言いたいことは、それだけかしら?
 私の名前はヴァネッサ・ハニー。伯爵家の長女で、現在21歳。

教育熱心な両親の元で育ち、ありがたいことに短大まで出させてもらって現在は市立図書館で勤務している。

それは図書館に勤め始めて1年目、仕事にもようやく慣れてきたある日のことだった……。

****

返却された本を棚に戻していると、不意に声をかけられた。

「ヴァネッサ」

振り向くと驚いたことに婚約者のジェレミー・クラウンが立っていた。彼も同じ伯爵位で、近衛兵として王宮に務めていた。

「あら? ジェレミー。職場に来るなんて初めてね、一体どうしたの? それに仕事じゃなかったの?」

よく見ると、いつもの騎士の礼装ではなく平服を着用している。

「今日は仕事が休みなんだ。実はヴァネッサに大事な話があって来たのだけど……何時頃仕事が終わりそうかな?」

「そうね、後30分位で終わりそうだけど……ジェレミー。また剣を差して来たのね?」

彼の腰には短刀が差してある。

「……あ、ああ。これがないと、どうにも落ち着かなくて」

ジェレミーは自分の腰にさした短刀を見つめた。

「だけど、ここは図書館よ。よく短刀を差したまま中に入れたわね」

「それは大丈夫だ。確かに入口で止められたけれど、近衛兵の身分証明証を提示したら中に入れてくれたよ。それに、ヴァネッサの友人だと伝えてあるし」

「そう……」

私達は確かに幼馴染でもあるが、婚約者同士でもあるのに? ジェレミーの話し方に若干の違和感を抱きつつも頷いた。

「後、30分で終わるんだな? だったら、図書館の近くにある喫茶店で待っているよ」

「分かったわ」

そしてジェレミーは去っていき、私は残りの仕事を再開した――


****


 窓際の一番奥の席で、ジェレミーは本を読んでいた。

店内には数人の女性客がいたが、全員がジェレミーに釘付けになっている。
スラリと伸びた長身、ブロンドに碧眼で彫像のように美しい顔のジェレミーは確かに人目を引く。

その点、私は平凡だった。
ダークブロンドの髪にヘーゼルの瞳。ジェレミーの隣に立てば、彼の引き立て役のような存在……それが私。
幼馴染であり、家同士が決めた婚約者でなければ2人でお茶を飲むような関係にもなれなかっただろう。

「お待たせ、ジェレミー」

テーブルに近づき、声をかけると彼は顔を上げた。

「あ、来たんだな? 座ってくれ」

「ええ。失礼するわね。何を飲んでいたの?」

「ん? ただのコーヒーだけど?」

「そう、だったら私はホットココアにするわ」

そこで、たまたま近くを通りかかったウェイターにホットココアを注文するとジェレミーが話しかけてきた。

「相変わらず、ヴァネッサは甘い物が好きなんだな」

「そうね。図書館の仕事は色々頭を使うことが多いから」

「なるほど」

そこで本を閉じるジェレミー。

「それで、図書館に来たのは何か話があったのでしょう? 何か急ぎの用事でもあったのかしら?」

私達は婚約者同士ではあったものの、交流することはあまり無かった。子供の頃からの腐れ縁ということもあり、余程のことがない限り会うことはなかったのだ。

しかし、一応は将来結婚する婚約者同士。
パーティーに参加する際は、いつも2人で衣装合わせをして参加していた。

……にも関わらず、ジェレミーにつきまとう女性たちは後を絶たなかった。

やはり彼が人並み外れた美しい容姿をしていることと、近衛兵という国王を守る側近という騎士としても花形の地位にいたからだろう。

そんなジェレミーと地味な私が婚約者同士だということを女性たちがよく思うはずはなかった。
子供の頃から、今現在に至るまで令嬢たちから嫌がらせを受けたことは数知れず。
ノートを破かれたり、教科書を隠されたり……1人だけお茶会の誘いを受けられなかったりと散々な目に遭わされてきた。

まだ子供だった頃は虐められてよく泣いていたけれども、徐々に耐性がつき……今ではすっかり動じない性格になっていたのである。
そのせいで、周囲からは可愛げのない女性だと敬遠されるようになってしまった。

それもこれも、今私の目の前で呑気にコーヒーを飲んでいるジェレミーのせいで……。思わず彼を見る目つきが鋭くなる。

「どうしたんだ? さっきから人の顔をじっと見つめて……?」

ジェレミーが訝しげに首を傾げる。

「いいえ。何でもないわ。それよりも用件を教えてくれる」

「それが……」

そのとき、ウェイターがやってきて、私の前にカップを置いた。

「お待たせいたしました、ホットココアでございます」

「ありがとう」

「ごゆっくりどうぞ」

ウェイターは会釈すると去っていき、再び私とジェレミーの2人になる。

「あ、ごめんなさい。話が中断してしまったわね。それで、どんな用だったのかしら?」

ホットココアの入ったカップを手に取った。

「実は……婚約を解消して欲しいんだ」

ジェレミーは、私の目をまっすぐに見つめる。

……は? 今、ジェレミーは何と言った?

