15年後の世界に飛ばされた無能聖女は、嫌われていたはずの公爵子息から溺愛される

3 王太子

 朝食を終え、しばらく部屋で休んでいると家庭教師の先生がやってくる。
 先生の授業を終えた頃には私の頭は熱々だった。

 午後三時。
 お茶の時間を過ごしながら私はこの日の授業の復習をする。
 複雑な文章の読み書き、歴史、算数の公式など基本的に覚えるものがたくさんある。
 この授業がほぼ毎日。
 めげそうになりそうだけど、頑張ろう。
 それにしてもいい天気。
 今日みたいな日はいつも教会の子たちとピクニックに行ったりしてたのよね。
 みんな元気かな。暇を見て、様子を見に行こう。

「お嬢様、もしよろしければお庭を散策なさいますか?」

 私が外を見ていることに気付いたアリシアさんがそう提案してくれる。

「いいんですか?」
「もちろんです」
「今の時期はネモフィラがとても綺麗ですよ」

 ジャスミンさんが言った。

「ネモフィラ?」
「青くて小さな花です」
「見たいです!」

 私たちは早速、庭に出る。
 お庭にはネモフィラ以外にもたくさんの種類の花が植えられている。
 アリシアさんによると、お庭は春夏秋冬と四つに区切られていて、一年中何かしらの花を見られるような工夫が凝らされているらしい。
 その時、「やあっ!」「とぉ!」という元気な声が聞こえてきた。

「この声は?」
「ヨハネ様ですね。訓練場で剣の稽古をなさっているんです」

 さすがは公爵家の跡取り。そんなこともしないといけないなんて大変だ。

「ご覧になられますか?」
「行ってもいいんですか?」
「もちろん。お嬢様も公爵家の一員なのですから」
「それじゃあ……」

 遠くから見ることくらいは許してくれるよね?
 足を運ぶと、訓練場で大人に混じってヨハネ君が一生懸命、木刀を振るっていた。
 一振りするたびに迫力のある声をあげていた。
 ヨハネ君の相手をするのは公爵様だ。
 ヨハネ君は十歳とは思えない気迫で、公爵様に打ちかかる。
 もちろん公爵様に全ていなされ、そのたびに尻もちをついているけど、ヨハネ君はへこたれず、何度も打ちかかった。
 すごい。
 ちょっと見てすぐ帰ろうと思っていたのに、つい感心して見つめてしまう。
 訓練に励んでいる騎士の方々が私に気付く。

「これはお嬢様」

 騎士団の人たちが私にお辞儀をする。

「ど、どうも、こんにちは」

 ぺこぺことお辞儀を返す。
 ヨハネ君もついに私に気付いたみたいだった。
 汗だくの彼はムッとした顔をする。

(突然来たから怒っているのかな……?)

 ヨハネ君の剣の動きが明らかにさっきよりも精彩を欠き、侯爵様の容赦のない一撃で木刀が手から離れてしまう。

「まったく、情けないぞ! その程度の剣の腕で、公爵家の次期当主として恥ずかしくないのか!」

 今まで見たことがないほど公爵様が激昂する。

「何をしているっ! さっさと立て!」
 肩で息をしているヨハネ君が一向に立ち上がろうとしないのを見かねた公爵様が、ヨハネ君の襟首を掴み、引きずるようにして立ち上がらせる。

「いけません!」

 私は考えるよりも先に声を上げ、ヨハネ君に覆い被さるようにかばった。

「ユリア」
「すみません! 引き取って頂いている分際でこんなことを! で、でも! 怒鳴るだけでは身につかないと思います……!」

 教会では色んな事情を抱えた子がいる。
 その中には当然、実の両親や兄弟からいわれなき暴力を受けて育った子がいる。
 ヨハネ君がそうだというわけではない。
 れっきとした指導なのだろう。でもとても黙って見てはいられなかった。

「お願いします! 暴力をやめてください!」
「……ヨハネ、休憩にする。顔を洗っておきなさい」

 公爵様は立ち去った。
 私は「ありがとうございますっ」と頭を下げ、それからヨハネ君に向き直った。
 ヨハネ君の膝やズボンについた土を手で払う。
 すると、ヨハネ君は私から距離を取った。

「触るなっ!」

 ヨハネ君は顔を真っ赤にして怒鳴ると、私から距離を取り、駆け足で去って行ってしまう。
 他の騎士たちがびっくりしたように、ヨハネ君の背中を見つめる。

(あぁ、余計なことしちゃった……)

 教会の子たちと同じようにヨハネ君を扱うなんて。
 ヨハネ君は公爵家の跡取りで、自分が背負うべきものの大きさを自覚しているだろうに。
 ただでさえ彼は、突然やってきた私を嫌っているのに。
 そんな子を普通の子どもと同列に扱ってしまい、ヨハネ君からしたら侮辱されたと感じたのだろう。
 うなだれ、私もアリシアさんたちと部屋に戻った。



