ずかしいけど、仕方ないよ。だって、わたしには残り一分も踊る体力が残っていないから。
二人が踊り奏でるメロディは、終盤に差し掛かっていた。途中、一瞬だけ動きを止めるシーンがある。曲に合わせてポーズを決めるシーンだ。ようやくそこまで辿り着いたが、もう限界だった。ポーズを決めて、そのまま倒れてしまいたい。そう思っていた。だけど、由良理は知ってしまった。
「――――っ!?」
由良理と十希が踊るのを止めて一瞬だけポーズを決めたときだった。
由良理は初めて、観客席に座っている人たちの表情を視界に捉えた。
その表情は、歓喜に溢れているものばかりだった。ふたりのダンスを見て、自然とリズムに乗り、次はどんな踊りを見せてくれるのか、そんな期待に満ち溢れた目をしている。みんなが、見てくれているんだ。
瞬間、由良理は十希の方を振り向いた。彼女は息を切らさず笑顔で観客席の方を見ている。まだまだ踊れるらしい。
そうだ、忘れていた。
わたしは、ダンスを踊るとき一番大事なことを忘れていた。不知火くんに教えてもらったこと、それは笑顔を絶やさないことだ。どんなに辛くても、体力がなくなって限界が近くても、笑顔を絶やしてはダメだと、彼は言っていた。
そんな表情で踊れば、観客も見ていて詰まらなくなってしまう。だから、絶対に笑顔で踊ろう。彼女は教えてくれたじゃないか。
観客席の方に視線を戻す。観客たちの視線を受け、由良理は笑顔を取り戻した。
そうだ、まだ大丈夫。まだ頑張れる。まだ踊り続けてやる。
自然と、力が沸いてきた。つい先ほどまで体力の限界だったはずなのに、それも忘れてしまうほどの勇気が溢れてくる。
もっと、自分の踊る姿を見て欲しい。
もっと、この人たちを魅了させたい。
もっと、ダンスを踊りたい。
ふたりのメロディが再び音を奏でるのを再開したとき、由良理は無我夢中で踊り続けた。
走り続け、登り続けよう。
すべての可能性を実現するために。
今が、その時。
飛び立とう。
自由へ!
希望、なんかじゃない。
これはもう、運命。
ふたりならやり遂げられる。
大切なのはひとりじゃなく、ふたりが自由になること。
飛び立ち、舞い上がる。
この手に届かぬ星はない。
手を伸ばせば自由への扉が開く。
走り続け、登り続けよう。
すべての可能性を実現するために。
今こそ、その時。
飛び立とう。
自由に向かって。
二人は永遠の誓いを交わす。自分たち以外の何物にも囚われることのない、互いを信じ合う心を持つことを。
この世界が知っているのは僕らの本当の姿じゃない。
きっと……
メロディが終焉を迎えたとき、観客席からは大きな拍手と、アンコールの声が聞こえてきた。踊り終えた由良理が十希の方を見やると、彼も視線に気づいたらしくわたしの方を振り向いて微笑み掛けてくれた。
「……はぁ……はぁ……」
一曲、最初から最後まで踊り終えた。
由良理は肩で息をして、正面を向いている。
自分の目の前に広がる光景、それは今までに体感することのなかった素晴らしさを与えてくれるものだった。
自分たちのダンスを見て、感動して、スタンディングオベーションでの鳴り止まない拍手と歓声の数々が、由良理の心を震わせた。
「――これが、ジャズダンス……」
横を振り向く。由良理と同じように正面を向いてポーズを決めている十希の姿が目に入った。
こちらに気付き、柔らかく微笑みかけてくれた。
その時、由良理はこの光景を何処かで経験していたような気がした。
十希の柔らかな笑みは、とても可愛かった。
目を奪われた。そして、心も――。
※
「あの……」
舞台を降りると、由良理は十希に話しかけようとした。しかし、それに続く言葉が思いつかない。いつものことだ。しかし、今日は違っていた。
十希の方から、話し掛けてきた。
「御剣さんと一緒に踊ることができて、本当に良かったよ」
「えっ――」
言うと同時に、十希は由良理の手を握った。
「あ、あの、その……」
恥ずかしくて顔を真っ赤にする。湯気が出ているのではないかと思うほど緊張した。だが、緊張していたのは由良理だけではなかった。
「ありがとね」
その言葉に、由良理は固まった。
