幽霊の国の狼娘/※耽美風ゴシック?中編+短編

第三章(表) 愛と墓荒らしと僧正様

1
 窓からはキンモクセイの香りの夜気が流れ込んでくる。もう日が暮れていた。

「もう思い残すことなんて、ないわ」

 エステルは燃え尽きたかのように、椅子に揺られている。

 女子修道院直行コース、一名様ご案内。そんな可能性が急速に現実味を帯びてくる。

(最後にちょっとだけ、幸せな夢が見れて、かえってよかったかしら?)

 エステルは声もなく呟く。

 亡き恋人の復讐に利用してやる、などと物騒で身勝手なことを考えながら、その理由付けや動機を言い訳にして、ちゃっかりと本心では気に入ったアロンになびこうとしていた浅ましさ。本質は無節操や浮気根性とあまり変わらないかもしれないし、自覚もあるゆえにさらに葛藤と煩悶。

『何も感じないような、心ない人間になりたい』

 子どものころ、本気でそんなふうに思った。今改めてそれを願う。

 母を邪険にした父伯爵の血が流れているのだから、できたはずだ。

 そういえば、どうして初志を忘れたのだろう?

 きっとアイザックに出会ったせいだ。

『アイザックはわたしを愛してくれる。それにアイザックが偉くなれば、お父様も……』

 そこまで思い出して、エステルは急にさしこみのような痛みを覚える。

 胃の腑をいきなり叩かれたような不快感が続く。

 口許を押さえて、ごくりと唾を飲み込んでようやく吐き気を静める。

 それから意識を混濁させる眠気が襲ってきた。


2
 エステルはうたた寝に、人をたくさん殺す夢を見た。

 やっぱりアイザックのカタキを取って、自分も死ぬのだ。


3
 沈静のための薬を飲まされたエステルはそのまま伯爵夫人の屋敷に留められた。

 居間の揺り椅子にはひざ掛けをかけたキャサリンが舟をこいでいる。

 エステルは二階のベッドに横たわっている。もう午後十一時を廻っていた。

 まどろんだ鼻腔の奥にキンモクセイの匂いが蘇ってくる。

 エステルは起きているのか眠っているのかさえ、判然としない。自分でも自分の状態がちゃんと把握できない。記憶が混乱し、過去と現在の時系列がぐちゃぐちゃにシャッフルされてしまう。

 聞きなれた時計のアラーム。遠く。

(あら、もうアイザックが来る時間だわ……)

 でも来ない。

(会いに行かなくっちゃ)

 エステルは起き上がる。

 彼女は再び白い狼に化身し、音もなく窓から外へ滑り出した。


4
 エステルは懐かしい匂いに導かれ、夜道を駆けていく。

 やがて彼女は、アイザックの墓標の前に辿り着く。

「アイザック」

 人の姿に戻ったエステルはにっこりとして小首をかしげる。

「起こしにきてあげたよ」

 夢心地のエステルは両腕で抱きすくめるようにして、石材の墓標を引き抜く。狼の娘にとって、そんなことは全く造作もないことだった。

 彼女は土に両膝を突いて、白い手で土を掻き分けはじめる。愛のためなら墓荒しだ。

 おかしいと、すぐに気がついた。

 あんまりに土が柔らかすぎるのだ。

 埋葬の直後ならともかく、三日も経てばもう少し固く締まっていても良さそうなものだ。

(誰かが、掘り返した? おかしいわ、こんなの……)

 エステルは自分の一連の狂気の行動の異常さを棚上げし、事態の奇妙さに愕然とする。別に、ありうべからざる出来事を予感する。

 やっぱりだ。いくら掘っても、いっこうに固くなる気配がない。

 彼女は呆然と立ち上がり、膝まで土に埋まって半狂乱になる。もう一度身をかがめて、今度こそ棺を掘り返そうとしたとき、背後から哀れむような声がした。

「おやめなさい」

 あの僧正だった。青ざめたまま頬だけ火照らせている幽霊のような娘に、彼は言った。

「おやめなさい、お嬢さん。遺体はここにはないのです」

 エステルはいきなり両手を伸ばした。まさに奈落の底から。

 少女の細い指が僧正様の襟元を締めあげる。

「どこにっ!」

 やんごとなき乙女は魔術的な紫の双眸に、らんらんと鬼火を輝かせる。

「どこよっ! わたしのアイザック、どこに隠したっていうのっ!」

 狼狽した僧正はひっくり返り、剃った後頭部を石畳にぶっつけた。

 エステルはおかまいなしだ。両腕を上下に振りたくって締め上げ、他人の頭を何度も敷石にガンガンぶっつける。殺しかねない勢いと迫力である。形相は凶悪な悪魔じみていた。

「言えっ! 言えッつってんのっ! このクソ坊主っ!」

 鋭い爪で引っかかれながら、高徳の僧正様は困り顔である。

「彼の魂は、新しい天国に憩っているのです」

 狼の娘エステルはやっと手を離し、飢えた野獣のような呼吸を整えようとしていた。


4
 大伽藍は光を浴びて壮大に浮かび上がり、居並ぶ墓標の海を見守っている。

 かつて「制裁者」として高名だったヨシャパンテ大僧正はエステルの手首をつかむと、素早く起き上がった。

「……おかげんはいかがかな?」

 暴行した側のエステルに、ひっくり返されて頭部を強打した僧正が逆に問いかけた。

 エステルは自分のしでかした無礼を悟り、申し訳なさげに顔を伏せる。腕を振り払う気力もなかったし、仮にその気になっても不可能だっただろう。

「どうって……どう、とおっしゃいますと?」

 僧正は何事もなかったかのように、取り澄まして畳みかける。

「変わったことはありませんでしたか? 精神状態や体調など?」

 思い当たることは山ほどある。

(さっきもわたし、ちょっと狼に変身したような気がするんですけど?)

 驚いたエステルは僧正の整った眉間に視線を据える。

「やはり。一目でピンときましたよ。……あなたはあの翠玉を受けとったと聞き及んでおります。今も持っておいでですか」

 おずおずと頷くうら若き乙女に僧正は種を明かす。

「あれは最初わたしが、寵妾になったマリーアに与えたのですよ。あれでも親しくしていた友人の娘でしてね。ですが愚か極まりないことに、自分から『救い』を手放してしまうとは度し難い」

 エステルははっとした。

「それじゃあ、アイザックは……」

 彼女の期待に反して僧正は冷ややかにかぶりをふった。

「特に意識しての行動ではなかったと思います。偉大な出来事といいますのは、知らずに媒介になる消耗品のような人間が不可欠なのですから」

(消耗品? 消耗品とほざきよるか?)

 エステルは胸が痛くなり、目にも憎悪が表れていたのだろう。僧正は優しくいなしたしなめるように、付け加える。

「ですが彼には一足先に、然るべき報酬を差し上げましたよ」

「然るべき報酬?」

 キョトンとするエステルに、僧正は目線で方向を示した。
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