しるべ
勿忘草色
若い女性職員は、記入漏れがないか一つ一つ記入欄を指でなぞってマニュアル通りに確認をした。
そこに「波田 佳乃子」と、佳乃子の旧姓も並ぶ。
職員は確認が終わると、これもマニュアルなのだろうか表情のない顔で告げる。

「はい。では受理いたします。」

そう言って戸籍係の職員は佳乃子が出した離婚届を持って奥に消えた。


佳乃子は市役所で離婚届を出し終わった。

暗闇に突き落とされ
闇の波に溺れて
足掻いたり耐えた10ヶ月間
それが呆気なく
紙切れ一枚の
最後の儀式が終わった。

ーー終わった。

余りにも呆気なく終わってしまい動揺を隠せない。
ドラマチックさを求めていたわけじゃないが
こんな簡単に終わる儀式にこれほどまで苦しめられていたのかと何かアンバランスささえ感じていた。
そんな事を思っていたから佳乃子は
終わりを告げた職員の後ろ姿を
ぼんやりと見送ってしまっていた。



数秒で我に返り、平静を保ちながら
窓口から離れて歩き出す。


ーー結婚生活28年間。最後は苦しかった。楽しいことはもっと沢山あった。人生の残り28年以上生きれるとしたらもっといい人生にしよう。きっとできる。

そう自分を鼓舞すると
足が前に出るたびに身体が軽くなる
足取りも軽くなっていく。
古ぼけた長い廊下を新鮮な気持ちで
胸を張って佳乃子は歩いた。


市役所の玄関口を出ると
冷たくても気持ち良い風が
底知れない開放感のように
ブワっと佳乃子の顔に当たった。


「お疲れさん」
声の主は佳乃子にホットコーヒーを渡した。
心配した山城が市役所前のベンチに座って待っていた。
佳乃子もその隣に座った。

「波田 佳乃子になりました。」
幾分すっきりした顔の佳乃子は以前の明るい佳乃子と変わらないように見えた。
山城の心配は高い秋の空に消えて行った。


「おかえりなさい」
と山城が言うと二人は乾杯してコーヒーを飲んだ。

「洋ちゃん。ありがとう」
「うん。
…あっちも、色々譲歩してくれたから
だいぶいい仕事したと思うよ。」
「…そう。」
佳乃子はあっち(浩介)の話になると途端に静かになった。

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