あまりにも突然の言葉に、私は手にしていたココアを一口ゴクンと飲む。
うん、甘くて美味しい。

私がいつもと同じ態度に見えたのだろう。ジェレミーが身を乗り出してきた。

「ヴァネッサ、聞いているのか? 俺は今、君に婚約解消して欲しいと頼んでいるんだが?」

「ええ、聞こえているわ。ただ、あまりにも突然の話で驚いているだけよ」

「……驚いている? 俺にはいつもと同じ、冷静な姿にしか見えないぞ?」

「とても驚いているわ。ジェレミーにはそれが分からないの?」

「悪い、少しも驚いているように見えない」

何と言う言い草だろう。
私が動じない人間になってしまったのは、それもこれも全てジェレミーのせいだというのに?

口を閉じて黙っていると、ジェレミーは言葉を続ける。

「だから……いいよな?」

「は? 何が?」

「だから、婚約解消だよ。婚約破棄だなんて手段は取りたくない。穏便に済ませたいんだよ。何しろ、君は生まれたときから今までずっと隣にいた仲じゃないか」

婚約解消? 
それは私のためではなく、自分の都合なのではないだろうか? 近衛兵として王宮に勤めている彼のこと、出来るだけ不名誉な出来事を避けたいに決まっている。

「あなたの両親は、私と婚約解消したい話を知っているのかしら?」

なるべく感情を表に出さず、冷静に尋ねる。

「いや、まだだ。これから話す。だけど、先に婚約者であるヴァネッサに報告するのが先だと思ってね」

「……」

あまりの言い分に絶句してしまった。
まだ両親には説明していない? 私に報告するのが先? 
大体、報告とは一体どういう意味か分かっているのだろうか? 経過や結果を述べることが報告であり、普通は話し合いというべきなのに?

それを、報告という言葉で済まそうとするなんて……。
でも駄目だ。ここで動揺してはいけない。私が彼より優位に立つには、慌てふためく姿をジェレミーにみられるわけにはいかないのだ。

「聞いているのかい? ヴァネッサ。君は頭も良くて短大も卒業した才女だ。それに今は図書館司書という立派な職業婦人、結婚だけが全てではないだろう? 大体この婚約は親たちが勝手に決めたこと。そこに俺と君との意思は無いのだから」

ジェレミーは身振り手振りで訴えてくる。
自分のことを棚に上げて、婚約解消する言い訳をするとは呆れたものだ。

「ええ、聞いているわよ。ところで先程から婚約解消する言い訳を私のせいにしようとしているけど……何故婚約解消したいか、理由を教えてくれないかしら?」

「そ、それは……。実はグレゴリー宰相に提案されたんだ……自分の娘である、ミランダ嬢が俺のことを気に入って……どうしても結婚したいって……。勿論、婚約者がいるので、受け入れられないと断った。だけど、もし娘と結婚してくれるなら1番隊の近衛隊長に任命すると言われたんだよ。な? ヴァネッサなら俺の気持ち、分かってくれるだろう? 婚約破棄という形では……色々都合が悪いんだよ」

自分の一方的な都合を押し付けつつ、申し訳無さそうに目を伏せるジェレミー。

近衛隊長……それはジェレミーの悲願であった。
代々有名な騎士を輩出してきたクラウン家は全員が若いうちに近衛隊長に任命されている。
だが、一方ジェレミーは入隊して既に6年になるのに未だに副隊長止まりだった。

両親から期待を寄せられているジェレミーは焦っていた。
何としても出世をしたいと、会う度に愚痴をこぼしていた。

「ふ〜ん……なるほど……」

私は、甘いものが大好きだ。甘い飲み物、甘いケーキ……。
一日でも甘いものを口に入れない日は無いくらいに。

けれど、私自身は決して甘い人間ではない。
自分の都合ばかり述べて婚約解消を迫るジェレミーの要求など、決して飲んだりするものか。

「それで? 言いたいことは、それだけかしら?」

私は腕を組んで、ジェレミーに尋ねた。

「え? 言いたいことって……?」

ジェレミーが驚いたように目を瞬く。

「ジェレミーが言いたいことは納得したわ」

「本当か? 本当に納得してくれたのか?」

ホッとした笑顔を見せるジェレミー。

「ええ、勿論。だから他に言いたいことはあるのか、聞いているのよ」

「言いたいこと? そうだな……それじゃ、ヴァネッサ。家に帰宅したら両親に報告してくれないか? 俺との婚約は解消したって。勿論、俺も両親に報告しておくから」

まさか、ジェレミーは私の両親への婚約解消の報告を丸投げしようとしているのだろうか? 冗談ではない、こちらはまだ了承すらしていないのに?

怒りを抑えて、冷静に尋ねる。

「ジェレミー。自分の口から私の両親に婚約解消したいと報告する気は無いのかしら?」

「え? だって……ヴァネッサから報告してくれるんじゃないのか? それに、俺は今からミランダ譲と会う約束があるんだよ」

「何ですって? 今から?」

つい語気が荒くなりそうになる。
まさか、ジェレミーは私に婚約解消を告げたその足でミランダ嬢と会うつもりなのだろうか?

