太陽ひとつ、恋ひとつ
七月二十日(土)
『今からそっち行っていい? 話ある』
 あいつからのメッセージを受け取ったのは、現代文の課題を終わらせた瞬間だったりする。
 送り主は男。ただし、彼氏でも友達でも家族でもない。
 返信する前にチャイムが鳴り、思わず「早っ」と独り言を呟いた。
「はいはーい、ちょっと待ってねー」
 閉め切られたドアの向こうから、お母さんの返事、廊下を早歩きする足音、玄関の扉を開ける音が順番に聞こえた。
「どうしたの? お久しぶりねえ。あら、やだ。また見ない内にカッコよくなっちゃって」
「夜分遅くにすいません。ちょっと約束があって」
「いいのよ、気なんて遣わなくたって。七波(ななみ)なら部屋にいると思うわ」
「ありがとうございます。おじゃまします」
「あとでアイスでも持っていくわね」
「あ、大丈夫です。すぐ済むんで」
 すぐ?
 その言葉に引っかかった。
「そう? 欲しくなったらいつでも言うのよ?」
「ありがとうございます」
「ごゆっくりー」
 一つの足音はリビングへ、もう一つの足音は部屋の前で止まる。ノックの音が響いた。しばらくすると、もう一度鳴る。ドアは勝手に開いた。
「なんで開けてくんねえんだよ」
 入室した途端に文句を垂れる、タンクトップに短パン姿の男。
「うおー、涼しーっ」
 同じマンションの隣に住む幼なじみだ。
 三歩でお互いの部屋の前を行き来できるこの距離と関係は、もう十年以上続いている。しかし、彼がうちに足を運んだのは結構久しぶりのことだったり。
「いや、航大(こうだい)がノックするとか意外だったから」
 さっきの挨拶も含め、驚きのあまり体が動かなかった。
「そりゃあ、記念すべきファン第一号の方の前では行儀よくしねえと」
「何、ファンって」
 この男はいきなり何を言い出すのだろう。ぽかんとしている私に「おばちゃんだよ」と説明した。私の母のことだ。
「昔入ってたサッカークラブの試合でゴール決めた俺に、ファン第一号になる、って宣言してくれたんだよ」
「……ふーん」
「すげえわかりやすく興味ねえ反応すんな」
「ああ、それでお母さん、妙にあんたのこと気に入ってるんだ」
 昔から航大には何かと甘かったし、さっきだって、カッコよくなっただのアイスがあるだの、実の娘より扱いが良い。
「ブルーウィング創立者のお言葉、ちゃんと覚えておけよ」
 ブルーウィング。おそらく名字の青羽(あおば)から取ったファンクラブ名か何かだろう。もはやツッコむ気すら起きない。
「それより話って? すぐ済むんだったら、メッセージ上でよかったんじゃないの?」
「盗み聞きかよ」
「聞こえただけ」
 この部屋は比較的玄関に近い位置にあるため、ドアを閉めていたとしても、だいたいの物音や声は聞こえてしまう。
「どうせヒマだからいいだろ?」
 どうせとはなんだ。どうせとは。
「忙しいよ、課題とかあるし」
「もう課題してんだ?」
「早く終わらせたいの」
「相変わらずクソ真面目」
「クソは余計だから」
 ったくこの男は……。一体何しに来たのよ。
 溜息をつきながら勉強机に向かい、開かれたままのノート、シャーペンや消しゴムなどを片づけていく。
「七波」
 やけに真面目なトーンで名前を呼ばれた。
「な、なにしてんの?」
 振り向くと、航大は部屋の真ん中に敷かれたござの上で正座をしていた。突然の奇想天外な行動を凝視していると、指を下に向け「七波も」とまさかの勧誘をしてきた。
「え、なんなの?」
「いーから」
 そう促され、航大の前まで仕方なく移動する。
「これ……、私も正座の方がいいわけ?」
「だと助かる」
 「なにそれ」と呟きながら、言われた通りに正座すると、航大は何かに取り憑かれたように無表情で私を見つめてきた。
「ごほんっ」
 わざとらしい咳払い。一体何を始めようとしているのやら。
「俺らさ、高二じゃん」
「……何の確認?」
 困惑している私を「最後まで聞けって」となだめる。
「来年、受験生なわけじゃん?」
「……そうだね」
「夏休みにすげえ遊べんの、今年が最後ってことじゃん?」
「だろうね」
「なのにさ、今日その夏休み初日だっつーのにさ、まさかのまさかで彼女にフラれたんだよ、俺」
「……は? 何の報告?」
「しかも、同じ塾の男に告られて付き合うことにしたとか意味わかんねえ理由で!」
 航大は確か、今年の春から他校の女子と付き合っていた。
 出会いは合コンだったらしく、付き合った日の夜にしつこく自慢してきたのをよく覚えている。その際に写真を見た――というよりも強引に見せられた――のだけれど、結構可愛い顔立ちの子だった。年は一緒で、パーマをかけていて、なんかこう……、ゆるふわな雰囲気。
