お荷物令嬢と幸せな竜の子
「ゴーストは出ないと思うが、荒れていて悪いな」
その翌日、ステフに新居を世話してもらって。
「ううん。いつまでも宿住まいは厳しいし……」
「恋人と甘い時を過ごすには、いろいろ気になるし……か」
「……う、な、何よ、いろいろって」
仕事の合間を縫って、掃除や手入れを始めた。
休憩と新鮮な空気を求めて、まだ散らかったままの室内から出る。
からからと笑った後、ステフが頬についたすすを払ってくれた。
「一時はどうなることかと思ったが、落ち着くところに落ち着いたようでよかった。そなたはすごいな、ユリアーナ」
「すごくなんてないわよ。ただ、諦めが悪いだけ」
何も解決していないのに、一件落着みたいに言ってくれるのにちょっと呆れて、すごく嬉しい。
ウィルがいれば、何だって上手くいきそうな気がする――ううん、上手くいくと確信できるから。
「諦めがよすぎる男が根負けしたのだろう。十分すごいと思うが」
ニヤリと笑ったのは一瞬だけで、ステフはすぐに安堵の表情を浮かべた。
その自己犠牲をしがちの優しい人は、ステフと入れ違いに仕事に行ってしまった。
恐らく、私が一人にならないようにしてくれたのだと思う。
そして、ステフと二人になるとやっぱり、あの質問をしたい気持ちには抗えない。
彼に着いていくと聞かなかった子たち数人が、少し離れて遊んでいる。
草木の他は何もないところだったけれど、楽しそうな姿を見守りながら口を開く。
「……あの。ステフは……」
「ユリは魅力的だ。だが、親友の娘に手を出すほど落ちぶれてはいない」
「……お父様の娘じゃなかったら? 」
予想が簡単すぎる問いだったのだろう。
間を置かずに答えるステフに更に尋ねると、苦笑して少しの間言葉を探してくれた。
「理性を失って、そなたを喰らうような狂ったものは湧かない。ユリに好感を持つのは、私が竜であるからというより、その存在自体に対してだと思えるほどの感情だ。はっきり言い切ることができず、すまない」
「……ううん。そもそもその程度なら、誰にだって起こり得る感情だわ。その時点で、私には素質がないんだと思う」
酔わせたり、狂わせたり。
伝説になるくらいなのだから、もっと衝動的で止められないほど狂うものなのだろう。
ステフが例外なのかもしれないけれど、こんな身近に例外がある時点で既に信憑性に欠ける。
「あの若いのには効果てきめんのようだがな。しかし、効くか効かないか、ユリアーナがその伝説の子孫かどうかの真偽は然程重要ではないのだ。残念ながらな」
「え? 」
「今重要なのは、そなたがそうだと言われていることだ。そして、真偽を然程気にしていないらしいこと。……恐ろしいな」
どこを見て言えばいいのか分からないというように、いつも真っ直ぐなステフの視線が僅かに逸れた。
(そっか。どっちでもいいんだ)
私の血に本当にそんな効果があっても、なくても。
竜酔なんて一族が存在しても、しなくても。
ただ事実として、そう呼ばれるものがいて、私がその娘らしいというだけでいい。
「……うん」
自分が何者なのか分からないとも思ったけれど、そんなことは関係ないのだ。
何者であろうと関係ない。
価値をつけられる存在自体が、彼らには価値がある。
ただ、それだけのこと。
「これは心外ですね。私は貴女を信じております。ユリアーナ様」
「……っ、なぜ」
ここを知る人は限られているはず。
慌てて子どもを背中にしたけれど、サミュエルは特に反応を示さなかった。
「寝耳に水のことで、驚かれたでしょう。だから、故郷に帰ってからゆっくりと、と思っていたのですが。まさか、全部話してしまうとは。存外、人ならざるモノというのは弱いのですね」
「……ステフの言うとおり、私は存外ヒトという存在も恐ろしいものだと知ったわ」
竜の中に人間に対して良い感情を持っていないものがいるように、人間にも騙したり悪事を働くものはいる。
そんなこと、知っていると思っていた。
ううん、知ってはいたけれど、幸いにもこれほど直面したのはこれが初めてだ。
「残念です。でも、本来いるべく場所に戻れば、きっとお分かりになるはず。……さあ、参りましょう。その子たちにはまだ、真実を教えてしまいたくはないでしょう? 」
(……どうする……? )
ステフやみんなを巻き込めない。
怪我を負わせるのは論外だし、サミュエルが真実だと言う暴言を聞かせるわけにもいかない。
(……ウィル)
迷っている時間はない。
懐から短剣を取り出すと、困り果てたと微笑むサミュエルには、初めてはっきりと侮蔑の色が見て取れた。
「貴女にそんなものを渡すとは。守りたい女性にすることではありません。如何に口先ばかりで愛を語っているかが分かります。お気を確かに、ユリアーナ様」
「生憎、私は正気よ」
息を呑んだのは、ステフだけ。
子どもたちには背を向けているから、見えてはいないはず。
「これ以上私の大切なものを罵るのなら、竜酔の血なんて絶やしてやるわ。こんな思い、子孫にさせるなんてご免よ」
「……ふ。貴女は、もうあの獣人との間に子どもを授かるつもりでいらっしゃるのですね。なかなかの度胸だ」
自分でもいい度胸だとは思うけれど、サミュエルの台詞のなかには一つも、度胸が必要になることはない。
愛するひとと結ばれるのも。
いつか、もし叶うなら、そんな幸せを授かれたらと願うことも。
ただ一つ、度胸や勇気が必要となるのなら、それは。
――大切なひとたちを守る為に。
自らの首筋に当てた剣先は、けしてブレない。