「そうだ、18時に宰相の自宅の庭園にあるガゼボで会うことになっているんだ。そろそろ行かないと間に合わなくてね」

ジェレミーはソワソワと時間を気にしている様子で、懐中時計をポケットから取り出した。

あろうことか、婚約解消を申し出ている私の前で次のデートを気にしている。
もはや、怒りを通り越して呆れるばかりだ。
ジェレミーは単なる幼馴染の腐れ縁としか思っていなかっただろうが、私は違う。
これでも彼のことを好きだったのだ。

私はジェレミーの隣に立てるほど、美しい容姿をしていない。だからせめて彼に恥を欠かせないように勉強を頑張った。そして、図書館司書という仕事に就くことも出来た。
立派な仕事に就けば、彼の隣に堂々と立てるだろうと思って今まで努力してきたのに……?
こんなことで、私との21年間を無かったことにしようとしているなんて、あり得ない。

もう我慢の限界だ。
そこまで私を蔑ろにするなら、こちらにも考えがある。そこで笑みを浮かべてジェレミーに尋ねた。

「それなら、私も一緒に行っていいかしら?」

「え!? ヴァネッサが一緒に!?」

「ええ。だってミランダ嬢は私という婚約者がいることを知っているのでしょう? だとしたら御挨拶に行かなくちゃ」

「挨拶って……一体何の為に?」

心なしか、うろたえる様子を見せるジェレミー。

「私が顔を見せて笑顔で挨拶すれば、ミランダ嬢だって安心出来るんじゃないのかしら?」

「あ、そうか……そういうことか。そうだな、実はミランダ嬢が不安がっていたんだよ。婚約者を奪うような真似をしてしまって相手の女性が怒っているのではないかってね。勿論、そんなことは無いから大丈夫だよと告げてはあるけれども彼女を安心させるためにも、元婚約者のヴァネッサが来てくれた方が良いかもしれない」

「ええ、そうね」

平静を装いながらも、私の怒りは頂点に達しようとしていた。
こっちはまだ婚約解消を承諾していないのに、既に私はジェレミーにとって元婚約者に成り下がっているのだから。

「よし、それじゃ早速行こうか? 今から辻馬車に乗れば時間までには間に合うだろうから」

笑顔で立ち上がるジェレミー。

「ええ、そうね。急ぎましょうか?」

私も笑顔で返事をし、2人で辻馬車乗り場を目指した……。


****

「……それで、ミランダ嬢はつい最近まで、外国の学校に通っていたらしいんだよ。卒業して帰国した際に、偶然城で俺を見かけたらしくて……」

馬車の中で、ミランダ嬢との出会いを嬉々として語るジェレミー。

「ふ〜ん、そうだったのね」

適当に相槌を打ちながら、私はジェレミーへの報復を考えていた。

みていなさい、ジェレミー。

私の名前はヴァネッサ・ハニー。よく皆からは甘い名前だと言われるけれども、私はそんなに甘くない。

私を蔑ろにしたことを、思いきり後悔させてやる。
何しろ、ジェレミーのあの秘密を知るのは、この私だけなのだから。


****


 宰相の邸宅は広大な城の敷地の中にあった。

3階建ての立派な邸宅はまるで城の別館ではないかと思うほどに美しい外観だった。

「知らなかったわ……あれが宰相の邸宅だったなんて」

私は、ほとんど城に来たことはない。
本来なら、婚約者のジェレミーが近衛兵として務めているのだから彼に会いに来ても良かった。
だが、彼は私が城へ来ることを良しと思っていなかったのだ。

きっと私のような平凡な女が婚約者だということを周囲に知られたくは無かったのだろう。
だから私は遠慮して、城に行くことを避けていた。

……全てはジェレミーの為に。
それなのに、私の気持ちを知りもせずに彼は得意げに説明する。

「そうなんだ、宰相は有事の際にすぐに登城出来るように城の敷地内に屋敷を構えているんだ。そこで、たまたまミランダ嬢が俺を見かけて……気に入られてしまったようなんだ」

少しだけ頬を赤らめるジェレミー。

「もしかして、ミランダ嬢は美人なのかしら?」

「そうだな、美人……というよりは、とても愛らしい女性だ。なんというか、庇護欲を掻き立てられると言うか……しっかり者のヴァネッサとは、真逆のタイプだよ」

この男は……私に対して、失礼なことを言っているとは気付いていないのだろうか?
よりにもよって、まだ婚約解消もしていない私の前で別の女性の話をうっとりした眼差しで語るなんて。

「そう、とても愛らしい女性なのね? 私も会うのが楽しみだわ」

自分の怒りの感情を抑えて、その後も笑顔でジェレミーと会話を続けた――



****


 ジェレミーとやってきたのは、黄昏時の美しいバラ園だった。

「このバラ園の奥にガゼボがあって、そこでミランダ嬢と待ち合わせをしているんだ」

随分と慣れた様子で、先へ進むジェレミー。

「ねぇ、もしかしてもう何度もここへ来たことはあるのかしら?」

まさかと思いつつ、尋ねてみた。

「それほどでもないかな……今日で7回目だよ」

「7回!」

その回数に驚いていしまった。私の知らないところで、いつの間に2人はそれほどの逢瀬を重ねていたのだろう?