十希の表情は、由良理のそれとまったく変わらなかった。
頬を朱に染め上げて、紅潮している。多分、由良理と同じくらい胸がドキドキしているのかもしれない。それはダンスを踊りきった後だからかもしれないが、もしかしたら別の理由でそうなったのかもしれない。真意は分からないが、それでいいと思った。由良理は、十希と出会えたことを心から感謝した。
そして、ジャズダンスとめぐり合わせてくれたことにも感謝した。
「お疲れ様」
十希は柔らかい笑みを浮かべている。その表情に、由良理は戸惑った。
やっぱり不知火くんは格好いい。とてつもなく格好いい。由良理は彼と踊ることが出来て、本当に良かったと思う。
「賞、取れるかな」
聞くと、不知火くんはクスっと笑う。
「そんなものいらないよ」
「え、なんで」
「だって、僕たちは賞が欲しくてダンスを踊ってるわけじゃないよね?」
言われて、そうだったと気づいた。
よく考えてみればそんなことはどうでもいいことだった。
「ダンスっていうのはね、どれだけ楽しく踊ることが出来るかが一番重要なんだよ。自分自身が満足すれば、それでいいんじゃないのかな」
彼は告げた。由良理も、その通りだと感じた。
観客の人たちの視線を浴びたとき、由良理は心底楽しかった。もっと、この人たちをドキドキさせたい、そう思っていた。由良理たちの踊りに、観客の人たちが満足して、そして自分たちも満足する。それだけで幸せな気持ちになってしまう。
「観客席の皆様は、アンケート用紙にご記入をお願いします」
司会の声が聞こえる。
やがて、賞の受賞が開始された。
「最優秀賞は、相良佐奈さんです!」
大きな拍手が巻き起こる。
当然、といった表情で佐奈は由良理の方を見やる。
賞を取れなかったのは少しだけ残念だった。でも、わたしは満足している。だって、不知火くんと一緒にジャズダンスを踊ることが出来たから。
「――それと今回はもう一つ、観客アンケート賞を設けました」
「えっ」
司会者のその言葉に、思わず振り向いてしまった。まだ、賞があったらしい。もしや、と思い、由良理は十希の方を見ると、十希は由良理の方を見てニコリと微笑んだ。
「観客アンケート賞を受賞したのは、御剣由良理さんと不知火十希くんです!」
声が、響いた。
その言葉を聞いたとき、由良理は気づいた。
十希は、予めこうなることを予想していたかのように微笑んでいる。司会者から舞台に呼ばれると、十希が席を立ち上がる。そして、由良理に手を差し伸べてくれる。
「さあ、出番だよ」
「で、出番……?」
言ってる意味が判らず、首を傾げる。
十希の手を握ると、優しく握り返してくれたので心が安心する。そして、由良理と十希はゆっくりと舞台へと上がった。
「では、今回一番観客の心を掴んだお二人に、もう一度踊って頂きましょう!」
言われて、初めて気づいた。
そうか、不知火くんはこのことを言っていたらしい。
「まだ、踊れるよね?」
上目遣いに由良理を見てくる。もちろん、由良理は頷いた。もう一度、十希と一緒に踊ることが出来るだけで、鼓動は高鳴る。
「し、不知火くん!」
由良理は十希の名前を呼んだ。
「どうしたの、御剣さん?」
十希が振り向き、首を傾げる。
次に続く言葉を発するには、勇気が必要だった。今まで生きてきた中で、由良理は一番緊張したかもしれない。それほど、由良理にとって大事なことだった。
「また、わたしと一緒に……踊ってくれますか?」
「――うん、よろこんで」
ふたりは見つめあい、そして微笑みあった。
その様子を、雅也と京介は見守っていた。
「俺、もう帰るから」
雅也は京介に言い残し、その場から去ろうとした。
「――雅也」
京介が呼び止める。
「なんだよ、まだなにか用があるのか?」
京介は、振り向いた雅也の胸に握りこぶしを軽くぶつける。
「頑張れよ、幼なじみ」
「……うるせえ」
その一言に、どれだけの意味が込められているのかが痛いほどに分かる。だからこそ、雅也は強がって見せた。
「こんなの、いつものことだよ……」
目元が緩む。涙が溢れてくるのを感じる。
京介が微笑を浮かべる。
「京介」
「なんだ」
「――ありがとな」
その声は、小さく木霊した。