幽霊の国の狼娘/※耽美風ゴシック?中編+短編
7
 屋敷に帰ったエステルを、思わぬ来客が待ち受けていた。自室のドアを開ける前に、気配でそれと察したのだ。

 狼の耳は敏い。窓が空いて風が吹き込んでいるような音が聞こえた。

 ドアノブをつかもうとした手を止め、ドアの前を離れる。にわかに動機が激しくなり、壁に背をつけて様子を探ろうとする。

(誰?)

 住み込みの家政婦は来客のことなど一言も告げてはいない。しかも寝室になど入れるわけがないのだ。

(泥棒?)

 まさかそんなはずはなかった。狼の貴族の屋敷に泥棒など、命が惜しくないわけもない。それにここは内市である。外市の平民が盗賊ごっこに忍び込んでくるはずもない。

 エステルは過去に一度だけ、侵入してきた若者をこっぴどく打ちすえて窓から放り出したことがある。以来、その手の輩は寄りつかなくなっていた。婚約者たるアイザックがいなくなったことにチャンスを見出したとでもいうのだろうか?

 大胆不敵な大馬鹿者である。

(どうしてくれよう)

 エステルは神経的に頬を引きつらせる。

 折悪しく、少しは安らかであっても、やっぱり現実は悲嘆の頂点である。そんな狼(虎)の尾を踏んではならぬ。

 彼女は小さな両の拳をペキポキ鳴らし、ドアを蹴り開ける。弾けるように開いた戸口から、狼の娘は自分の部屋に強盗のように押し入った。

「覚悟はいい?」

 今宵あなたの命はないわ、と続けようとして水を差される。

「何の覚悟だね?」

 太子ホスロー殿下は窓際に腰かけ、夜風にブロンドの髪をなびかせている。左膝を窓敷居に立てて、無造作になげだした右足をぶらぶらさせている。

(太子様? どうして!)

 エステルは唖然とし、垂直に押しつぶされるように跪く。

 式典などでも見ることがあるし、一度など夜会で誘われて踊ったことがある。

 そもそも王族の服装を、どだい間違えるはずがなかった。

 娘は冷や水を浴びせられたようになった。心停止の危険さえあったろう。

「まさか、太子様?」

「いかにも」

「し、失礼いたしました、ご無礼を、あの……」

「いい気なものだ」

 ホスローはエステルの態度の百八十度の急変に微苦笑する。

「あの龍のアロンと、付き合いがあるそうだが?」

 指摘する声の調子には皮肉が混じっていた。
 エステルは赤くなり、冷や汗をびっしょりとかきながら返答に窮する。晩餐会にお供までしたのだから、アロンとのつながりを知られておかしくはないだろう。
 太子は無視して語を続けた。

「……あの龍の客人に、刺客が放たれたようだと知らせてやれ。宮廷の保守派は、あまり良く思っておらんようでな。危険なようなら逃れてもらった方が良い。……なんならお前も一緒に逃げても構わんぞ?」

「はあ……?」

 思いもよらぬ言葉にエステルは目が点になる。

「親父はあの男を殺す気だ。『汚らわしい』とまで吐き捨てておった。最悪、お前もとばっちりを受けかねん。頑固な純血主義者だからな。『修復より滅亡の方がマシ』なんだそうだ」

(そんな……)

 これこそ晴天の霹靂。エステルは足元がガラガラ崩れていくようだった。ショックで脳が壊れそうになる。

「ま、刺客も気の毒だが。なにせあんな奴が相手では……まったく龍というのは! いや、凄まじいのはあの男か……劣化コピーのクセにあの研ぎ澄まされた技量、あれならもし平民種に生まれていても、達人クラスだったろうよ。あんなもん、やぶれかぶれで暴れられたら、狼でも何人死ぬかわからんぞ」

 ホスローは娘の動揺には無頓着に、自分の胴衣の下のギプスを撫でる。アロンを試みた際に蹴られたせいで、肋骨にまでひびが入ってしまっていたのだ。

 エステルは眩暈をこらえ、目をパチクリさせて適切な対応をさぐる。

「その……あのう……」

「余は僧正と先約があるのでな」

 ホスローは一方的に、自分の側の用件だけを告げて会話を終える。腰かけていた窓からそのまま飛び降り、夜の闇に消える。権力者としての常か、さして悪気はなくも身勝手で無作法だった。親切心からの行動ではあるのだろうが。

(僧正様まで、いったい……?)

 窓枠には吹きぬける夜風を残すばかりだ。

(でも今は! アロンさんが危ない!)

 エステルはエステルで、突っ立っている場合ではない。

 途端にエメラルド・タブレットの断片から鮮烈なグリーンの光が溢れ出す。

 放射される魔法の光にエステルのプラチナブロンドの髪はパチパチ火花を上げ、全身を純白の炎が包み込んでいく。その輝きは天上のもの、ウエディングドレスに比べてもひけを取らないような種族の差を超えた美しさだ。

 その艶姿は太古の本質を顕現した、麗しき神秘の獣だった。
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