これは……もう、完全に私に対する裏切りだ。

「どうかしたのか?」

私の前を歩いていたジェレミーが足を止める。

「い、いえ。何でもないわ。ただ、7回もこのステキな場所に来ていたのかと思って驚いただけよ」

「ヴァネッサもそう思うのか? てっきり花には興味が無いと思っていたのに……意外だったな」

「そうよ。花は見ていると和むじゃない」

「ふ〜ん。そういうものか」

そして、ジェレミーは再び前に進み始めた。
そんな彼の後ろ姿を見つめながら思う。

ええ、ええ。そうでしょうとも。
ジェレミーは私に微塵の興味も無かったのだ。私は花が好きだ。夢は誕生日に抱えきれない花束をジェレミーから貰うことだった。
けれど、彼が毎年くれたのは本だった。

『ヴァネッサは本が好きだろう?』

そう言って彼がプレゼントしてくれたのは、その年にベストセラー入した本だったのだ。
……多分、私が図書館司書になったのはジェレミーがプレゼントしてきた本が影響されていたのかもしれない。

少しの間、無言でバラ園の中を進んでいると……ついにオレンジ色の太陽に照らされた石造りのガゼボが現れた。

「お待ちしておりましたわ! ジェレミー様!」

すると、突然バラ園に女性の声が響き渡った。

夕日を背に立つ女性は、こちらからはシルエットになっているので顔がよく見えない。
ひょっとして、あの女性がミランダだろうか? 訝しんだそのとき。

「ミランダ!」

あろうことか私の眼前で、頬を染めて嬉しそうに名前を呼ぶジェレミー。
一瞬彼に対し、軽い殺意を覚えるもグッと堪える。

まだ駄目だ……。ジェレミーを社会的に抹殺するためにも我慢しなければ。

「会いたかったわ! ジェレミー!」

ミランダはドレスの裾をたくし上げると、ジェレミーの元へ駆けてくる。

「俺もだよ、ミランダ!」

「はぁ!?」

私の驚きの声を他所に、ジェレミーは笑顔のままミランダの元へ駆け寄り、2人は夕日の中で熱い抱擁を交わす。

「はぁぁぁっ!?」

思わず驚きの声が漏れてしまう。

何? 一体これは? 喫茶店で私に彼女の話をした時は、ミランダが宰相の娘で見初められてしまったからやむを得ず……というような言い方をしていた。
けれど今眼前で繰り広げられている熱い抱擁は、誰がどう見ても愛し合う恋人同士にしか思えない。

「ジェレミー様、あなたに会えない1日は辛くて辛くて堪らないわ」

「俺もだよ、ミランダ。俺の頭の中は1日中、君のことで常にいっぱいだ」

抱き合いながら、思いの丈を語り合う2人。もはや私の存在など眼中にないようだ。

それにしてもジェレミーめ……。

つまり彼は私と会っているときもミランダのことで頭を占めていたということだ。しかもそれを私の目の前で話すとは……。
もうジェレミーには一切の温情をかけるのはやめにしよう。

そんなことを考えていると、さらにあろうことか2人は私の前で互いの顔を近づけ……キスを……!?

「ちょっと待ちなさいっ!!」

あまりの展開に、つい冷静さを失って大きな声を上げてしまった。

「えっ!? きゃあっ!! あなたは誰!?」

そのときになって初めてミランダは私の存在に気付いたのか、悲鳴を上げて距離を取る。

「あ、そうだったミランダ。忘れていたよ。元婚約者のヴァネッサも、君に挨拶したいと言って一緒に来ていたんだった。驚かせるつもりはなかったんだ。ごめんよ、悪かったね」

甘ったるい声で、ウェーブのかかったミランダの黒髪を撫でるジェレミー。
そんな甘い声で私は一度も語りかけられたこともなければ髪を撫でられたこともない。

ましてや、抱擁されたことすら……。

怒りで身体が震えそうになるのを必死で堪えつつ、私はミランダに挨拶をした。

「はじめまして、ミランダ様。私はヴァネッサ・ハニーと申します。ジェレミーの……」

「今はただの幼馴染だよ。俺達は先程婚約解消をしたからね」

ジェレミーは私に視線を合わすこと無く、勝手に発言する。

はぁ!? 何ですって!?
思わず心の声が飛び出しそうになるところを必死に抑える。

「まぁ! そうだったのですか? 本当にありがとうございます。私、ずっと婚約者の方に申し訳ないと思っておりましたの。ですが恋する気持ちは抑えられず、ついついジェレミー様と逢瀬を重ねて愛を育んでまいりましたの」

「そうですか……そんなに逢瀬を重ねて、愛を育まれてきたのですね?」

私とは一度も育んだことすら無いのに? 

「そうだ、ヴァネッサ。今まで俺は色々な女性に言い寄られてきたけれども、誰にも心惹かれることは無かった。だが、彼女は違った。初めてだったんだよ、こんな気持になれたのは……幼馴染の君なら分かってくれるだろう? 俺が今、どれだけ幸せな気持ちなのかを。応援してくれるよな? 俺とミランダのことを」

「ジェレミー様……」

頬を赤く染めてジェレミーを見つめるミランダ。

もはやジェレミーは、私達が婚約者同士だったことすら記憶の片隅に追いやってしまったのだろうか?
堂々と浮気していたことを告白し、私に悪いという気持ちすら抱いていない。

もうここまで我慢したのだから、いいだろう。

私は伊達に21年間もジェレミーの幼馴染をやってきたわけではない。私は彼の両親すら知らない重大な秘密を握っているのだ。

「お二人共……言いたいことはそれだけかしら?」

私は笑みを浮かべて二人を交互に見つめた

ジェレミーは私の尊厳を踏みにじってくれた。
だから、今度は私が彼に鉄槌を下す番なのだ。


いつの間にか辺りはすっかり暗くなり、ガゼボの周囲にはガス燈の明かりが灯されている。
私の質問にジェレミーは一度首を傾げながら返事をした。

「言いたいこと……? そうだな……。あっさり婚約解消してくれたお礼に、結婚式に招待するよ」

「ええ。それがいいですわね。結婚披露パーティーにも是非、招待させて下さい」

「なるほど……結婚式とお披露目のパーティーにもですか……」

夜になってくれていて本当に良かった。
そのおかげで今の自分の怒りを抑えた作り笑いを見られずにすんだからだ。

結婚を祝う式とパーティーに私を招待?
一体、何処まで無神経なのだろう。私が婚約者であることを周囲の人々は知っている。
事情を知る人々の前で私が出席など出来るはずもないのに。そんなことをすれば両親の顔にだって泥を塗ってしまう。