 航大が誰と付き合おうが別れようが正直どうでもいいけれど、そのフラれ方はさすがに気の毒に思えてくる。
「つまり、このラストチャンスの夏を俺は独り身で過ごさなきゃいけないってことだ」
 ラストチャンス。独り身。これらの単語を用いることにより、悲しんでいるのかふざけているのかが全く読めない。
「うん、それで?」
「俺と付き合ってくれ」
 耳を疑う、というのはまさにこういうことだと思った。
「ごめん、なんて?」
「この距離で聞こえねえの? ババアか」
「は? 告白した相手にそれ言う?」
「聞こえてんじゃん」
 そう、ちゃんと聞こえていた。付き合って、って言われた。でも信じられなかった。聞き間違い、もしくは航大の言い間違いとしか思えなかった。
「え、何これ。なんて言えばいいの」
「付き合ってくれって言われたんだから、はいかごめんなさいだろ」
「ごめんなさい」
「即答かい!」
 考えるまでもなく一択しかない。と思っていたけれど、「ちなみにさ」と一応確認する。
「これってあれだよね? 少女漫画とかでよく見かける、実は買い物とかに付き合ってほしかった的な、薄ら寒い勘違い系のやつじゃないよね?」
「……お前、急に早口になったな」
 あまりにも驚いたのか、目を見開いてしまっている。
「違えよ、恋人としてだよ」
 聞き間違いでも、言い間違いでも、勘違いでもなかった。
「ますますごめんなさいだわ」
「ますますなのかよ。あ、つーかあれだぞ? 夏休みの間だけだかんな?」
「それこそ意味わかんない。なんでそうなる? って誰もがなると思うよ」
「夏を満喫してえからに決まってんじゃん」
 そんなドヤ顔で言われても困る。
「部活は? 思う存分満喫できるよ?」
「休みの日ぐらいあるよ。その日どうすんだよ」
「友達と遊べばいいじゃん」
「野郎だけの夏はいらん」
「お気に入りの女子誘えば」
「適当に遊ぶだけの女子もなあ……、なんかこう、とにかく『彼女』が欲しい」
「なんなの、もう。じゃあ作れば? ちゃんとした彼女」
「んなことしてたら夏が終わっちまうだろっ?」
 その瞬間、私の中で何かが切れる音がした。
「あーっ、もう! なんでそこだけ真面目で慎重なのかわかんないし、屁理屈ばっかだし、結局何がしたいわけ!?」
「お前がいいんだよっ!」
「……はっ?」
 大声で正論を訴えたはずだったのに、まさかそれを上回る声で反論されるとは思わなかった。
 しかも、お前がいい、って……。
「だから、その、普通に! 幼なじみとして? この夏を楽しもーぜっていう……やつっす」
 頭をガシガシと掻く航大の顔は、心なしか赤くなっている気がする。
「あのさ、それもう幼なじみとしてって言っちゃってるし、私が彼女になる必要ないじゃん」
「違うんだよ、男としては『彼女』と夏を過ごしたいんだよ」
 あまりにもどうでもいいステータスとプライドに、「めんどくさ」と溜息混じりに吐いた。
「いいよ、めんどくさくて。よし、決まりっ」
 跳ねるような口調で言ったあと、自分の膝をパンッと叩き立ち上がる航大。
「え、ちょっと待ってよ。私何も言ってな……」
「デート代は俺が全部持つから! お願い!」
 目の前で手を合わせて放つ言葉は、私の体と口の動きを止めてしまった。
「……それってさ、ご飯代も出してくれんの?」
「うん……、えっ? お、おう、もちろん!」
「映画代も?」
「当たり前だろ」
 まさに、心に光が差してくるような感覚だ。観たい映画は、今月と来月でとりあえず三本はある。
 でも一つ、気になる点が。
「そんな持ってんの? お金」
 アルバイトをしているなんて情報はないし、お年玉なんてとっくに使い切ったことだろうし。
「言っとくけど、ご両親が出してくれるとかなしだかんね? お小遣いもだから!」
「お前なぁ……」
 得意げな表情の航大。ふっふっふ、と薄気味悪い声で笑う。
「夏休み前、俺がどれだけ日雇いのバイトやったと思ってんだよ」
「じゃあ、よろしく」
「って、おい! リアクション薄っ!」
 「そこはカッコいい! とか、素敵! とか可愛らしく言えよ!」などとツッコみ続ける航大を無視し、再び勉強机に向かった。
 結局は金なのか、私。
 知られざる本性に気づいてしまい、そこそこのショックを受けたこの瞬間、私と幼なじみの期間限定の関係が始まった。
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