幽霊の国の狼娘/※耽美風ゴシック?中編+短編
5
 僧院の秘園は列柱廊の道の先、結界のような環状列石に囲まれて守られている。

 左右の飾りの人像柱は向かい合った男女で、それぞれ一対。いずれも動的で写実的な形に彫り上げられていたけれども、だからこそ服装や顔の向きで、どれとどれがカップルなのかが如実にわかる。

 エステルは胸を不安に高鳴らせながら足を運ぶ。グリーンの薄いネグリジェにシルバーブロンドの髪をそよがせて。

(こんなところにアイザックがいるなんて……)

 あの僧正の玄妙で小難しい言葉は今ひとつよく理解できなかった。

(行けば判る、か……)

 巨大なストーンサークルの内側は紅い花の海だった。十字に分割する形で小川のような水路が流れている。流水は湯気をあげて濁った温泉だった。四本が四本とも、色合いが違う。白いものもあれば淡く緑色がかったものも。

(これ、みんな……)

 あの珍しい紅い花だった。人がめったと来ない、立ち入りを制限された聖堂の私有地で大量に植えられていたとは。

 思えば、あの貧民街、幽霊地区はここから近い。種子があのあたりまで飛んでいったとしても不思議はなかった。

(そういうことだったのか……)

 エステルはプールのような水路沿いに敷石された小道を進んでいく。

 川の発端、中央にある大きな二階建ての園亭は白く、オリエンタルな造り。近寄れば線画と浅浮き彫りで草木や鳥獣が描きこまれているのがわかるだろう。箱を保管する、一種の納骨堂なのだという。他にも紅い花園のあちこちに、ごく小さな屋根が散らばっている。

 ここが伝説のエデンの楽園を模していることは明らかだった。

 花と温水の蒸気のせいで、霧のような熱く湿った香気があたり一面に立ち込めている。

 足を踏み入れたエステルはうっとりと肌を火照らせた。ねっとりとした空気が袖口からも忍び入って、からだじゅうに快くまとわりついてくる。

 つとエステルの足が止まる。混乱した頭で考えを巡らせる。

(え?)

 エステルは耳を疑う。よく覚えのある懐かしい気配。二本の腕が、後ろから優しくエステルの細い肩を抱きすくめる。エステルは横目に振り返ってたしかめる。「彼」だった。

『やっと、会えた』

 その言葉を口に出したのが、エステルとアイザックのどちらだったのかわからない。

 アイザックは幽霊ではなく、体温のある実体としてそこに立って触れあっている。

「どうして……死んだんじゃ……」

 素朴な疑問を口にしかけて、慌てて口を噤む。不用意を言っているとまた失いそうで怖い。無意識に探る手が彼の腕と服の裾をしっかりとつかむ。

「この特別な場所のおかげだよ」

 アイザックは楽しい打ち明け話みたいに恋人に答える。

「紅い花は過去を復元するから。あの青い花が何もかも分解して生まれ変わらせるのとは正反対に、ここには永遠の過去が永久に繰り返すんだ」

 向き直ったエステルに口づけが落ちてくる。彼女は目を閉じて受け止めた。

 彼は彼女の手を引いて歩き出した。

 エステルは懐かしい腕にとりすがる。自分から抱きよせた肘に胸をすりつけて、肩口の匂いでもかごうとするみたいに頭を近づける。微笑するアイザックは身をかがめてエステルの膝の裏に腕を差し入れる。ぐいっと抱き上げてお姫様抱っこされ、エステルは小さく悲鳴をあげて両腕を愛しい首にまわす。

 それなのにアイザックは言うのだった。

「もう僕のことは忘れて欲しいんだ……君はまだ生きているんだから……」

 周囲よりも低く落ち窪んだ場所、甘い香気の中には白い泉があった。細い水路で導かれた温水が石造りの円になみなみとたたえられ、湯気が辺りの空気を満たしている。

 並んで縁石に腰を下ろし、靴を脱いで流れに足を浸すのはとても気持ちがいい。

 まるで忘却の川にいるようだ。

 流れに身を浸せば、辛い前世の記憶を何もかも忘れてしまうのだと。

 そしてアイザックは別れを告げた。

「もう僕のことは気にしないで。ここでずっと一緒にいてくれる人が他にいるから……」

「他に……それって……」

 そこで急に世界が暗くなる。


6
 エステルが紅い花の海で目を覚ましたとき、アイザックはもう影も形も見えなくなっていた。

(あれは夢?)

 そんなはずはなかった。そんなはずは……。

(さようなら、アイザック)

 ふらつく足取りで秘園のストーンサークルを出ようと歩き出す。一足ごとにうわつくような気だるさがあった。

 途中、水路の湯気を上げる川の温水に、人影を見つけた。恋焦がれて水に身を投げたオフィーリアのように浮いたり沈んだりしながら流れていく。それなのに死に顔は幸福そのものだったように思う。きっと魂は愛しい人と一緒に、永遠にこの場所に留まるのだろう。

(……幸せそう……)

 恋人の霊にでもとり殺されたのであろう、その知らない女が少しだけ羨ましい気がした。

(でもわたしは、まだ生きている!)

 環状列石の囲いを出るときに、一度だけ後ろを振り返った。

 紅い花の彼方に少年と少女がいた。

(あれは……)

 過去の自分とアイザックだった。一番幸せだったころの。

 むくれてそっぽを向いた幼いエステルの銀色のおつむに、少年のアイザックは花輪をポンとのせる。エステルはちらっと、打ち解けていない婚約者に横目を送る。それから照れ隠しに彼の髪を引っ張った。痛がる彼の顔を怪訝そうに観察し、今度はおでこを指でなぞっている。困惑する彼の髪に、小枝を二本角に挿す。「これで男の子らしく、ちょっとは強そうになった」とひっぱっていく。お母様に見せに。

 あの幸福な日々は、まぎれもなく実在したことなのだ。この魔法の庭ではそんな時間が繰り返す波の反復のように永遠に続いていくのだろう。

 聖域の出口の柱廊の先で、どうしたわけかキャサリンが待っていた(様子の不思議とおよその方向から追いかけてきたらしい)。

「おかえりなさい」

 キャサリンは背中をもたせていた、男性の裸像柱から身を離し、冒険から帰った友人に早足に駆けよる。

「?」

 疲れ果てたエステルは友人の腕の中に倒れこんで、そのまま気を失った。
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