あまりにも非常識な提案をしてくるジェレミーを断じて許すわけにはいかない。当然ミランダも。

絶対に……二人の仲を引き裂いてやる。

「そう。二人の結婚式に招待してくれるのね? ありがとう」

一度俯き、顔を上げると笑みを浮かべた。

「御礼を言うまでもないさ。真っ先にヴァネッサに招待状を送るよ」

得意げに語るジェレミー。
私に悪いという気持ちは更々無いのだろう。もう、考えは決まった。
これからジェレミーの……私だけしか知らない、彼が隠し通したい事情をさらけ出してやる。

一歩、二人に近づくとジェレミーに声をかけた。

「ねぇ、ジェレミー。私とあなたはもう婚約者同士では無いけれど、幼馴染同士よね?」

「そうだよ、ヴァネッサ。君は俺にとって、大切な友人だ」

「そう、大切な友人と思ってくれているのね? ありがとう。なら私のお願い、聞いてもらえるかしら?」

「お願い? どんなお願いだい?」

ジェレミーは首を傾げる。

「一度でいいの。私を……抱きしめてもらえないかしら?」

「ええ!?」

「そんな……!」

このお願いに、ジェレミーとミランダが驚きの声をあげる。

「だ、だけど……俺はミランダの恋人だし、彼女の前でなんて……」

「ジェレミー様……」

二人は困った様子で見つめ合うも、私は必死に食い下がった。

「もう二度と、こんなお願いはしないわ。最後だと思って、どうか私の願いを叶えてくれないかしら? だって……21年間一度も、私はジェレミーに抱きしめてもらったことがないのよ……」

伏し目がちに、悲しそうな素振りでジェレミーを見つめる。

「え? 一度も……抱きしめてもらったことがないのですか?」

「はい、そうです」

薄明かりの下のミランダの顔には私に対する哀れみとも、同情とも取れる表情が浮かんでいる。

「知りませんでしたわ……それならジェレミー」

「なんだい?」

「ヴァネッサ様がお気の毒だわ。どうか、抱きしめて差し上げて下さい」

「ええっ!? ミランダ、本気でそんなことを言っているのかい!?」

「はい、だってあまりにもヴァネッサ様がお気の毒ではありませんか。……一度も、ジェレミー様に抱きしめて貰ったことが無いなんて……」

チラリとミランダが私を見る。

「う……わ、分かった。他ならぬ君の頼みだ。分かったよ、ヴァネッサを抱きしめてあげればいいんだろう?」

その言葉にまたしても怒りが沸き起こる。
何故、私を抱きしめるのにミランダの許可がいるのだろう? 

でも駄目だ、この怒りを二人に知られるわけにはいかない。今の私は最後の抱擁を望む、哀れな元婚約者を演じなければならないのだから。

「ヴァネッサ、君の最後の願いだ。抱きしめてあげるよ」

ジェレミーが両手を広げて私に近づいてくる。

「ありがとう、ジェレミー」

ジェレミーに抱き寄せられ、私は彼の腰に腕を回した次の瞬間。

今だっ!!

私は素早くジェレミーの腰に差していた短刀を引き抜くと、茂みの中に放り込んでやった。

ガサッと音を立てて、茂みの中に吸い込まれる短刀。
その途端にジェレミーは青ざめた。

「あっ! け、剣が!! 剣が無い!! ヒィッ!!」

情けない声を上げ、て頭を抱えた彼はガタガタ震えはじめた。

「ど、どうしたのですか!? ジェレミー様っ!!」

ミランダが慌てて声をかけるも、ジェレミーの耳には届かない。

「こ、怖い……剣が無いと……お、俺は……俺は駄目なんだ……」

震えながら、うわ言のように繰り返しているジェレミーの目の焦点は合っていない。

「一体どうなさったのですか!? しっかりなさって下さい!」

ミランダがジェレミーの肩に手を触れた時。

「やめろっ! 俺に触るなっ!!」

ジェレミーが叫び、ミランダを激しく突き飛ばした。

「あっ!」

近衛騎士として訓練を受けてきたジェレミーに、か弱い貴族令嬢が突き飛ばされたのだ。勿論、ただで済むはずはない。
彼女の身体は宙を舞い、ドスンと大きな音を立ててミランダは地面に叩きつけられた。

「キャアッ!!」

地面に叩きつけられたミランダは悲鳴を上げ、ついでに泣き声を上げる。

「痛い……痛いわっ!! ひ、酷い! ジェレミー様っ!! 一体何をなさるのよ!!」

ミランダは足首を押さえたままうずくまって涙を流しながら訴える。
見ると、足首が腫れ上がっている。
もしかすると地面に叩きつけられたはずみで骨折したのかもしれない。

「う、うるさい!! お前がいきなり丸腰の俺に触るからじゃないかっ!! 俺は少しも悪く無いっ!! そんなことよりもヴァネッサ! 剣を返してくれよ!! 剣がないと俺がどうなるか……分かっているだろう!? 頼むから……!」

