【GL】ガム
 ちょうど場末のラブホのようにきょろきょろしながら、でももしかしたらアタリかもしれない、そんな顔で彼女が来た。彼女がガムを噛んでいたのでカウンターの図書委員が注意する。わたしの姿を認めると、彼女は図書委員にサムズアップし、すたすたとこちらへ歩いてくる。怪訝そうな、不服そうな顔の図書委員は静かにパイプ椅子へ腰を下ろす。静かであることはいいことだ。うるさくあれば、それだけ運動量が上がることになる。

 しかしこの学校、図書委員の扱いが酷くないか。このエアコンの設定温度はあんまりだと思うんだけど。さらにいえば書庫での力仕事など、女子ばっかりなのに、もはや直視をためらう。
 なんであれ、西陽の思い切り差し込む席に陣取り、彼女はわたしの前でティッシュにガムを捨てる。
 おうちデートならぬ図書室デート。でも快適とは程遠い。ほんとうにメロンクリームソーダがほしくなった。三〇㎝くらいある大きなパフェをふたりで分けてもいい。面倒になったらボウルにぶちまけてカレー用スプーンでがつがつといただく。想像しただけで図書室デートを発起立案した自分を呪い殺しそうになった。

 彼女は座ったまま身じろぎこそするが、立ち上がろうとはしない。もしやどんな本にも興味がないのか? とっておきのブックトークも瞬時にして色あせる。
「もしかして、暇?」
「んー、暇っていうか、口さみしいっていうか」
「なにそれ。禁煙してるの?」
「言葉通りに受け取ったらいいよ。なんていうか、口さみしい」
「はいはい、禁煙がんばってね」
 ややあって彼女は窓の方(図書委員の反対の方)を向き、ミントガムを二粒口に含んだ。
「それ、至近距離だとかなりすーすーするね」
「口の中だともっとすーすーするよ。いっこあげようか?」
「図書室、なにしに来たんだっけ」
「誘った当人がいうなよ。あたしとデートしたかったんだろう? こういう難易度の高いところの方が興奮するんだろう? 素直になりなよ、けけっ」

 カウンターからバネ扉のスイング音がした。
「ごめん、ちょっと口貸して!」
 そう短くいうと彼女は身を乗り出し、わたしの下顎骨のあたりを両手で持つ。舌を使ってガムを強引に口移しする。

 西陽は埃を星屑のようにまたたかせ、夏の風は古い本と青春の匂いを乗せてふわりと舞い、喉元の汗は胸の方へつつ、と伝ってゆく。エアコンは相変わらず半端な仕事しかしない。最終下校まで、時間もわずかだ。
「図書室での飲食は――」
 彼女は口をあんぐりとあけて、「見て。食べちゃった」と、図書委員に見せつけた。渋面を作って図書委員は立ち去った。

「で、だ」
「ん?」
「それ。あたしのガム」
「知ってる。すごくすーすーする」
「返して?」
「口さみしい、ってそういう意味の?」
「鈍いな」
「別にいいけど」

 帰り道、後ろ歩きをして「あのさ、大きくなったら何になりたい?」と彼女が尋ねる。
 駅の西改札からホームまでの地下道では、禁止されている弾き語りが譜面台に向かって歌っていたり、地べたに座ってクレープを頬張る三人組の他校の女子生徒だったり、キスでやめておけなくなったスーツの男女だったり、そんな有象無象がいる中、『大きくなったら何になりたい?』と彼女はわたしに訊いた。

「んー、と。ロースクールまでは現役で行きたい。あとの、たとえば司法試験とか修習生とかは少しくらいダブるかも。でも、弁護士にはなる。そんで、みんなから嫌われる国選弁護人になってやる」
 腕組みをしたまま歩く彼女がずっと俯いているので、どうかしたのかと問う。
「ああ、まあ、なんだ、あれよ。思ったより骨のある答えだな、と思いまして」
「そりゃあ、その、わたしも思ったより骨のあるやつですからねえ」

 並んで歩く。
「そっちは? 大きくなったら何になるの? セーラームーン?」
 彼女は大きくあくびをしたあと、「公衆衛生と疫学の研究医」といった。
「え?」

「防医大で公衆衛生、疫学を専門に学ぶ。学費の返還免除まで奉職したら、退官して旧帝クラスの院で博士後期、そのあと感染研に就職。実績を積んでWHOかCDCに入職。五年くらい勤務してからかな、バチカンで洗礼を受けてマルタ騎士団から騎士の叙勲を受ける。そのあとは世界中の感染症との戦いよ」
「それ、どのへんまで本気なの?」
「ははっ、さあね。医師になるってのは決めてるんだけど、あとのことは分かんねえわ。でも、騎士にはなってみたい。女でもなれるのかな? 女騎士ってクールだと思うんだが」

 地下道からホームへの階段を上るにつれ、ディーゼルエンジン車の油煙が鼻をついてきた。
「空気、悪いね」
「そう? あたしは好きだな、スチームパーンクっ、って感じがして」
 ふたりでどっかとベンチに座り込んで話す。
「わたしはもっと清潔ですーすーしてるのがいい」と、そっぽを向いて口をとがらせる。
「ふうん」
 彼女はそういいながらガムを一粒口に放りこむ。続けて、
「まあ、そういうひとだったんだ。あたし気づかなかったな、二年になるまで」と、彼女はにやにやと笑みを浮かべながらいう。アナウンスが呑気なチャイムと共に流れ、彼女は立ち上がる。
「じゃ、またね――マイ・ディア、ディア」立ち上がり際に彼女は少しわたしの方へかがみ込んで、ガムを口移しする。列車のドアが閉まる。窓越しに手を振る。
 控えめに周りを見渡し、同じ制服の子がだれも見ていないか、見ていたとしても全然違う制服や私服、スーツの連中であることを祈る。
 口の中がすーすーする。喉元の汗が胸に伝い下りて、右か左かに流れる。まあ、おそらくはその間だろうけど。また彼女を図書室に誘おうか。自然と口許が緩む。すごくすーすーする。
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