「ぜんぜんうまくいかない……」

 私は部屋の机に突っ伏す。
 家庭教師の先生も顔にはそうとは出さなかったけど、私の物覚えの悪さに呆れていた。

『昨日教えましたよね、何度説明すればいいんですか』

 授業中、何度言われたか分からない。
 おかげで手も傷だらけ。

「お嬢様。手当をなさいませんと」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
「ですが」
「血は出ていませんし、少し腫れているだけです。包帯を巻いたら、公爵様が何かあったのかと心配なさるので」
「……使用人ごときがこのようなことを申し上げるのは誠に僭越とは思いますが、家庭教師の先生のことを、旦那様にご相談されてみてはいかがですか?」
「あの先生は公爵様がつけてくださった人ですから優秀な方です。ムチで叩かれるのは私が不出来なのが悪いんです。公爵家の人間として恥ずかしくないようになりたいんです。だから、わがままは言えません」
「お嬢様、息抜きも大切ですから、外に行きませんか?」

 復習のために机に向かおうとする私を、ジャスミンさんがやんわりと止め、外へ誘ってくれる。
 たしかに今の状態で無理に勉強をしてもうまくいかないかもしれない。

「……そうですね」

 私は気分転換に庭を歩こうと外に出ると、玄関の車止めに立派な馬車が止まっていることに気付く。
 お客様だろうか。
 ここは、ご挨拶をしたほうがいいだろう。

「アリシアさん、お客様がいらっしゃっているんですか?」
「はい。王太子殿下でございます」
「え!」
「ヨハネ様は王太子殿下のご学友でございますので、こうしてよく公爵家に遊びに来られるんです」

 ジャスミンさんが教えてくれる。
 さすがは貴族で一番偉い公爵家なだけあるわ。
 やっぱりご挨拶をするべきね。
 ……ヨハネ君は嫌がるかもしれないけど。

 数日前の訓練場で見せた彼の怒った顔が一瞬頭をよぎるけど、殿下を無視するわけにもいかない。
 挨拶だけしてすぐに戻ろう。
 私は殿下が今どちらにいらっしゃるかをアリシアさんたちに調べてもらう。
 今はヨハネ君の部屋にいるみたいだ。
 部屋の前に到着すると、見馴れない兵士が立っていた。
 マントには玄関前に停まっていた馬車と同じ紋章が描かれている。

「どなたですか?」

 兵士がじろりと私を見てくる。

「こちら、公爵家の長女ユリア様でございます」

 アリシアさんが説明する。

「王太子殿下にご挨拶をしたいと思いまして……」

 兵士は「お待ち下さい」と部屋に入って行く。
 しばらくすると兵士と一緒に、ブロンドの巻き毛に、美しい青い瞳の少年が出てきた。
 私はあまりに綺麗な少年の登場に、思わず呆けたように見入ってしまう。
 ヨハネ君も綺麗だけどシャープな印象がある一方、目の前の子はおっとりとして柔らかな雰囲気をまとう。

(ヨハネ君と、すっごくお似合いだわ!)

 地上に降り立った天使と見紛うばかりだと思う。

「……大丈夫ですか?」

 はっと私は我に返った。

「失礼いたしました。王太子殿下。私はユリアと申します。つい先日、公爵家の養女として引き取って頂きまして……」
「あなたが、聖女様ですね」
「あ、いえ、まだ……見習いみたいなものですが」
「はじめまして。僕はクライス・ヴァンデルハイムと言います。ヨハネとは赤ん坊の頃からの友人です」
「そうなんですね。……ヨハネ君のことよろしくお願いいたします」

 昨日今日公爵家に来たばかりの立場でそんなことを言うのは図々しいと思われるかもしれないが、一応、本当に一応、義理の姉にあたるのでそう言っておく。
 殿下は「分かりました」と笑顔で答えてくれた。

「ところでその手の怪我は?」
「こ、これは、ちょっと馬鹿をしてしまいまして」
「そうですか。お大事になさってください」

 年齢で言えば教会の子たちとそう変わらないはずなのに言葉や気遣いがすでに大人みたいでびっくりしてしまう。

「で、では失礼いたします」
「もうお帰りになるのですか? 良かったら中で話しませんか。どうぞ、入って。ちょうどあなたの話をしていたところなんですよ」
「わ、私の……?」

 私は殿下の肩ごしに室内を見ると、ヨハネ君がいる。
 私は先日のこともあって、尻込みしてしまう。
 ヨハネ君は一度も振り返らなかった。
 その小さな背中は、私に絶対部屋に入るなと主張しているように見えた。

「大変光栄なお誘いですが、私はこれから勉強の復習をしなければいけませんので、申し訳ございません」
「そうでしたか。すみません。事情も知らず」
「殿下が頭を下げる必要なんて……!」

 私はあわあわとパニックになってしまう。

「ではまたタイミングのいい時にまたお話をしましょう」
「は、はい!」

 扉が閉められると、私は無事に挨拶を終えられたことに心の底から安心した。

(王子様ってあんなフレンドリーなんだ)

 私の話をしていたと言っていたけど、どんな話だったんだろう。
 まだ聖女になれてない図々しい女がうちに来て困ってるんだと、ヨハネ君が殿下に相談でもしていたのだろうか。
 もしそうだとしたらどうしよう。
 私はそわそわしながらも自分の部屋へ戻った。
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