ついにジェレミーは頭を抱えたまま、うずくまってしまった。

「あらあら? いいざまね? ジェレミー。頼りの剣が無くなって、そんなに心細いかしら?」

私は腕組みすると、無様にうずくまるジェレミーと……ついでに倒れ込んでいるミランダに視線を移す。

「ヴァ、ヴァネッサ様! 一体これはどういうことですの!?」

痛みにより、涙を流して訴えるミランダの顔は化粧が取れて散々な有り様になっている。

「あら? ジェレミーと結婚を誓いあった恋人でありながら、ミランダ様は彼の秘密を何も御存知無かったのですか? 」

嫌味をたっぷり込めてミランダを見つめる。尤も、彼の秘密は両親すら知らない。私だけが知っているのだから。

「ひ、秘密って……一体何なのです!?」

「ほら、御覧下さい。ジェレミーの様子を」

私は顎でジェレミーを顎で指した。
そこには大きな体を抱えてガタガタ震えるジェレミーが訴えてきた。

「うう……暗い……怖い……ヴァネッサッ!! 俺の剣を返してくれ! 頼む!」

「剣ならさっき、そこの茂みに放り投げたわ。欲しければ自分で取りに行ったらどう?」

「何言ってるんだ!! こんな真っ暗な場所で……茂みの中に入って剣を探せるはず無いだろう!? ヴァネッサ!! た、頼むから剣を返してくれ!!」

「図々しいわね? 私に婚約解消をお願いしておきながら、まだお願いするつもりなの? でも、冗談じゃないわ。お断りよ」

「そんなこと言わないでくれよ! ヴァネッサ!」

もはや、ジェレミーは嗚咽しながら私に訴えてくる。その様子を唖然とした様子で見つめるミランダ。

「い……一体、これは……?」

「その様子では、やはりミランダ様は何もご存じなかったのですね?  ジェレミーの最大の秘密と弱点を」

「さ、最大の秘密……弱点……?」

「ええ、そうです。ジェレミーは片時でも剣を自分の手に届く範囲に置いていないと、このように我を忘れてしまうのですよ。この症状は自分の手元に剣が届くまで続きます」

「て、手元に剣が届くまでって……」

「それでは、もう夜も更けてきたので私はこれで失礼いたしますね」

一礼すると、踵を返す。
すると背後で悲痛な二人の叫び声が聞こてきた。

「待ってくれ!! ヴァネッサ!! 俺の剣を返してくれよ!! 頼むから!!」

「行かないで下さい!! ヴァネッサ様! 足が……足が痛くて歩けないのです! 誰か人を呼んできて下さい!」

全く、何て勝手な二人なのだろう。私を散々蔑ろにしておきながら、図々しくも助けを呼ぶなんて。
ため息をつき、肩を竦めると二人を振り返った。

「ここはミランダ様のお屋敷のお庭なのですよね? それだけ大声で叫び続けていれば、今に誰か駆けつけてくるのではありませんか? 私は明日も仕事なので、早く帰らなければなりません。それでは御機嫌よう」

暗闇の中でとびきりの笑顔を見せると、足取り軽くその場を後にした。

ヴァネッサとジェレミーの助けを呼ぶ声を聞きながら――


****


――18時50分

「ただいま」

「おかえりなさいませ、ヴァネッサ様。本日はいつもより遅い御帰宅でしたね?」

エントランスでフットマンが出迎えてくれた。

「ええ。ちょっとね、色々あって少し遅くなってしまったわ」

「おや? 何かありましたか? 随分楽しそうに見えますが?」

フットマンが私に尋ねてきた。

「ええ、分かる? とっても良いことがあったのよ。早速両親に報告しようと思うの。二人はどこにいるのかしら?」

「旦那さまと奥様は先程からダイニングルームでヴァネッサ様をお待ちになっております」

「そうなのね、ならすぐに行かないとね」

フットマンにカバンを預けると、急ぎ足でダイニングルームへ向かった。


**

「ただいま戻りました、お父様、お母様」

ダイニングルームにやってくると、早速席に着いている二人に挨拶した。

「おかえり、ヴァネッサ」

「おかえりなさい、今夜は少し遅かったのね?」

「はい、実はジェレミーと会っていたのです。話があると言って彼が職場に訪ねてきたものですから」

私は椅子に着席した。

「ジェレミーと会っていたのか? 珍しいこともあるものだな」

「そうね。特別な予定でも無い限り、会いに来ることなど無かったでしょう? ましてや職場になんて」

父も母も怪訝そうに尋ねてくる。

「それで、どんな用件だったのだ?」

「はい、私との婚約を解消して欲しいとジェレミーが頼んできたのです」

「「婚約解消!?」」

父と母が同時に驚きの声を上げた。

「一体婚約解消とはどういうことだ!? 何故そんなことになったのだ!?」

「ヴァネッサ、何があったの? 教えて頂戴」

両親は目の前の食事には目もくれずに、話の続きを促す。

「はい、ミランダという女性と結婚したいからだそうです。その女性は宰相の娘で、つい最近留学先の学校を卒業して帰ってきました。そこで近衛兵として城に勤務していたジェレミーを見初めたらしいですよ」

肩をすくめて説明すると、父が眉間にシワを寄せた。

「何だって!? グレゴリー宰相の娘か!?」

「御存知なのですか? お父様」

「いや、娘のことは知らないが宰相のことは良く知っているぞ。そう言えば聞いたことがあるな……。宰相は年老いてから産まれた娘を溺愛し、どんな望みも叶えてやっている親馬鹿だとな。娘を傷つける者には容赦が無いとも聞いたことがある」

「まぁ、そうだったのですか」

ふ〜ん……なるほど。つまり、ジェレミーは宰相が溺愛してやまない娘のミランダを突き飛ばして怪我をさせたというわけか。
私にも要因があるのかもしれないが、結果的に彼女を傷つけたのはジェレミーなのだ。
後のことは知るものか。それよりも私は先に手を打たなければならないことがある。

「お母様、確かお母様の身内で新聞記者をされている方がいましたよね?」

「ええ。いるわよ」

頷く母。

「でしたら、今回のことを記事にしていただくようにお願いできますか? 宰相は娘のワガママを聞き入れるために、ジェレミーに私と婚約解消するように迫りました。しかも、もしミランダと結婚してくれたら近衛隊長に任命することを約束したそうなのです」

「何ですって!? 出世をちらつかせて、婚約解消を迫るなんて……なんて卑怯な真似をするのかしら!」

母が顔を歪ませる。

「到底許されない事案だな……よりにもよって、我が家に喧嘩を売るような真似をするとは。それならこちらも遠慮はいらない。徹底的にやらなければな」

ハニー家は伯爵家でありながら、かなり王宮に対しても発言権を持っていたのだ。
だからジェレミーに恋する女性たちは数多くいたのに、誰もが結婚を迫る令嬢はいなかったのだ。
それほどハニー家を恐れていたのだ
この国の宰相がそんなこと知らぬはずはないのに、やはり溺愛する娘のことで盲目になっていたのだろう。

「ええ、お願いしますね。それでは、お父様。お母様、折角のお食事が冷めてしまいますので頂きましょう」

「そうだな」
「ええ、頂きましょう」

こうして話し合いを兼ねた、夕食会が始まった――


****


――22時半

ベッドに入るとジェレミーのことを思い出し、つい笑みが浮かんでしまった。

「フフフ……それにしても、今夜は10年ぶりにジェレミーの無様な失態を見ることが出来たわ」

私は10年前のことを思い返した――


****


 少年時代のジェレミーは、代々騎士の家系であるクラウン家の中で剣術が落ちこぼれていた。日頃から父親や年の離れた兄たちから、厳しい訓練を受けていたものの一向に芽が出ないでいたのだ。

そのことを嘆いたジェレミーの父親は、とうとう恐ろしい試練を与えることにした。

当時、まだ12歳だった彼に長剣1本だけ持たせて狼やクマが出没する森の中に置き去りにしたのだ。生きて森の中を自力で帰ってこいという、何とも厳しい訓練を12歳の少年に突きつけたのだった。

今にして思えば、恐らく父親はジェレミーが森の中で死んでも構わないと考えていたのだろう。既に剣術の腕が立つ3人の息子がいたのだから、弱い息子は必要としていなかったのかもしれない。

けれど、ジェレミーは生き残った。

森に1人放り出されて、3日後。ボロボロになりながらも無事に帰ってきたのだ。
この事実に父親も兄たちも驚愕し、「将来大物になるかもしれない」とジェレミーを認めたのだった。

生還を果たしたジェレミーは相当恐ろしい目に遭ったのだろう。彼は森の中で何があったか決して口を割ることは無かったが、剣を片時も離さなくなっていたのだ。
彼の家族は「剣を片時も離さないとは、騎士として素晴らしい姿だ」と感心していたが、私はそうは思えなかった。

もしかして剣を離さなくなったのではなく、手放せなくなってしまったのではないだろうか?

たった12歳の子供が、3日間も血に飢えた野生の獣たちが生息する森の中を彷徨ったのだ。恐らく彼は何度も何度も死の恐怖を味わったに違いない。

私は将来はジェレミーの妻になる。夫婦として一生を共に歩んでいくのだから、彼が悩みを抱えているのなら支えてあげたい。

そこで私はジェレミーの心の内を知るために、クラウン家を訪ねることにした。


屋敷を訪ねると、ジェレミーは中庭で剣術の訓練をしていると使用人に教えてもらった。
そこで言われた通り中庭に行くとジェレミーが剣を抱えてベンチの上でうたた寝している姿を発見した。
寝るのに剣は邪魔になるだろう……そこで私は彼からそっと剣を引き抜くとベンチの下に置いた。

その時、パチリと目を開けたジェレミーは剣が無いことに気付いてパニックを起こしたのだ。
恐怖で泣き叫んでガタガタ震える姿に驚いた私は急いで彼に剣を返した。
すると途端にジェレミーの発作が治まり……彼は俯きながら私に語った。

『あの時以来、剣を持っていないと怖くて怖くてたまらないんだ。勿論家族だって知らない。こんな姿を知られたら、家を追い出されてしまうに決まっている』

その姿があまりにも気の毒で、このことは二人だけの秘密にすると約束したのだ。

『大丈夫。あなたが裏切らない限り、私は誰にもこの秘密をバラさないから』

と――

****


 恐らく、ジェレミーは私と交わした約束など覚えていないだろう。だから色々な女性たちと平気で浮気していたのだ。
私はそれでも我慢していた。結局彼女たちはみんな、王室の後ろ盾があるハニー家を恐れて離れていったからだ。

だが、今回ばかりはさすがの私も我慢出来なかった。
よりにもよって、宰相の娘と結婚するなんて許せるはずがない。

「この私を裏切るなんて本当に馬鹿な男ね。フフ……明日の号外が待ち遠しいわ」

この夜、久々に楽しい気持ちで私は眠りに就いたのだった。



****


 翌日は祝日で、仕事は休みだった。

 母のお陰でジェレミーとミランダのスキャンダルが町中に号外としてバラまかれ、昼頃には私の手にも号外が届いた。


「フフフ……もう、これでクラウン家も宰相も終ね」

テラスでお茶を飲んでいた母がテーブルの上に号外を置くと微笑んだ。

「ええ、そうですね。何しろ、ジェレミーは実力も伴わないくせに宰相の力で近衛隊長に昇進しようとしていたのですから。きっと周囲から反感を買うことでしょう」

私は紅茶を一口飲んだ。

「それだけじゃないわ、ほら。見てご覧なさい。ジェレミーの浮気グセに、宰相の娘の我儘ぶりが大きく取り上げられているじゃない。ついでに、宰相の横領事件まで暴露されているわ」

母は号外の一部分を指で指し示した。

「そうですね。これには驚きました。新聞社では既に宰相のスキャンダルを事前に知っていたのでしょうか?」

「ええ、そうみたいよ。他にも丁度ネタを探していたところだったみたい。だから、今回の話を記事にして欲しいと頼んだら、大喜びされたわ」

「本当に、スキャンダルな記事ほど人々の関心を買うことはありませんからね?」

そして私と母は互いに笑いあった――


****

――その後。

ジェレミーは近衛隊をクビにされた。
だが、それは当然のことだった。

私が二人を置き去りにしたあの夜、ジェレミーとミランダはガゼボで発見された。
しかも発見したのが、夜勤をしていたジェレミーの同期の近衛隊員だったのだ。

王宮の庭園で見回りをしていたあの夜、宰相の庭園から恐ろしい泣き声と助けを呼ぶ女性の声が聞こえてきたらしい。
慌てて駆けつけてみると、足を痛めたミランダの側で泣き叫んでいるジェレミーを発見した。

彼の話によると、最初は泣き叫んでいる人物が誰か分からなかったらしい。
そこで側にうずくまっていた女性に尋ねたところ、男の名前がジェレミーだと聞かされて大層驚いたそうだ。
パニックの原因になった理由をミランダから聞かされた彼はジェレミーに自分の剣を手渡したところ、ようやく落ち着きを取り戻したのだが……全てはもう手遅れだった。

いくらパニックになっていたとはいえ、宰相の娘に足の骨折という大怪我を負わせたのだ。しかも剣を取り上げられただけで、恐怖で泣き叫ぶような人物は近衛兵としては致命的な欠点だった。
クラウン家はジェレミーの重要な事実を隠蔽した罰として、国王の命令により廃位されてしまった。

尤も、クラウン家はジェレミーのその事実を知らなかったのだから相当衝撃は大きかっただろう。
何しろ、彼の秘密を知っていたのは私だけだったのだから。

一方の宰相自身も横領罪により、我儘娘と共に国を追放されて幕切れとなった。

今回の醜聞は『恋人たちの汚点事件』と名付けられ、広く世間に知れ渡ることになるのだった……。


そして時は流れ――


****


「失礼、もしかするとヴァネッサ・ハニー令嬢ではありませんか?」

「ええ? そうですけど」

国王主催の夜会に参加していた時のこと、ワインを飲んでいるとメガネをかけた見知らぬ青年に声をかけられた。

「ああ、やはりそうでしたか。『恋人たちの汚点事件』でヴァネッサ様の顔写真を拝見したことがあり、まさかとは思ったのですが」

目の前の青年がじっと私を見つめてくる。

「あぁ……あの事件ですか? お恥ずかしいですわ。それにしてもよく私だと分かりましたわね。半年も前のことでしたのに」

「実は図書館で何度かお会いしたことがあるのですが、お分かりになりませんよね?」

青年は恥ずかしそうに頬を染めた。私は少しの間、彼を見つめたが……やはり見覚えはなかった。

「申し訳ございません。覚えがなくて」

「いえ! いいんです。そんなこと気にしないで下さい。大体、図書館には大勢の人が出入りしているじゃありませんか。それに、第一私は平凡な男ですし……」

けれど、私の目には平凡な青年には見えなかった。眼鏡の奥の瞳には知的な光が宿っているように思える。
それに、ジェレミーのように人馴れしていないところも新鮮さを感じる。
少しだけ私は彼に興味を抱いた。

「あの、ところでお名前は何とおっしゃるのですか?」

「あ! これは大変失礼致しました。私は、アレックス・マイヤーと申します。伯爵家の次男で、出版社で働いています。仕事柄図書館に足を運ぶことがありまして、以前からヴァネッサ様を気にかけていました。ただ……ヴァネッサ様には婚約者がいらっしゃいましたから……」

言葉を濁すアレックス氏。

「ええ、そうですね。でも今はおりません。当然御存知でしょうけど」

「勿論知っています。なので、今回思いきって声をかけさせていただいたのですから。……あの、もしよろしければ、あちらの椅子にかけて話をしませんか?」

彼が指さした先にはソファ席があった。

「はい、喜んで」

「良かった、では参りましょう」

「ええ」

私は青年と共に席に向かった。
新しい出会いに、少しのトキメキを感じながら――



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